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見上げた空のパラドックス
たゆたう

 没した都市の夜空は明るい。冷えた砂埃を吸い込まないよう布越しに息をして、並び立つ瓦礫の山の陰で空を仰げば、黒々としたコンクリート片の向こうに無数の星が光っている。
「でもさ、だいぶ減ったよね」
 傍らの少女に声をかける。見れば彼女はゆっくりと空からぼくへ視線を移す。星明かりしか頼りにならない暗闇のさなかでも、その目の青色だけはいつでも鮮やかだ。彼女はぼくの言葉を確かめるためかもう一度上空を仰ぎ見て、そうですね、と言った。幼さにそぐわない淡白な口調も普段通りだ。
「言われてみれば、星、少ないかも」
「ね。こうも毎日見てるとわかるようになるよなあ」
 星が減ったからといってどうということは無い。地上に暮らすぼくらにはあまり関係しない。けれど、宵闇を瓦礫ばかりの砂の海でずっと過ごしていれば、気に留めるべきことなどその程度しか無いのだった。
 だって、この夜は静かだ。寒風がマイクロプラスチックを吹き上げるばかりで、静謐というよりも張り詰めていて、重苦しいというよりは緩やかな沈黙が、もう眠れも目覚めもしない都市の骸を満たしている。そこらを適当に探してみれば、ゴミ、ゴミ、埃、有害物質、それから古びた人間の死体の一部があちらこちらから出てくる。そんな巨大な死の只中で、星明かりがまぶしく見えるようになったというほかに、良かったと言えることなどあるだろうか。
 ふと思うことがある。どうしてこんなところで、いつ崩れてくるかも知れないうず高いコンクリート片の山の陰で、うずくまって眠らなければならないのだったか。これほどのゴミを遺すほどのかつての繁栄を、ぼくらはどうしてうしなったのか。思い出しそうになるのはいつも夜で、だからまあ、さっさと眠った方がいい。
「ごめんね、そろそろ眠るよ」
「はい。おやすみなさい」
 彼女は夜営用のテントを背に膝を抱えたまま動かない。ぼくは軽く手を振ってビニールシートをめくり、ひとり分だけの寝袋に入る。彼女は眠らないのだ。
「退屈じゃないかい」
 問うた。
 かすかに笑むような息遣いがした。
「大丈夫ですよ」
「そう、よかった」
 不器用な契約が守れているのかどうか、ぼくにはよくわからない。

 陽が昇れば忙しくなる。食事の準備をしてテントを畳んで荷物をまとめて、補給が済んだら作業を開始する。
 ぼくの仕事はゴミ漁りだ。この地区に潜り込んで使えそうなものを拾い集め、生きている町へ持っていって売る。お金が貯まるまではそれを繰り返して、貯まったらしばらく生きた町に滞在して遊んで、お金が減ったらまたこの地区へゴミを漁りに出る。そうやって暮らしている。
 ぼくが女の子を拾ったのは、この地区の片隅、多層の瓦礫の下でのことだった。倒壊の際に巻き込まれた人間の白骨が出てくることはしょっちゅうなのだけど、しっかり生きた身体で埋まっているというのは珍しくて、不審に思って引きずり出してみれば、少女はあっけなく目を覚ました。こんにちは、と。世間話でも始めそうなさらりとしたトーンで声を発して。
「助けていただいてありがとうございます」
 なんて口ずさんで彼女は身体中にまとわりついた砂や埃を軽くはたいた。わお、生きてる。しかも元気そうだ。
 あり得ないことだった。
 この地区が没してからはもう何年も経っている。当時奇跡的に無傷で生き埋めにされた人間がいたとしても、今の今まで健康に生き延びているはずは無い。健康な人間が最近になって瓦礫の山の深層に埋まった、と考えるにしても彼女はこの区画に来られるような装備をしていなかった。
 すべてが明らかにおかしくて、おかしすぎて、ぼくはなんだか笑えてきてしまった。
「あっははは、何してるの? きみ、こんなところで」
 彼女は突然笑い出したぼくに戸惑ったようだったけど、きみの存在の方がよっぽどおかしいのだから勘弁していただきたい。
「ええと、……埋まってたんです。見ての通り」
「知ってる。もしかして、五年前からずっとそこにいた?」
 冗談めかして問えば、彼女は腹を抱えるぼくを前にそっと目を伏せた。真昼の晴天を閉じ込めたような青い色の目だった。
「……そんなに経ったんですね」
 ぼろぼろの洋服の胸元を小さな手が握りしめる。感傷をこらえるような仕草をされるといつまでも笑っているのもよくない気がして、ぼくは砂埃避けのマスクを押さえ呼吸を整えた。冗談で言ったんだけどなあ。
 豊かで煌びやかだった都市が一瞬で特大のゴミ山と化した当時、何が起きたのかは誰も知らない。新兵器が秘密裏に使われたのだとも言われているし、隕石が落ちたのだとも、どうせ異能者の暴走だろうとも言われている。ただふと気がつけばすべてが粉々になっていた。でたらめに張り巡らせた糸を果肉に通したみたいに呆気なく。人間もコンクリートも境目なく、そこにあった物質の全部が突如としてバラバラに切り裂かれた。それだけだ。家の破片もしばしば見つかる白骨も、だいたいあちこちが不自然に直線的に分断された格好をしている。
「まるで当時のことがわかるみたいな言い方だね」
 胡乱なまま聞き返した。
「はい。見ましたから」
「本当に生き残りだっていうの」
「本当ですよ」
「ほかのみんなは粉々になったみたいだけど」
「ええ。周りの建物が急に崩れて、身動きがとれなくなって。それからずっと、ここにいました」
「本気で言ってる? それじゃあ、なんできみだけが生きてるの」
「……私は」
 青い目の少女が視線を巡らせた。舞う砂礫に全身を叩かれながらも痛がる素振りひとつ見せず、混沌としたゴミの海の中から、おもむろにプラスチック片を拾い上げる。元は何かの容器であったのだろう直線的な断面、鋭利な割れ目の端を、白い手のひらがぎゅうと握りしめる。そんなことをしたら刺さるのでは、と思って見れば握り拳が開かれて、案の定、先端が皮膚の中に沈んでいるところを見せつけられる。痛そう。
「私は、死ねない構造なので」
 プラスチック片が抜き取られてもつるりとした幼い手は白いままだ。どう見たって傷ひとつなかった。ぼくはまじまじとその様子を見て、少しだけ考えて、辺りを見回して。
「……きみさ。もし暇だったら、ぼくと一緒に働いてくれない?」
 これは良い掘り出し物を拾ったな、と思ったのだ。
 少女は困ったように諦めたように眉尻を下げて微笑んだ。その声はなんら思いの乗らない空虚さを貫いたまま、ひどくつまらなそうに響いた。
「いいですよ。ちょうど長いこと退屈していたところですから」

 ひとの心というのは要らないものが溢れると荒む。ゴミばかりの区画にテントを張って暮らしていると身に染みて思うことだ。
 車が通れる環境ではないからこの区画の深部に出入りするのは難しい。どこに危険物や危険人物が潜んでいるかもわからないのに夜な夜なゴミ山を歩くわけにもいくまいし、ひとたび足を踏み入れた以上は夜営をすることになるわけだけど、この無法地帯には寝込みを襲う輩というのがそこそこいる。高く売れるゴミを集めるなら自分で探して選別するより既に集められたものを奪った方が早いのだろう。
「ひとを殺したことはある?」
 出逢った日の夕刻、夜営の支度を整えながら問うてみると、辺りのゴミを退けてくれていた少女の手がわずかに止まった。
「ありますよ」
 素朴な発音の、ずっと感情を灯さない淡白な声だ。
「どのくらい?」
「まあ、かなり」
「頼もしいな。この辺って危ない奴が多くて。ぼくは戦うの得意じゃないから、もしよかったら、用心棒を頼まれてほしいんだ」
 もちろんお礼はするから、と続けながら寝袋を広げる。当然ひとり分しかないわけで、どうしたものかと思いつつ。
「ちょうど明日から町へ向かって、ゴミを売りに出すからさ。そうしたらいくらかまとまったお金が手に入る。仕事を頼むんだから、できる限りの報酬は出すよ。何か希望はある?」
「ものはいりません。退屈しのぎにだけなれば、なんでもいいんです」
「退屈しのぎ……かあ。難しいことを言うね」
 そうして結局少女はぼくの眠るテントの傍らに一晩じゅう座り込んで過ごした。翌朝になってもけろっとした顔で、食事も一切を断り、はるばるゴミを掻き分け歩くことにも文句を言わない。本当に必要なものは無いのか確認しても、ありません、大丈夫です、とかわされるばかりだった。
 ぼくは道中に興味本位で過去のことを聞いてみた。生きた都市に暮らしていた頃、きみは何をしていたの。少女はとつとつと答える。「普通に生活をしていただけですよ」。ぼくは、そう、と答えてそれきり口を閉じた。この時代、かつてのいわゆる普通の生活を、奪われなかった者の方が少数派だ。幼い子どもから殺人経験があると聞いても驚けないくらいには、とうに狂った世界だから。
 少女の出番はそう時を待たずやって来た。ぼくは気がつかなかったのだけど、後ろを歩く彼女がふと足を止めてぼくを呼び止めて、次の瞬間には事が終わっていた。物陰から飛び出した賊が飛び出したままの勢いで地面へ倒れ、彼女の目の前で動かなくなったのだった。顔面から倒れ込んでゴミに突っ込んだものだから、べしゃ、と痛そうな音がした。
「殺した方がいいですか?」
 彼女は事も無げに小首を傾げて振り返る。ぼくはひらひらと手を振って否の意を示し、やっぱり色々とおかしい気がして笑った。彼女といると、よく笑える。
「なんだか本当に、すごいものを拾っちゃったな」
 彼女は敵を視認しただけで触れもしなかったのだ。一瞬で人間ひとりを殺さずに無力化するなど、どんなに訓練された兵士でも簡単でないはずだった。
「どんな力なの?」
「今のは、毒、です」
「敵に回したくないなあ。きみ本当にやりたいこととか無いのかい? あれば協力するから、なんでも言ってね」
「……考えておきます」
「うん。考えておいて」
 何を言われても付き合うつもりでいた。とんでもないものを拾ってしまったみたいだし、この機に何かが変わるのならいっそ流されてしまいたかった。
 だって、うしなえるものも守りたいものも、もう無いから。ゴミ漁りにだって信念は別段なく、ただ没する前の都市に少し詳しかったから、どの辺りで何が拾えるかの見当がつきやすいという、それだけの理由でやっていることだ。
 そうだ。ぼくは、──ぼくも、退屈だった。
 退屈しのぎにだけなれば、なんでもよかった。

 そうして数日かけて二人で町へ出て、買い取り業者を回ってどうにかこうにか適正価格でゴミを売りつけ、安宿をふた部屋取ってシャワーを浴びて。少女が二人分用意された夕食の席で落ち着かなそうにうつむいて「すみません」と言う。うっかり断り損ねたな、とでも言いたげだった。
「食べられる?」
「はい」
「よかった。嫌いなものがあったらぼくがもらう。好きなものは食べてね」
「……ありがとうございます」
「それと今後の予定なんだけど、明日はとりあえず服を買いに行こう。きみに行きたい場所とか希望が無ければ、明後日にはまたゴミ漁りに戻るよ。飽きなければ、ついておいで」
「わかりました」
 生きた町で摂る食事は毎回感激する美味しさだ。けれども少女はおずおずといった手つきで、表情も硬いままで食べ進めていた。
「知らない奴と食事するの嫌だった?」
「いえ、そういうわけでは。ただその……いつもは食べないし、眠る必要も無いので。わざわざお部屋を取らせてしまったなって」
「久しぶりってことか。それじゃあどうせだから楽しみなよ。たまに町にいる間くらいは、悪くないだろう?」
 彼女の分の食事も寝床も用意しないのはゴミ山にいる間だけにしよう、とその時に決めた。もちろんずっと用意すべきだとは思うけれど、この分だと彼女が戸惑いそうだから。
 人間扱いにあまり慣れていない、遠慮がちな化け物。そういう印象を受けた。彼女がどれくらい前から「死ねない構造」なのか、問うつもりも無いけれど、きっと短くないのだろう。ひょっとしたら、この世界が混乱し出すよりも遥かに前から。
 次の朝は少女がなかなか起きてこなくて部屋を訪ねた。彼女は安宿の薄っぺらなマットレスにじっと仰向けで熟睡していた。あまりに微動だにしないものだから死体と見紛いそうな雰囲気があって、無意味な焦燥に急かされて呼吸を確かめ、かすかな寝息に安堵する。眠れているならいいんだ。
 ぼくは彼女の分の朝食と書き置きをベッドサイドに残して町へ出た。ぼくひとりで済む買い物があらかた済んだ昼過ぎになって、彼女は小走りで姿を見せた。明るい栗色の短髪にまだちょっと寝癖がついている。
「おはよう」
「すみません、遅くまで眠ってしまって」
「構わないよ。よく眠ってたね」
「すみません……寒くないの、久しぶりだったので」
「ふふ。よかった。眠れるのはいいことだよ、謝ることじゃない」
 よく謝る子だった。
 ぼくらは連れたって彼女の着るものを買い足した。彼女は迷う素振りもなく最も安いものばかり選ぼうとするから、ぼくは苦笑混じりにもう少し保ちのいいものを選び直してやった。あの環境へ出るのだから最低限は丈夫なものでないといけない。
「何かほかに惹かれるものがあったら言ってね」
「はい」
 彼女は受け流すように頷くばかりでやはりなんの要望も出さなかった。たぶんまだぼくのことが信用ならないのだろう。ひとまずほかへ行く気も無いようだから、ゆっくり待とうと思う。
 次の日には都市の骸へと引き返す。砂礫避けのヘルメットとマスクが子どもの体格にはやけに似合わなくて笑った。ぼくが押しつけて着てもらったのに笑ってしまって悪いねと謝りながら、乾いた砂を踏みしめて行く。この地区の空はいつもわずかに黄色く濁って見える。真に見えるべきだった澄んだ空色は、彼女の虹彩にだけ不変に宿っている。

「前まではどうしていたんですか」
 何度目かの襲撃者の撃退のあと、彼女がふと問うことがあった。
「ひとを殺したことはありますか」
 問い直される。風の強い日で、彼女は目元を袖で守りながらぼくを見下ろしている。ぱらぱらとヘルメットに打ちつける砂の音がけたたましい。ぼくは座り込んでゴミの選別を続けたまま応じる。
「無いよ」
 プラスチックをよけていく。
「有り金渡して逃がしてもらうことならある。だからちょっと困ってたんだ。本当に助かってる」
 言ってから一瞬だけ顔を上げて、目を合わせて、ありがとうと伝えた。すぐにまた手を動かす。かつてはコンピュータであったのだろう機器の残骸から、貴金属の含まれる箇所を大雑把に分けておく。徒歩で運べる荷物は少ないから高く売れるものだけを拾う。
「異能は使えないんですか?」
「あはは。実用できるほど訓練積める連中なんて、それこそレアメタルより希少だ」
「そういうものですか」
「きみは知らないか。あれから世界中で異能者が増えててさ、大きい事故や事件がたくさん起こってる。みんな怖いんだよ。急に芽生えたよくわからない力で、また何かをうしなうかもしれないと思ったら。だからできるだけ使わない。もちろん、ぼくもね」
 めぼしいものをあらかた拾い終えて、袋をぎゅっと縛った。
「きみこそ、どうやってそこまで使えるようにしたの? 百年かかった?」
 冗談を口ずさんで荷物を背負い直す。また歩き出せば、彼女は指示したわけでもないのにぴったり二歩分空けて後ろについてくる。
「かかったとは思いますけど、忘れましたよ」
「あのさ、気になってたんだけど」
 区画の深部は通り道がろくに整えられていないから、獣道を開拓しながら進むことになる。がさがさとコンクリートやらプラスチックやらと格闘してゆく。少女の手も借りる。手が足りなければ、力も借りる。大きな障害物を破壊してもらうこともあった。
「きみ、自力で出られたんじゃない? 瓦礫の下から」
 ひときわ強い風が吹く。するどく降ってきた小石をとっさに片手で受け止めてみせた彼女は、ばつが悪そうに曖昧な笑みをかたどった。
「ええ、まあ、出ようと思えば」
「出ようと思わなかったんだね」
「あんな状況で、周りに死体しかないの、さすがにわかってましたから」
「五年は長いよ」
「長かったです。寒くてずっと眠っておくのも難しかったから、もう、暇で暇で。でも出てもすることなんてないし、どうせ誰もいないし、って」
 砂礫が服の表面を弾丸のように叩く。ゴーグルを直して進む。
「……で、そこにぼくが通りかかったってわけだ」
「まだ生きてるひとがいたんだって思いましたよ、正直」
「確かになあ。ここに長くいると、何もかも滅んだみたいな気がしてくる」
 見慣れたコンクリート片、見慣れた白骨死体、手慣れたゴミ漁り、露骨な悪意を刃にして向けられることにすら慣れてしまった。滅びの錯覚と慣れの間をふらふらとして、いつの間にか、どんな不条理にもふと気がつけば適応している。流れるまま、終わりの気配を吸って吐く。
「しぶといよね。ここにだってこうして稼ぎに来る奴がいるくらいだから」
「そうですね」
 相変わらず虚ろな相槌だった。
 毎日思う。退屈しのぎになっているのだろうか。ただでさえ代わり映えしないこんな生活で、会話がそう弾むわけでもなく、日々の食事が美味しいわけでもなくて。自然、彼女は一度も心から楽しそうには笑っていない。
「……まだまだ、生きた町もあるからさ。きみが飽きたら、どこかもっと楽しい場所へ行くんだよ。ぼくのことは気にしないでいいから」
 そう伝えておくことにする。喪失への保険は必要だ。
 振り向いてみれば、崩れかけるコンクリート片を押し退けている彼女と、その後ろの道が見えた。たった今やっと通れた道を、細かな砂利やゴミが吹き溜まってたちまち塞いでゆく。帰りが大変そうだなと思いながら、ちらりと方位磁石を見る。
 だいぶ深くへ来た。ここまで来てしまえば賊との邂逅もほとんど無くなる。何年もこの地区に居座っているぼくも来たことが無いような深みでは、冗談のようだけど、ちょっと辺りを見回すだけであちこちに人骨が見え隠れする。
「行きませんよ、今さらどこにも」
 少女が答えた。
「そもそも、時期的にもうここに長くいられるわけじゃないので」
「……矛盾してない? どういうこと?」
「……与太だと思って、暇潰しに聞いてくださいね」
 彼女はその日、風に紛れる小さな声で語ってくれた。彼女の存在と、世界と云うものについての秘密を、ほんの少しだけ。

「世界って、いくつもあって」
 不老不死の身体。彼女は自分がどれほど永く生きてきたのかもうわからないと言いながら、しかし、遠い昔を生きたことは一度も無い、と言い切った。
 決まっているから。
 自分がどれくらいの時代、どの辺りの場所に存在できるのか。
「運命って呼ぶのが早いかもしれませんけど」
 多重に存在する時空において、ひとや町なんかの事物ごとに、存在できる時間や場所の大枠は常に定められているらしい。枠にはある程度の猶予があるけれど、確かに限界は存在し、そう易々と逸脱することはできない。
 だから彼女は己に定められた期限が切れたら世界を出ざるを得ない。別の世界の似た場所、似た時代に、また何度でも流れ着く。
「いつもはだいたい、滅びが始まるか始まらないかくらいで時間切れになるんです。だから今回は長くもってる方で、いつタイムリミットが来てもおかしくありません」
「……いつも滅ぶんだね?」
「ええ」
「そう……」
 与太だとしてもやたらと壮大で、暇潰しにはなる話だった。風の強さへの辟易を紛らすくらいには役立ったろう。
「何より、時間がまだあったとしても、『私』に出逢ってしまったら私は即退場だから」
「え?」
「だから、ひとつの世界に何十年もいられることってそもそも少ないんですよ。それこそ今回みたいに、埋まるなり沈むなりしていない限りは」
「埋まってたことがほかにもあるみたいな言い方だ」
「土も瓦礫も息できちゃうからしんどかったなあ……水の底がいいです、絶対に意識が戻らないから、楽で」
「おおよそきみからしか出てこなそうな言葉だね。ちょっと信じたくなってきたよ」
 真偽なんてどちらでもいい。これは互いの退屈しのぎだから。
「とにかく私、ずっとここにはいられないから。あなたも自衛はできた方がいいですよ」
「ふふ、そうかも。耳が痛いな」
「……全部、聞き流してますよね?」
「うん。駄目?」
「いいえ」
 彼女はどこか呆れたように笑った。気がした。

 日が傾いてきて、夜営できる場所を探す。地面が見えるまでせっせとゴミをどかして、テントを張って食事をひとり分だけ用意する。ゴミ山が茜に焼かれて黒々と影を伸ばしている。ぼくらはその内側に縮こまるようにして過ごして、その夜も星を見る。
「減ったなあ」
 星もひとも町もふと気がついたらいくつも消えているようなこの世界で、少女ひとりくらい異質であったところで、ぼくが何かを知ったところで、何ひとつ変わりはしなかった。どこかで滅びに巻き込まれればそれまでだし、生き残ったのなら生き残ったまま、ぼんやりと終わりにたゆたうだけだ。
 こんな夜にはどうしたって考えても仕方の無いことを考えてしまう。
 ぼくにはうしなえるものが無かった。手元にあるのはゴミばかりで、通じ合える者など誰もいない瓦礫の海で眠って起きるこの暮らしだってゴミで、それならば命だってたぶんゴミだ。巨大な死をひとり食い潰すこの生を、楽しめるほどには豊かでいられない。
 こんな今でいいのだろうか。
 こんな何も無い終わりで。
「退屈じゃないかい」
「大丈夫ですよ」
 変わらない答えだ。
「ねえ、きみがもしも本当にもうすぐいなくなる身なら、やっぱりさ、最後にこの世界でやっておきたいこととか、食べたいものとか、無いのかい? ぼくはなんにでも付き合うよ」
 彼女はすっかり慣れたままテントの傍らに膝を抱えた格好で、布越しに細く息を吐いて、首を横に振った。いつも見る、慣れたはずの光景に、その時ばかりは慣れない感覚がしてぼくはうつむいた。
 無いのか。遠慮して言えないわけではなく、本当に無い。そうか。
 この退屈は変化しない。
 何千回目か、夜を満たす寒風と乾いた砂のにおいがしている。
 反省しよう。ぼくはきっと期待しすぎていたのだ。異質の少女と出逢って、この暮らしが何か少しでも変わればと。当然、少しは変わったけれど。ぼくはしぶとくて強欲な人間だから、傲慢にも、もっとと思ってしまっている。
「……、無い、のかあ……」
 こぼれてしまった声が思ったよりも沈んでいて自分で驚く。彼女も驚いたようにこちらを見て、青い目を揺らして、すみません、とまた謝る。日夜減り続ける星明かりはそれでもまだ彼女の青色を損ねなかった。
「すみません。よくしていただいているのに、言えることが無くて。ただ、本当に……、今はわからないだけなんです。ずっと目指していたことが、昔はあったんですけど、諦めちゃったから。まだ整理がついてなくて……」
 ぼくは自身を宥めるようにゆっくりと顔を上げる。星明かりだけを視界に収めている。ごうごうと風が瓦礫を鳴らしている。
「……、聞かせてくれる?」
「昔のことですか」
「うん」
「昔は……、長いこと、あるひとを探してました」
「あるひとって?」
 風が止む。
「夕陽色の目の男の子を見かけたことはありますか」
「無いよ、たぶん。どういうひとなの?」
「私を殺すことができる、唯一です」
 いつもと同じ、諦念ばかりを含んだ至極つまらなそうな声で彼女は答えた。ぼくは、その夜になってようやく、彼女の抱える膨大な退屈に──失望に、何が巣食っていたのか、その片鱗を知った。
「約束があったんです。次に逢えたら殺してくれるって。でも、実際ははったりで。あのひとに私を殺す気なんてさらさら無い。毎回うまくかわされて、死に損なって、それで終わり。……だったら最初から何も無いのと同じだ。約束も、死ねる可能性も、はなから無かった。それだけのことだった」
 青い目がそっと伏せられる。両膝を抱き寄せている細腕が力を強める。
「飽きちゃったんです。ずっと、ずっと、何をしてでもって、死ねる方法を探してたけど。何をしても無駄で、同じ結果で終わって。退屈で仕方が無かったんです」
 ぼくには想像もつかない永きの話なのだろうとは察した。けれども、ぼくはどこか親しみと共感を覚えながら彼女の言葉を聞いていた。うしなったものや諦めたことの煮凝りがぐるりと脳裏をまわって過ぎてゆく、この感覚にこそとうに慣れきって飽いているから、笑って流せるくらいには平気で、もうどうしても、何があっても平気でいる。乾いた静寂だけが心を占める。ずっと、ずっと、消えない呪いのように。
 うずくまった小さな身体を隣に見下ろして、風の止んだ都市の骸に轟く途方も無い沈黙に耳を澄まして、ぼくはあくびを噛み殺した。もう夜更けだ。そろそろ眠ろう。でもその前にひとつだけ聞いておく。
「今の生活、少しはマシ?」
「楽しいですよ。あなたといるのは」
「……あはは、すっごく信用ならないや」
「そうですか?」
「笑わないからね。きみは」
「……、……」
 彼女が唐突に立ち上がる。少女の足元に踏み潰された砂が鳴って、無風の静寂に染みてゆく。
「どうしたの」
「私は、」
「うわ、何」
 小さな両手がぼくの肩を掴んで、正面から目を合わせられた。透いた空色が、全天の星明かりをかき集めたみたいに暗く、淡く光っている。
「世界が赦すうちは、ここにいます。少なくとも、私の意思であなたのもとを離れるつもりは、ありませんから」
 強く言い含める口調だった。ぼくが目をしばたたいていると、彼女ははっと手を離してうなだれて、またすみませんと口癖を言う。
「……退屈は、してません。今は」
「……そっか。それなら、よかった」
 おやすみ。眠らない少女に片手を振って、ぼくは寝袋に入る。

 目を覚まして、寝袋を丸めて、少女におはようと挨拶して、ゴミをどけて移動したり金目のものを探したりして、食べ物が減ってきたら町へ出て宿をとって売り買いを済ませて。繰り返しは目まぐるしく呆気なく、特別な出来事など起こらずにまたしばらく続いた。彼女は相変わらずつまらなそうに賊を伸してくれているし、ぼくも淡々と仕事と生活を続けるだけだった。毎朝、彼女がもう消えてしまったのではと焦ってテントを出るけれど、まだその瞬間は訪れていない。
「今度はしばらく町に滞在するつもりなんだけど」
「はい」
「きみはまだ何もやりたいこと無い?」
「あなたが嫌じゃなければ、あなたに戦いを教えたいです」
 彼女は初めて明確な回答を出した。決めていた、と言わんばかりに。
「……そうくる?」
「私がいなくなったら死ぬでしょう?」
 確信しきった口振りだった。ぼくは二歩後ろを歩く彼女を振り返りはしないで考えてみる。きみがいなくても、ひとりでもぼちぼちやっていたと思うけど。
「死んじゃうかな?」
「どうして生き延びてるのかが不思議なくらいですよ、こんな無法地帯に丸腰で出入りして」
「あはは、どうしてなんだろうね。うっかり生き延びちゃった」
 戦うのは、得意ではない。できるできない以前に、気が進まない。わざわざひとの暮らしを蹂躙してまで守りたいものも理想も無いのにやってどうなる。虚しいだけだろう。そんな風に考えてしまう。もちろん襲われるのは面倒だし御免だけど、それにしたって。
「ごめんね」
「……なんですか」
「せっかくきみが希望を言ってくれたのに悪いんだけど、ぼくは、そういうのはやめとくよ」
 彼女はそうですかと答えた。会話が途切れて、また歩いた。
 難儀なものだった。退屈だと嘆きながら、けれどわざわざ変化のために足掻く意味も無いからと座り込んで、何もしないから何も起こらない必然を繰り返して、またぼんやりとして退屈を嘆いている。愚かさくらいは自覚しているけれど、だからどうしたいとまでは思えない。これはいつまで続くのだろうか。それこそ死ぬまでだろうか──それなら案外、早めに終わりそうで、いいな。
 ふと足を止めた。止めざるを得なかった。背後から伸ばされた小さな手がぼくの腕を掴んでいた。
「どうかした?」
 また襲撃でもあったかと周りを見回しても景色は変わらず、ぼくは少女に目を合わせる。真昼の晴天がぼくを見ている。
「……あの」
「うん」
「退屈じゃないですか?」
 耳慣れた問いが紡がれる。
 退屈じゃない?
 ぼくが問う時はいつも何を考えていたっけ。心配。確認。ぼくはちゃんと契約通りきみの働きに対価を支払えているのか。きみは明日もここにいてくれるのか。彼女はいつも大丈夫と言って不器用に微笑んでくれた。ぼくの不安を察して、ここにいる、とはっきり言ってくれた。どんな気持ちでそうしてくれているのだろう。
「ぼくは」
 大丈夫。と、紡ごうとして、止まる。止まってしまった。青い目に覗かれていると嘘をつけないような気がした。
「……ちょっと退屈かなあ」
 ゆるりと自分の顔が緩むのがわかった。気まずさを誤魔化すような形式的な微笑だ。きっといつも見る少女の表情にそっくりなのだろう、と、なんとなく悟った。
 彼女が手を離した。
「……あなたは、待っているんですね」
「何を?」
「奇跡的に死ねない理由が新しくできるのを。もしくは、死ねる機会を」
 引かれた線をそっとなぞるような確かさのある言葉だった。散らばるゴミと白骨死体の欠片ばかりが少女の言葉をじっとして聞いている。沈黙がやけに耳の奥で響きまわるから、ぼくは認識を遅らせて、息をして、それから頷いた。
「そうだね、」
 何も無いって、そういうことだ。
「出逢えたと思ってたよ。きみが、ぼくの死ねない理由になるのかもしれないって。でも、違った」
「……、はい」
「気にしないでね。きみには本当にいつも感謝しているんだ」
 ぼくは、ぼくらは、そうしてみたび歩き出した。なんとなくの惰性で、生きるために、生きたくもないのに、否応なく続く日々に引きずられるままゴミを掻き分けた。
 でも別に苦しくも悲しくもない。この巨大な死の示す沈黙が、そのまま心に巣食っているだけだ。どうせ平気だ。うしなうことには慣れたから、何があっても、何も無くても、どうせ平気。
「理由になれなくて、ごめんなさい」
 彼女が謝った。気にしないでと言ったのに。謝り癖のひどい彼女からは何度も謝罪の言葉を聞いたけど、中でもいちばん重たい謝罪に聞こえた。
「なれとは言ってないよ。むしろ、好きに離れていいって言ったはずだ」
「私がひとつでも希望を言えていたら、違ったんでしょう?」
「……いいんだよ。空っぽなのは、お互い様だ」
 そうだね。そうだろう。きみがきみのためだけのワガママをたったひとつでも言ってくれたら、ぼくは変わったと思う。なんでもできたと思う。仕事の報酬だとか適当なことを言って、ぼくの命に理由をこじつけようとしたと思う。ぼくの命という拾いもののゴミを、きみをダシにして宝物だと言い張ろうとしたと思う。なんて、もう望みはしないけれど。
 ぼくはゴミを拾った。今も拾っている。
 それだけの話だ。

 町の宿をふた部屋とって、温かい夕食とやわらかいシーツを堪能して、朝になって少女を起こしに行く。仰向けで微動だにしない眠り方を目にするたび死を感じる。軽く肩を揺すれば彼女はすぐに目を覚まして、ちょっと寝ぼけた声でおはようございますと言う。
「よく眠れた?」
「はい」
「よかった」
 一緒に朝食を摂る。今回の滞在は遊び目的だから普段よりいい宿をとっていてデザートが出る。ぼくは迷わず彼女に自分のフルーツを差し出して、代わりにパンを一個もらった。彼女はいつも甘いものを頬張る時だけ表情が和らぐのを隠せていないから。
「よく食べるようになってくれたよね」
「……はい。いつもありがとうございます」
「うん。ぼくもうれしいよ」
 時間があればな、と思わずにはいられなかった。時間があれば、彼女はきっと少しずつでも回復してゆくだろう。年単位でこの退屈な平穏を続けていられたら、いつかは彼女が物事への意欲を取り戻して、無邪気に願いを口にできる日も来たのだろう。命があるうちはぼくだって待てるし、実際、そのくらいは待つつもりでいた。ただ時間が足りないと知ってしまった。諦めるのは簡単だった。
 ゴミの中で暮らしているから町の歩きやすさには毎度のことながら驚く。癖で後ろにつこうとする彼女に隣を歩くよう言って、必要なものの買い出しと不必要な散策をする。
 世紀末とはいえ生きた町は生きていて、かつての都市の光景を今も見ることができる。大通りには商店が並び、車が行き交い、看板もショーケースも無駄に光って、どこへ行っても音楽が流れている。通りを一本でも外れれば朝から酔いどれが大声を上げているけど、近づかなければなんのことは無い。
「……夢みたい、だよね」
 機能している信号を待つ。規則正しい白線を見つめるだけでも不思議な思いがする。少女はぼくを見たまま黙って言葉の先を促す。
「ゴミの中で暮らしてるからさ。町に出るとふわふわするんだ。この辺は特に前と変わってないから。ぼくの五年間は全部夢で、次の瞬間には覚めるんじゃないか、って気がしてくる」
 信号が変わる。整った舗装の真っ平らな地面を踏みしめる。いつも踏む砂よりよほど硬い地面なのに、感触は浮かんだみたいにふわふわして落ち着かない。
「逆もそうだ。町からあの区画に戻るとさ。きれいな町並みなんて夢だったんじゃないか、本当はもう全部が終わった後なんじゃないかって思う」
 横断歩道の真ん中でふと小さな手がぼくの手を握った。彼女に布を介さず触れたのは初めてだった。やわらかくて少しひんやりとしている。何かと思って視線をやっても彼女は正面を見て歩くだけで何も言わない。まあ、いいか。
 あてどもなく散策をして、彼女がショーケースをちらりと見たからなんとなく小さな雑貨屋を覗いたり、飽きたら近くのカフェに入って一緒に軽食と甘いものを食べたりした。日夜肉体労働に勤しんでいるから半日歩き回ったくらいで疲れることは無い。午後はどうしようか、のんびりしたいね、と言いながら昼下がりの町を行く。アスファルトを踏む間じゅう彼女はぼくの手を握ったままでいた。
「夢なのかも、しれないですね」
 人波を泳ぐさなか、ふと彼女がこぼした。手のひらの温度はとうに揃っている。
「でも、あなたにとっては現実だったらいいな」
 普段はヘルメットに隠れてあまり見ない栗色の髪を見下ろしてみる。でも目が合わなかったから、ぼくも正面だけ見ておくことにする。じんわりと握る手に力が込められている。
「私にとっては、夢ですよ。全部。現実感があるようで無くて。切実だけどおぼろげで。百年経ったら、目が覚めたら忘れる程度のもの、です。あなたがここにいることも、この世界がいつか終わることも」
 確かに刻めることは、私には、ひとつもありません。彼女は冷えた声で淡々と続けた。
「だから。……あなたにとっては現実だったら、いいなあ……」
 繰り返されたそれが、彼女が初めてぼくに告げた本気のワガママだったと、理解するのには数秒を要した。一歩、二歩、進んで、理解して、理解した瞬間に足が止まって、息が止まって。彼女が不思議そうに振り向いた。周囲を歩くひとびとが怪訝そうにぼくを見て去ってゆく。
 自分の心臓の音が一回分、やけに大きく耳の中に木霊する。手のひらが熱を上げたから彼女にも伝わったと思う。まだ名状しがたい何らかの衝撃は、しかし、行く末が決まっているとばかりにぼくの爪先の方向を定めた。一目散に、宿へ戻る。彼女の手を引く。
「え、ちょっと、どうしたんですか」
「…………」
「私、失礼なこと言いましたか?」
「言ってないよ、安心して」
「ええっと……」
 足を進める。彼女はほとんど小走りになってついてきている。ごめんね急がせて。困るよね。わかってる。わかってる。わかってしまった。
 ぼくはぼくが思っていたより遥かに強くその答えを渇望していたのかもしれない。願っていたことや願えなくなってしまったことの全部がきれいにうまくまとまる答えだ。予感に鼓動が逸っている。呼吸は噛み殺してしまって苦しい。苦しいくらいは今さら本当にどうだっていい。答えがわかった。果てしなく思えた失望と諦念の、この退屈の終わりが見えた。今はそれだけで十分だ。鼓動が熱い。生きている。苦しい。
 流れるように黙々と部屋へ戻った。彼女の手を握ったまま、扉を閉めて、息を吐いて、声を潜めて、言葉を吐いた。
「きみにお願いがある。ほんの少しでも嫌なら迷わず断っていいから」
「はい」
「ぼくを、殺してほしい」

 思い出せもしない喪失の残骸が、脳裏を伝っては過ぎ、また伝っては過ぎてゆく。このおぞましさを、安堵を、絶望を繰り返すための覚悟は決まっているつもりでいた。どうせへらへらとやっていればどこかで死ぬ、それまでの辛抱だ。そもそももう辛抱する必要すら無いほどに、感傷ごとうしなった、だからどうでもいいことだ。何も無い。何も無い。思い出す。思い出さない。日々にたゆたう。夢のような終わりをゆらりゆらりと。ああ、退屈だ。退屈は苦痛には届かない生ぬるさで、いつまでも続く。
 そこにきみが現れた。何もかもがおかしかった。おかしすぎて笑えてきた。退屈が和らいだ気がした。きみのためならこのゴミみたいな人生をどうにかしてしまってもいいと思った。思ったけれど、きみは丁寧にぼくの暮らしを守った。決して踏み荒らすこともねじ曲げることもなく、慎重にこの退屈に触れ、隣にたたずんだ。それだけだった。足りない、と思った。きみのための何かをしてみたい。きみのワガママを聞いてみたかった。
「嫌なら、いいから」
 刻みたいなら刻んでほしい。この現に、誰もどうしても覆せないくらいの事実を、最も大きな衝撃で。きみの手で、ぼくをこの永い夢から覚ましてほしい。
 彼女は眉尻を下げて微笑んだ。色んな気持ちを誤魔化すような、いつもの顔だ。
「正直、いつ言い出されるかと思っていました」
「……わかる?」
「わかりますよ。空っぽなのは、お互い様です」
 繋いでいない方の手が持ち上がってぼくの頬に触れる。繊細な壊れ物に触るような手つきだった。
「どうして断ってもいいなんて言うんですか? 私が断ったら、あなたは、どう感じるんですか?」
「どうって、それはそれで、今まで通りだよ。諦めるだけだ」
「じゃあ、頷いたら?」
「まだ頷かれていないから、わからないよ」
 ひんやりとした指先が離れてゆく。ぼくは縋るように彼女の目を見ている。その目が、少しずつ揺れて、泣き笑いの表情まで移ろうのを、じっと息を詰めて見つめている。握りしめた幼い手が震える。
「私が断れると思っているんですか?」
 真昼の晴天が水の向こうに滲んでゆく。いつか雨になる。
「何度……、何度私が、その頼みを、断られてきたと……っ」
「大丈夫。ぼくの気持ちとかそういうのは、考えないでいいから。きみがいいかどうかで決めて」
「それですよ。どうしてあなたの願いをあなたが大切にしないんですか? そんなだから何もできなくて退屈するんだって、わからないんですか」
「ふふ、厳しいなあ。ありがとう。ぼくのために怒ってくれて」
「……生きたくは、ないんですね?」
「これっぽっちも」
「わかりました」
 一滴だけ涙がこぼれそうになっていたからぼくが拭った。不死の子も涙くらいは流すんだなあ、と失礼なことを考えた。彼女は握っていた手をそっと離してうなだれる。
「私が、あなたを殺しましょう」
「……よかった」
 口癖が出た。休日の昼下がり、ほんのりと暖かくて、穏やかな心地でいた。
 とりあえず荷物をまとめて宿を出る。町中はさすがにちょっとな、ということでいつものゴミ山へ向かうことにする。すぐやってしまえばいいのに、どうしても他人様に迷惑かなと思うと尻込みしてしまう悪癖が互いにあるらしい。急ぎ足で区画へ。町に近い辺りはかなり道ができていて歩きやすく、奥へ進むほどゴミ山の連なりは区切れのない瓦礫の海に変わってゆく。慣れた砂のにおいがする。雲が出て、珍しく湿った風が吹きつける。本当に雨になりそうだ。この区画で雨といったら作業もしにくくなるし異臭がするしでいいことが無いから、ちょっとげんなりする。早く終わらせよう。
「ここでいいよ」
 ぎりぎり無法地帯に入ったくらいで少女に声をかける。辺りはもう暗くて、雲が出ていなければ日没が見えただろうか。振り向けば彼女はきっかり二歩分後ろで小さく頷いた。
「死に方に理想とかありますか? だいたい対応できますよ」
「こわ。きみやっぱり特殊な訓練受けてるよね?」
「……殺し屋だった時期が長くて」
「今さら驚かないよ」
「適当にやりますね」
「そうして」
 対峙する。
 ぽつり。ヘルメットを水滴が叩いた。
「最期に言いたいことは?」
「そういうのも別に無いかな」
「そうですか。……あなたらしいですね」
 くすりと笑う、きみの笑顔は今も冷え切ったまま。
 夕立だ。降り始めから本降りまで一分とかからない。重たく垂れ込める雨雲が青も星も隠してしまうからなんだか寂しい気がして、一歩だけ距離を詰めた。大丈夫だ。この世界からは薄れてゆく青も星も、きみがその目に湛えていればいい。
「それじゃ、さよなら」
「……はい。さようなら」
 あーあ、最期まで笑ってくれなかったな。
 目を閉じる。刹那、どっと眠気が起こって、息を吸う間もなくたちどころに意識がほどけた。
 感覚としては、まばたきをしたら記憶が飛んだ、が最も近いだろうか。
 飛んだ。
 そうだ。飛んだということは着地先があったということで、つまりぼくはその瞬間には死ななかった。寒気と異臭とべしょべしょの衣服の感触で身震いして目を覚ました。真っ暗な夕立はまだ降りしきっている最中で、ヘルメットを無数に水滴が叩くのがなんともうざったい。
 細く呻きを上げる。寒い。身体がとてつもなくだるい。起こしてもいない頭がくらくらする。視界が霞むからまばたきを繰り返し、彼女の姿を探す。まあでもわかっている。探さなければならない時点で、ぼくがこの有り様なのに傍にいてくれない時点でもうわかる。彼女はいないのだ。探す。いない。いない。探す。いない。
 ひとりだ。
 都市の骸の片隅で、少しだけ久しぶりに、ぼくは、ひとりだった。
「……、……そ……っかあ……」
 そうか。
 そうか。そうだね。
「そっ、か、……」
 身体が起こせない。呼吸が震える。雨水にプラスチック片が泳いでいる。
 ぼくは。損なった。死ねなかった。たぶんだけど、彼女はぼくの意識を奪った後に致死性の毒を入れるつもりで、毒を入れる直前にこの世界を去ったのだろう。まあ、そっか。いいんだ。わかっていたことだ。いつ消えるかわからない身だとずいぶん前から言われていた。本当に長く保った方なのだろう。
 目を閉じる。このままここにいれば死ねるか、と考えて、無理だろうなと思う。うまく凍死できるほどの環境でもない。のんびりと餓死を待つにはまだ人通りがある場所だから助けを求めてしまう気がする。賊が現れたとて、弱りきったぼくが相手なら簡単に金を奪えるから殺すまでする必要が無い。弱いからこそ殺されずにやってきたぼくにはわかってしまう。
 ねえ、たぶん死なないよ。ぼくは、きみがいなくても。
 涙が溢れた。水滴はさらさらと夕立に紛れ、とっくに水を吸って重たくなったマスクに吸われてゆく。ああ、泣いているのか、ぼくは。すごいな。五年前だって泣けやしなかったのに。すべてをうしなうよりも掴みかけた希望を諦める方が辛いものだろうか。不毛な問いを脳裏に遊ばせる。冷えてゆく。
 大丈夫。最初に戻るだけだ。滅びを待つばかりの日々に、ぼんやりとしてたゆたうだけだ。慣れきった感覚だった。どうせ平気だ。諦めている。諦めているだけ。微笑むだけ。静かで穏やかなだけ。変わらないだけ。今も、次もまた、永遠に──




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