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見上げた空のパラドックス
愛しき残照に

 朝焼けを見るくらいのことは日常だった。がちゃがちゃと路地を満たすネオンカラーの冷たい光に少しずつ茜色の熱が混じってゆく。狭苦しい路地に飽和する悪趣味な色のマーブル模様を、陽光はただまぶしいだけの景色にまとめ上げてしまう。ぼくは毎朝そんな景色を大あくびしながら目を細めて歩く。なぜなら、夜勤族だからだ。
「どうするー? どうせなら遊び行きたいよね。でも、この時間じゃ飲み屋もどこも開いてないしな」
 薄明のコントラストに少女の影は薄い。消えて無くなりそう、なんて思ってしまうのは、彼女がこの街にはあまりにも不釣り合いな子どもだからだろう。勝手知ったる様子で路地を迷わない小さな足が、アスファルトにまだ黒く夜を刻むビルの影を踏んでいる。おかしな光景だと思う。出逢った時からずっと思っている。だからといって今さらもう問うことは無いし、不正を見たところで正しい行いができるほどぼくは真面目でも善良でもなかった。
「じゃあ、きれいな景色を探しに。始発もう動いてますよね」
「うーわ、どえらい死角から提案が来たな。きみってハッピーなファンタジー世界の住民だったりする?」
 彼女はいつも粗雑な態度ばかり取るぼくを微笑みひとつで受け止め、受け流した。
 その程度の関係。その程度の思い入れ。
 それがいったいなんの必然でこうなったのか、明確に答えられるひとなんて誰もいないだろう。
「そういう時もありますよ」
「どういう時だよ」
 ああ、眠たいなあ、と、それだけ思って夜勤明けの気だるい足を進めた。

 彼女はほかのお客様がほとんど個室にこもっているこの時間帯にしか共用スペースに姿を見せない。
 耳慣れたドリンクバーの作動音をぼんやりと聞き流した。
「どうして身売りなんてしているの」
 調子のよくない機械がもったりとした動きをするから、お客様がジュースの注がれるのを待って手持ち無沙汰に突っ立っている。なんのことは無くその華奢な背に小声をかけてみれば、常連の少女からはあくびひとつが返ってきた。そりゃあ眠いよなあ。深夜か明け方かちょっと迷うくらいの時間帯だもの。ああすみません、と彼女は一言謝って、ようやく甘ったるいメロンソーダに満たされたグラスを片手に振り返る。
「他に仕事を探しても、きな臭いのばかりですから」
 快活そうな、栗色のショートヘアに青い目の女の子だった。どう見ても十歳かそこら、上に見たって中学生がギリギリのあどけない顔つきをしている。
 ところが彼女はほとんど毎日ひとりでこのネットカフェに泊まっていて、昼間はここの隣にあるピンク色のぎらぎらしたビルで、春を売って暮らしている。
「他にって。とっくにきな臭いでしょ、児童売春」
「私が児童かどうかなんてわからないでしょう?」
「え、成人だって言い張ってんの?」
「あなたよりは長く生きてると思いますよ」
「マあジで? 敬語使った方がいい?」
「今さらですか」
「冗談冗談」
 ぼくはというとしがないアルバイターである。ブラックもブラックの、週七で夜勤でワンオペなどというゴミみたいな使われ方をかれこれ一年しているけれど、まあ気楽でのんびりとした仕事だからいいやと思って、雑にこなして生きている。掃き溜めみたいなこの街ではこれでもまともな暮らしをしている方だろう。
 とかく、彼女とぼくとは隣同士で働いていて、夜もだいたい一緒の場所にいる。不真面目なぼくは仕事中に退屈そうな彼女にこうして雑談を吹っかけることがあって、ふと気がついたらそこそこ話せる仲になっていた。二棟の建物をこっそり行き来して暮らしている彼女がプライベートで雑談ができる相手なんて、たぶんぼくだけだろうな、と思う。
 最初のころはそれこそ当たり障りの無い天気の話やおすすめの漫画の話なんかをよくしていたけれど、そう、その日はただなんとなく気分で、仕事のことを聞いた。
「や、でもさあ。きみその見た目じゃやばいロリコンにしか指名されないわけだろう? かったるくないの?」
「そうですねえ」
 なんにも気にしていないようなのんびりとした声は深夜の静寂を乱さない。細く白い喉が一口分の液体を通して上下するのを、ぼくはカウンターに肘をついて遠いことのように眺めていた。
 少女は言う。
「けっこう楽なお仕事ですよ。ここに来る前まではもっとこう、きつい汚い危険って感じのことをしていたので」
「え、前って一年よりも前だよね。きみ何歳から労働してんの……? ていうか身売りも3K満たしてると思うけど」
 ぼくは確かに彼女の正確な年齢は知らない。けれど、子どもだ、とはさすがにわかる。
 というのも、彼女には身分証が無く、会員登録されている個人情報も彼女の働く店の店長さんのそれになっているのだけど……「くれぐれもこの不正を黙って見逃すように」と、ぼくは定期的に多額の賄賂を受け取っているのだ。うちの上司と彼女のところの店長さんの両方から。そうまでして隠さなければならないなんて、どう考えたってアウトだからに決まっている。
「私、いくつに見えますか」
「十歳くらい?」
「じゃあ、倍にして覚えといてくださいよ」
「そういうことにしとくけどさあ」
 ひとつ疑問があった。
 きみの存在を世間からどうしても隠したいのなら、どうしてわざわざ一般のお客様も来るここで寝泊まりしているの?
 問おうとして、やめた。ぼくは不正に助かっている身だし、なんとなくでそこまで深入りするのは得策じゃない。そもそもこの会話は暇潰し、あくまでもただの暇潰しだ。ほかのお客様は個室で眠っていて、こんな時間に入店してくるひとも退出するひともいない、そんな折に彼女が暇そうに突っ立っていたから、なんとなく始まっただけの会話だ。だから適当な相槌でも打って、そろそろ話はおしまい。彼女の方もそうしてくださいとまた適当な相槌を返してくる。なんとも気だるい、愛すべき、だらだらとした時間。ごゆっくりと言えば会釈と共に彼女が個室へ戻った。
 生ぬるい静寂に使い込まれた本のにおいが満ちる。掃き溜めみたいな街の最果てみたいな狭苦しいネカフェの一室で、謎のきな臭いお客様は、今日も甘いソフトドリンクばかり飲んでいる。

 夜勤が明けたら帰って眠る。昼過ぎに起きて適当に食事を済ませて、シフトの時間までは街をぶらついて時間を潰す。酒場で呑んでいることもあれば、踊っていることもあるし、ひとと遊んでいることもある。名乗りもせず色んなひとと酒を交わすから日常的にトラブるけど、まあまあ全部がしょうもなくて些細なばかりで、強炭酸水のぬるま湯みたいな日々は適度に楽しく堕落している。なんならそう、職場にいる時がいちばんぐうたらしているくらいの堕落。
 そういう生き方もここでは当たり前の範疇だ。コンクリートに閉ざされた街の路傍では空き缶がごろごろと風に乗って行列をなしている。彩度のハジけた看板と酔いどれの怒号とけたたましい広告車両と、あとは適当に。面倒事は見ないか捨てるかで、気楽にへらへらと、何も考えないように。
 ぼくがバイトに受かった時期と彼女という爆弾の飛来がたまたま重なって、気がつけばぼくはバイトを辞めたらたぶん殺される立場になっていた。けれど、今の暮らしのことは好きだから、とりあえずはこれでいいやと思っている。大金を拾えてラッキーなだけだ。酔いのほかに何もいらない、この身軽で軽薄な余生で。

「ねえねえ、きみはお酒って呑まないの」
 明くる日、暇同士の会話はそんな問いから始まった。だって彼女は大人だという設定なのに、ドリンクバーコーナーでこうこうと光っているお酒の自販機を素通りして、いつも甘いソフトドリンクを飲んでいるから。
 少女はちょろちょろとミルクティーの注がれるカップを眺めながら、ぼくの雑な絡みにも快く応じてくれた。
「苦いじゃないですか。嫌いでもないんですけど、積極的にはあんまり」
 やっぱりと言うべきか、当然のように呑んだことのある前提で話されるから笑った。
「はーん、子ども舌だ」
「サイダーの方が安いし美味しいですよ、絶対」
「まともにコスパを考えてる奴は一生呑めないんだよなー」
「店員さんはよく呑むんですか」
「仕事中以外はずっとだね」
「そっか」
 彼女は呆れたようにくすりと笑う。よく見る表情だ。ぼくは色々とだらしがないところを見せるけど、彼女はいつもやわらかく笑うばかりで非難や注意をした試しが無い。距離があるとも言えるけど和やかさのためには適切だ。話しやすくてトラブらなくて、彼女といると安心する。今日もまた気だるい紙のにおいと動きの遅いドリンクバーの傍らにあくびをする。
「あの、店員さん。五時上がりですよね」
「え? 何? そうだよ」
「退勤したらビルの前にいてください」
 言い残して、彼女はまたほかのお客様と出くわす前にそそくさと個室へ戻っていった。
 その日。始発に合わせて退出するお客様がたの受付と個室の掃除を済ませ、店を出ると彼女が待っていた。帽子を目深に被ってマスクをして、身体の隠れる大きい服を着ていた。彼女はぼくを見つけるなり手にしていた紙袋を差し出して、「気に入れば持っていってください」と言った。
「え! ……いいの?」
 中身は重たい酒瓶で、しかもけっこう値の張る上質なものだった。開いているけれど中身はまだ半分以上残っている。
「お客さんから差し入れでいただくことがあるんですけど。私あまり呑まないから。余らせちゃうんです」
「おおー、汚いロリコンの買った酒。念のため聞くけど毒は入ってない?」
「アルコール以外の毒は入ってませんよ」
「いいじゃん。頂戴するよ。ありがとね」
「あの」
「ん?」
「また横流ししてもいいですか?」
「マジ? 最高」
 バイトを辞められない理由がまたひとつ増えてしまった。ぼくは鼻歌を歌いながら三畳くらいの自宅へ帰って、つまみも無く空きっ腹に高い酒を入れて眠った。心なしかよく眠れたけど胃は弱って朝から気分が悪くなった。また深夜になって彼女にその話をしたら、いつも通り呆れたように微笑まれた。

 ぼくが体調を崩してバイトを休んだのは街の空気に寒風が混ざり始める晩秋のことだった。熱が出て、ふらふらゆらゆらと近場の診療所に駆け込んで、薬をもらって帰る、その途中に知らないひとから話しかけられた。身体が大きくていかつい、けど足音がしなくて、素人目にもただ者でないとわかる雰囲気のひとだ。バイトはどうしたと問われたから殺されると思った。ぼくはへらりと笑って、馬鹿でも風邪は引くみたいですね、と答えた。気がついたら知らない車に放り込まれて、気がついたら自宅で寝かされていて、水と食料の詰まった箱が寝床の横に置かれていた。厚待遇で驚く。脅迫こそあれ、まさか援助があるなんて!
 そんなにぼくでなくてはいけないのだろうか? わざわざ守るほどの人材だろうか? ぐらぐらと茹だる頭で考えていた。ぼくに特別な力や肩書きは無い。ただ、彼女の存在を知っている。雑談ができる仲でいる。秘密はとりあえず守っている。賄賂をありがたく悠々自適に使って酒をんでいる。それだけなのだけど。
「あなたが孤独だからじゃないですか」
 彼女は言った。
「秘密を守らせるのに、やりやすいんでしょうね。家族もいない、固定の友人も作らない、冗談ばっかり言うから何を言っても信用されない、そんなひと多くはありませんから」
「ん……? なんできみがここにいるの?」
「さっきから話してましたよ」
「あれえ……?」
「寝ててください」
 ぼくの暮らす狭苦しい1Kに、お客様がいる。いつも深夜の暇な時間帯にドリンクを取りに来る、たまに個人的にいいお酒をくれる、きな臭い常連の少女が。どうしてだっけ。だいぶ記憶が曖昧になっている。
「あと、調子の悪い時に呑みすぎないでください」
「うち酒以外置いてないからさあ」
「お水とスポドリ買ってあるでしょう、そこに」
「太っ腹だなあー」
 彼女は苦笑するともう一度順を追って説明してくれた。ぼくが欠勤した分は急きょ最近よく昼間に入っていた新人さんが埋めてくれたけれど、その新人さんには彼女についての話が通っていなくて、彼女の職場の部屋も満室で行き場が無く、悩んだ末にぼくのところへ来てみたのだという。
「鍵は?」
「あなたが開けたんですよ。ちゃんとインターホン押しましたし、入っていいかも聞きました」
「そんな気がしてきた」
 なんでも、訪問してみるとあっさりドアを開けてもらえたはいいけど、どうもぼくの意識状態が怪しく、そのまま看病する形で部屋に入った、と。
 だいぶ意識が戻ってきたので体温を計り直してみればそれほど高くはなかった。朦朧としていたのは、病のせいというより、熱があるのに酒を入れたからいつもより酔ったというだけみたいだ。
「私、朝までいてもいいですか? 何かあったら看れますし」
 少女が散らかった空き缶を袋にまとめながら問うた。正気か、と思ってぼくは周囲を見回してみる。ベッド、冷蔵庫、床に直置きされた格安ラップトップ、壁際に整列している酒瓶、散らばった着替えとゴミ。足の踏み場はギリギリあるけれど、ひとりで暮らしていたって狭いと思う部屋だ。
「いられる場所、無くない?」
「だから片づけてるんですよ」
「それはありがたいけど。ていうかさ、感染るよ」
「感染りませんよ。私、病気しないので」
 どこか有無を言わさない響きのある声で彼女は言った。ぼくはそうと答えて大人しくベッドに転がっておく。彼女の意思で来たなら感染してもぼくのせいじゃないし、ここで言い合いをするのも疲れるし、別にいいや。
 何か食べないんですか、と彼女が言う。言われて初めて空腹を思い出して、そういえばそうだね、と答えれば流れるように食事が出てきた。見るからに手作りの、やわらかそうなポトフだった。ぼくが酔いで朦朧としているうちに作ってくれていたらしい。自炊しないから調理器具もろくに揃えていないはずのキッチンでどうやって、と問えば、器具も具材も買ってきたと言われる。
「こわ。手厚すぎ。毒入ってない?」
「今回はアルコールも入ってませんね」
「そりゃ残念だ、いただくよ」
 時間帯は深夜、空気はもう冬かとぼやきたくなる冷たさをしている。暖房なんて気の利いたものは持ち合わせていないから布団を羽織ったまま座って食事を摂った。作りたての温かいスープは、馬鹿な酔いで無駄に疲弊した身体にはありがたい。彼女は床に座って手持無沙汰にぼくの手元を眺めている。きみは何か食べないの。さっき食べました。そっか。
「ありがとね。美味しいよ」
「お粗末様です」
「ひとの手料理なんて食べるのいつぶりだろ」
 いつも食事は酒場かコンビニかホテルかで、呑む相手とその場のノリによって摂ったり摂らなかったりしている。最後に一日三食規則正しく摂ったのがいつかも思い出せないし、ましてや野菜入りの温かい手料理なんて滅多なことでは口にしないものだからちょっと落ち着かない。温かさばかりが染みるようで、実際のところ細かい味まで感じる余裕は無かった。本当に、いつだっけ。最後にこんなに誰かから助けられたのって。
「私も久しぶりに料理した気がします。失敗しなくてよかった」
「きみはご飯とかいつもどうしてるの? うちの店厨房無いし、そういや気になってたんだ」
「食べないことも多いですけど。流れで食べることになったら食べてます」
「じゃ、ぼくと同じか」
 浅く話しながらいつの間にか空になった深皿を見下ろす。安っぽいプラスチックの白だ。数年前に買ったけれど数えられるくらいしか使っていない。
 こうしてひとが来ると急に自分の家のあらゆる足りなさが気になった。広さも物も暖かさも清潔さも生活感も、この家には何もかもが足りない。心がざわつく。職場が恋しくなる。あそこはむろん暖房もあるし、毎日清掃しているし、ここよりよっぽど安心してぐうたらしていられる。
 調子が悪いと気まで弱るからいけない。ぼくは食器を手にしたまま立ち上がって部屋を出た。
「あ、私、洗います」
「ありがとう、じゃあお願いする。放置してごめんだけどぼくシャワー浴びてくるね」
「はい」
 シャワーで汗を流しながら歯を磨いて、ドライヤーまで済ませて部屋へ戻ると、少女は床に座ってじっと窓の外を眺めていた。半分だけ開けられた遮光カーテンの隙間からは味気なく濁った街灯の光が覗く。幼い横顔はいつも見るのんびりとしたそれとは違うようで、ぼくは一瞬だけ声をかけるのをためらう。少女の視線がこちらへ向く。深夜の沈黙には鮮やかすぎる青だ。
「おかえりなさい」
「……何も無くてごめん、暇だったよね」
「大丈夫ですよ。いさせてもらえるだけありがたいので。この街でこの時間に外にいるのも、面倒ですから」
「そうだ。その話だよ。聞こうと思ってたんだ」
 少女の隣、ぼくも床に腰を下ろして、這い上がる冷たさに身震いする。今度クッションでも買ってこようかと余計なことを思いながら、問う。
「きみさ、そんなにも守られているのに、寝床は無いんだね?」
 家まで来られたということは、こちらのプライベートは無いということで、だったらぼくも少しは踏み込んだっていいだろう。彼女を守っている黒そうな大人たちに追及する勇気はさすがに無いけど、いつも物腰のやわらかい彼女自身になら、完全に二人きりのここでなら、問える。
 少女は膝を抱えた格好でそうですねと受け答える。栗色の睫が伏せられる。
「稼ぎ手としては大事にしていただいていると思いますけど、ひとだとは、思われてませんから」
 夜の静寂を乱さない、ひんやりとした声音は淡白だった。
「身売りって、そんなもんなの」
「いえ。お店のひとが嬢の住まいまで面倒見ることもありますよ、普通は。ただ私が怖がられてるだけです」
「怖がる? どうして?」
「……前職が黒かったので」
「ああ。噂の3K」
 彼女がそっと遮光カーテンを閉め切って、ほんのわずかに冷気の流入が止まる。寒いからお布団入ったらどうですか、と彼女が言うから、ぼくはお言葉に甘えてみたびベッドに横になる。それから少しだけ考えて壁際に身を寄せる。来ていいよ、と言ってみれば彼女も数秒だけ考えて、ぼくの傍らに浅く腰かけた。うん、床よりはマシだろう。
 会話は緩やかに続いている。
「今の店長が、この子は風俗の方が向いてるって、絶対にすごく稼げるからって、私の前職の担当者を説得したんです。でも担当も譲らなくて、何度も喧嘩になって。だから、組織内でも私の扱いは難しいみたいな空気になってるし、お店でも特別扱いされすぎで煙たがられてて」
 彼女は話の割には困っていなそうなあっさりとした口調でいた。深刻そうに話されるよりはこっちも気が楽でいい。ぼくもごく浅い感情のまま、たんに事実として話を聞いた。
「めんどくさそー。上司がきみのことで揉めてんのかあ。てか、見るからに子どものきみに風俗向いてるとか思う感性、さすが犯罪者って感じだね」
「私もびっくりしましたよ。お前にはひとを狂わす引力があるからって。覚えてる限りではそんなこと初めて言われたので」
「そりゃ何度も言われてたら怖いって。一回でもビビるもん」
「でも、合ってたみたいです。ひと月だけ試して、私が本当に前職より稼げたら認めてやるって、担当が啖呵切ったらしいんですけど。結果、今は私、ここにいるので」
「きみの意思が一ミリも介在してないのがいちばんのホラーだったけど、その話」
「ひとだと思われてませんから」
 彼女はそう繰り返した。話を聞く限りではマジで人間扱いされていないみたいだから、ヤバイねえ、とぼくは腑抜けた相槌を打つしかなかった。ぼくだってシフト表を見たら社畜だけど、仕事は楽ちんだし、すぐ縁切りする癖のせいで人間関係のトラブルも長く続かないから、何よりぼくは気楽に幸せに暮らしているから、彼女の大変さを推し図ることはできない。
「……私、化け物だから。飼い馴らしてお金を稼ぐのはよくても、仕事以外の世話までするの、不気味で嫌なんでしょうね。店長は特に家族もいますから、余裕無いでしょうし。しょうがないですよ」
「え。家庭持ってるおじさんが童女を身売りにスカウトしてんの? こっわ。世紀末?」
「世紀末ですね。でも、私が子どもかどうかはわかりませんよ」
「まだその設定守ってんだね」
「事実、戸籍無いから年齢の証明できないし。きっとあなたよりは長く生きてますから。もちろん、信じなくても構いませんけど」
 寝返りを打って彼女を見上げる。さらりとした栗色の髪が華奢な肩口の上を泳いでいる。ここから表情を窺うことはできない。
 長く生きている。前にもそんなことを言われた気がする。別にどちらでもいいから深くは考えないけれど。
「でもさあ、きみは子どもだよ」
「……」
「お酒苦いとか言うし。甘いのばっか飲むしさ」
「……ふふ。そうかもしれませんね」
 呆れたような笑みの気配がいつも通りの穏やかさに戻った。
 なんだか無性に安心して、やがてぼくはまた眠りに落ちる。こんなによく眠れたのはいつぶりだろうと驚くほどの、夢も見ない、深くて、泥のような眠りだった。
 遅い翌朝になって目を覚ませば彼女はもういなかった。整頓された部屋、調理器具の増えたキッチンに作り置きされた朝食、「お酒は熱が下がってからにしてください」という書き置きが丁寧に残されていた。熱はもう下がっていた。

 源氏名は、シアン、と言うらしい。
 ぼくは彼女の本名を知らない。そもそもこの街ではまともに名乗って暮らしている奴の方が少ないだろうけど。
 あの夜から数日、ぼくはソロで居酒屋に陣取りながら柄にも無く考えていた。自らを化け物と呼んだ少女について。彼女のきな臭く面倒そうな境遇の上に成り立っている、ぼく自身の暮らしについて。
 強炭酸水のぬるま湯みたいなこの日々は、家に帰れば、酔いが覚めれば、刺激も温もりもうしない、寒々として呼吸を妨げる。できるだけ何も考えず、気楽にへらへらと──それは一晩で治る軽い不調で剥がれてしまうような脆く淡い幸福だった。そもそも幸福なのかどうかだって怪しく思う。足りない。寒い。そんなことを、うっかり考えてしまった。
「……何しに来たんですか?」
「様子見」
「わざわざ関わらない方が安全ですよ」
「今さら変わんなくない?」
「そうかもしれませんけど」
 思い立って、職場の隣に建つぎらぎらしたピンク色のビルに、ぼくは正面から入ってみた。受付にはちょっと嫌な顔をされ、客なのかと確認もされたけど、はいと答えればそれ以上の追及は無かった。札束を大人しく提出して最上階へ進むとエレベータ前で見慣れた少女が待っている。ぼくがへらへらと手を振ると彼女はひとつ息をついて文句を言う。案内された部屋の内装はラブホテルと遜色なく、ソファとベッドの置かれた部屋にシャワールームとトイレが隣接する。がちゃり、鍵が閉められる。
「したいことがあれば言ってください」
「呑んでくからなんか話そ」
「……店員さん、ほんとにお仕事前でも呑むんですね」
「いつものことだよ、お客様」
 持参したものをテーブルに広げる。酒につまみ、ジュースとお菓子も当然揃えてきた。入室前に荷物の確認をしたボーイが苦笑いしたくらいのラインナップだ。無駄に高級感のあるシックなガラステーブルは、あっという間に安上がりなパーティーの様相となる。
「こっちがきみの。座って」
「わあ、初回からおしゃべりだけしに来る良客だ……」
「セックスより飲酒のが快楽のコスパいいじゃん」
「ありがとうございます。でも、ここに来て呑むのはコスパ最悪ですよ。高かったでしょう、入るの」
「きみから流れてきた金だよ。ちょっと返しただけ」
 経済的に、生命的に、ぼくの生活は彼女に依存している。彼女という秘密を知る一般人であるぼくが彼女を離れたら、あるいは彼女がいなくなってぼくが用済みになったら、この暮らしも命もどうなることだろう。こんな暮らし、本当は守らなくたっていいのにさ。
 ぼくはひとつだけのソファで少女を隣に座らせ、流れるままに酒のプルタブを起こした。彼女もやれやれといった顔で甘ったるいジュースを手にする。
「乾杯」
 すかさずぼくの方が缶を下げて軽く打ち鳴らした。
「今はあなたがお客さんなのに」
「身のほどはわきまえてるつもりだ。きみがいなきゃ暮らせないもんでね」
「……」
 見向きもされないダブルベッド、静かに回る換気扇、中途半端に薄暗い間接照明だらけの一室。異色の空間で、ぼくらはいつもみたいにだらだらと話をした。この前はありがとう、と看病の件を持ち出せば彼女はこちらこそと言って微笑む。馬鹿な飲酒で迷惑をかけたねとか、料理が美味しかったとか、とりとめもなく言えることを言い合う。甘ったるい菓子を頬張れば少女の表情はたやすく緩んだ。本当に子どもだな。ぼくもちびちびと缶の中の液体を減らしてゆく。コンビニの惣菜で揃えてきたつまみも少しずつ減る。辛くないものは彼女にも分ける。最初の一時間は、そうやって和やかに溶け去った。
「あの」
「うん?」
「何か聞きたいことがあって来たとか、大事な話があるとかじゃ、ないんですか?」
「えー? うん、まあ……でも本当に様子が見たかったんだよ」
「様子、ですか」
 ふと時計を気にした彼女にそんなことを問われたから、ぼくはまた考えるという慣れないことをしてみる。札束を積んでまでここへ来た理由。二人で呑みたいだけなら家に来てと言えばよかったはずだ。なぜ、と問われれば、やっぱりここでの彼女を確かめるためだったと思う。ぼくの生活資金の源流だから。
 制限つきの時間はなおも緩やかに流れている。雑談の間にすっかり冷めてしまった惣菜を口に放り込んで咀嚼する。
「……なんかさあ、なんでだろ、受け入れらんないのかもな。一年も隣で見てんのに。きみが風俗嬢だってこと。きみが春を売ってる金を不正にもらって、今ぼくが暮らしてるってこと。受け入れらんないから、この目で確認しに来たのかも」
 皮貼りのソファに深く身を預ける。濡れても清掃しやすい素材だなあと思う。ぼくもひとの情事の後片づけをすることが多い仕事だから、生々しく頭に過る。
 彼女はただ見慣れた顔で苦笑した。
「店員さん、実はけっこう真面目ですよね。お仕事もなんだかんだしっかりこなしてますし」
「なわけ。でも……」
 息を吸うように喉の奥へ液体を流し込んだ。飲み込んだ数だけじんわりと意識が鮮明になる気がする。気がしているだけで、実際は思考をぼやかしているわけだけど、ぼやかすほどに見えてくるのだ。呑まなければわからないことや言えないことが、ぼくには確かにある。
「そうだ。ぼくはたぶん、きみのこと──すっごい普通の女の子だと思ってるんだよ。この街のじゃない。もっと上層の、平和で倫理的な、夢みたいな普通の」
 目を伏せた。飲み口の奥でアルコールが黒い影に揺らめく。
 この街には普通を思い描くことすら難しい輩が満ち溢れているけれど、ぼくには、まだ、思い描くくらいのことはできた。たとえば、朝に起きて食事をして決まった時間にどこかへ通うとか、他意も無く安全に笑い合うだけの友達がいるとか、普段は倹約してたまに好きなものを食べるとか、初対面の相手とはセックスしないとか、日常的には怒号を聞かないとか、ただいまと言う相手がいるとか──。そんな時代もわずかにあった。本当にあったのかと疑うくらい、霞む記憶の片隅に、ほんの少しだけ。
 ぼくはそう、その時代を想う時と似た情感を、彼女に見出だしているのだと思う。先日飲んだスープの温かさを思い出す。心臓が震える。つまりそういうこと。
「初めて言われました」
 隣から幼い声がして目を上げる。少女はジュースをテーブルに置いてぼくに顔を向けている。真昼の快晴を思わせる青と目が合えば射貫かれるようだった。
「少なくともこの十年で、私に普通だとか言ったの、あなただけです」
「少なくとも十年って……」
「長く生きてますから」
「その話マジなんだ?」
「あなたに嘘をついたことはありませんよ」
 ああ。
 ふと理解する。理解していいことではないだろうけど、彼女にハマるひとが多い所以が身に染みてわかった気がする。きっと誰しもにその目を向けているのだろう。深く、虚ろで、何かを慈しむような、ひどく悲しむような目を。諦めたような、愛するような微笑みを。同時に直感する。彼女の持つこの独特な雰囲気の正体はきっと、儚さ、なのだろう。そして、ぼくにとっての儚さの象徴は、何よりも普通であることだった。だから繋がって、彼女のことが普通に思えてしまう。懐かしさや憧れに近い、思い馳せるだけで遠く霞んでゆくような、夢みたいな普通に。
 こんな普通の女の子を犠牲にして、ぼくは寒々とした堕落を今も続けている。
 そんな荒唐無稽な錯覚、あるいは一種の罪業妄想、あるいは事実。浮かされた神経回路の向こうにそんなものが見えてぼくはうつむく。そうか。そうだよな。最初からそうだ。ぼくは彼女にお世話になっている。そんな必要無いのに。ぼくのこの軽薄な余生に、そこまでされていいほどの価値は無いはずだった。もう、とっくの昔に、大切だったものは何もかも去ったから。
 酔った頭は数瞬の沈黙のうちにもぐるぐると回る。
 嫌だなあ。感傷も考えすぎも、トラブルの元でしかないものだ。やめちゃおう。考えるな。目の前だけを見て、生活だけを続けろ。それがいちばん楽で楽しいやり方なんだから。
 また一口、酒を呷る。喉を通り抜けるほのかな苦味に満足を覚えて、意識を揺らす。息をする。
「逃げちゃおっかなあ」
 朦朧とする口許からそんな言葉がこぼれていた。言ってから、ぼうとした頭でまた考え始める。逃げるって何からだろう。最近はそう面倒な対人トラブルに巻き込まれてもいないし、逃げなきゃいけないことなんて、別に何も。
「私が守りましょうか?」
「……、ん?」
「逃げたらあなたはすぐに殺されます。だから、行くなら、私が守ります」
 缶を置いた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「はい」
 深呼吸ひとつ、一旦席を離れて、まとまらなくなってきた思考を拾い上げようとしてみる。整理しよう。ぼくは、この生活が不安になった。久しぶりにきちんとした食事をしてみたらこれでいいやと思っていたすべてが急に疑わしくなって、すべてが足りなくて寒くて。彼女の微笑みが心に過れば、不正に遊び回る自分の像がちくりと痛む気がした。答えの出ないうちになぜだか行動に出て、こうして彼女に会いに来た。楽しくまったりおしゃべりをして一時間を過ごした。そして途中からはなんだか神経質な話を始めてしまって。昔を夢想なんかして、彼女に儚さを重ね見て。馬鹿だな。またちょっとよくない酔い方をしている。彼女といるといつもこうだ。戻ったら水を飲もう。だけど。だから。
 何を言われたんだ、今さっき?
「んん……?」
 手を洗って彼女のところへ戻って、ぼくは結局そのまま格好悪く聞き返す。
「ごめん、さっきのってどういう意味?」
 少女が隣の空席をぽんぽんと叩くので従って座り直す。しつこいほどの間接照明で薄暗がりに落とされた、彩度の低い空間で、なお魔力を秘めた青い目が近づく。静謐をはらんだ幼い声は、ごく小さく、内緒話をするみたいに紡いだ。
「もしも、あなたがこの街を出るのなら、私も連れていってください」

 逃げちゃおうか。どうせ殺されるのなら場所がこの街である必要も無いだろうから。最期を楽しむように、好きなように、好きな場所へ。気楽に生きてきたからその提案はぼくの性に合った。いいじゃん、その手があったか。すぐにだって行けるよ。名残惜しめるほどのものなんて何も持っていないからさ。
 黙々と出勤し、いつも通りに受付と清掃を反復して、深夜になって彼女がドリンクを取りに来て。ぼくは、ねえ、今日でもいい? と小さな背に声をかける。お客様はグレープジュースを片手に微笑む。親しんだ古い紙のにおい、気だるさと穏やかさが満ちる、この愛すべき勤務時間も、最後と思えば感慨深い。
 午前五時、いつもの時間にいつもとなんら変わらず退勤して、ビルを降りれば彼女が小さく手を振った。たまに酒をくれる時と同じ格好だけど、その手に荷物は何も無かった。
「行きましょうか」
「そうしよう」
 歩き出せば寒風が身を切る。悪趣味なネオンカラーが路地をまだらに染め上げて、もっと遠くでは薄明が夜の黒を藍に向かって持ち上げようとする。当たり前に繰り返した小さな夜がまたひとつ終わってゆく。

「きみさあ、家族とかいた?」
 夢をみていた気がした。懐かしさと憧憬の残照だけが胸に揺らいで、一瞬後にはもう何も思い出せなくなっていた。
 そそくさと電車に乗り込んで、座れたら途端に眠りこけ、目を覚ませば夜は明けていた。茜色の光に満たされた車内で、呆気なくあの街を出てしまったぼくの隣で、手持ち無沙汰に黙っていた彼女に、ぼくは戯れに声をかけてみた。夢の残滓が言葉を選んでいた。
 もういいやと思うのだ。感傷も、考えすぎも、だってもう多少トラブったってどうせ彼女とは離れられない。彼女が選んで一緒に来てくれたのだ。もうぼくからは離れやしないし、だからこそ、失望するのならなるべく早くしてほしい。運命共同体の少女は、誰もいない車内で、ぼくの急なずけずけとした質問に、戸惑うように瞳を揺らした。
「……、忘れました」
「ああごめんね。別に友達でも先生でも、好きなひとでもいいし。これまでに誰かひとりでも、きみをひととして大切にしたひと……きみが一緒にいて素直になれたひとって、いたかい?」
「何が聞きたいんですか」
「いたら、いいなあって思ってね。それだけだよ。いなかったらほんと謝るけど」
 今はいなくても──今はいないからこそ。
 記憶の隅でおぼろげに引っかかっているだけだっていい。夢から覚めたような印象の残り香だけでもいい。それだけでも、ぼくはどうにか鬱ぎ込まず、立って外に出て、からから笑って過ごせていた。簡単に命を捨ててしまえるくらいの絶望を抱くことができた。幸せな記憶には、かつて儚く去った普通には、確かにそういう力があった。もちろんこれはぼく個人に限った話だ。わざわざ他者に問うのも身勝手だとはわかっているけれど。
 きみの口から聞いてみたかった。きみの孤独に飾りつけられている、とびきり幸せで、普通で、どうしようもなく過ぎ去った大切なもののことを。きみに紡いでほしかった。そうすれば、きみの儚さに呼応して、消えた夢の内容を思い出せるかもしれないから。
 彼女は車窓から見える景色をじっと見つめながら答えた。朝焼けがピークの時間帯で、白い頬が茜に照らされてまぶしそうだった。
「……好きなひとが、いたんです」
 快活そうな栗色のショートヘアに、ひとすじの青いリボンが揺れている。一年間ほとんど毎日彼女と会っていたぼくも見たことの無かったそのアクセサリーは、問えば最初からずっと大切に持っていたと言う。汚したくないから外していることも多いらしい。
「私、好きなひとがいたんです。恋を、していたひとが。いたはずなんです。昔」
 彼女は繰り返してうつむき、指先をリボンに触れさせた。ぼくはそっかあと適当な相槌を打って、そこにある感傷を確かめるように言葉をなぞる。
「きみには好きなひとがいたんだね」
「……はい」
 青い目はうつむいたままだ。
「よかった」
「よかった、ですか?」
「うん」
「もう、顔も名前も、覚えてないのに」
 少女は言葉尻を凍えたように震わせ、車窓から顔を逸らして青色を影に落とした。それは、ぼくが見た彼女の素振りの中では最も明確な拒絶であり、最も明確に悲哀を含んでいた。
「そっかあ」
 ぼくは今後この話題に触れないことを肝に銘じながら、朝を切り裂く車体に揺られた。
 心の中だけで言う。
 きみは本当に子どもだね。
 大人になったぼくはもうそんなに悲しんでいられない。大切な思い出を、薄れゆく心象を、懐かしさと憧憬を。喪失の記憶を。笑って立っていられることの、命からがら逃げ歩くことの根拠に置いて、じっと黙っているだけだ。考えそうになれば目を逸らして、心を遠ざけて、目の前の生活と明日という快楽に酔おうとしただけだ。酔いが醒めれば何も残らない。
 心は揺れた。よかった、と思った。幸福な思い出の残照とは愛すべきものだ。けれど何も思い出せはしなかった。化け物と呼ばれ数多の執心を呼んだ少女の感傷の吐露も、忘れ続けるというこの悪夢を覚ますほどの衝撃ではないらしい。夢をみていたことそのものさえ、しらふの肌寒さに押し流され薄れてゆく。
 がたんごとん、独特の定期的な音がずっと響く。あの街からはもうずいぶん離れ、なんとなくぼくの故郷の方へ向かってみている。田舎の早朝、都市から離れる方角の電車に揺られているのはぼくらだけだった。お腹が空いたらどこかで降りて居酒屋に入ろうと思う。きれいな景色を見つけたら二人でしばらく立ち留まろうと思う。思いつきにだけ従う、気ままでデンジャラスな旅だ。
 ちなみに彼女はもう四、五回くらい追手と呼ぶべきだろう怪しい輩に遭遇し、一瞥だけして気絶させて去るというえげつない場面を見せつけてくれたのだけど、それは割愛するとして。
「しんどくなかったかい? 身売りの仕事は」
 数駅先でまたゆるりと話を続ければ、彼女はひと呼吸置いていつもの淡白な声を取り戻す。
「それは……、別に。今さらですよ」
「そんなもんか」
「だいぶ楽でした。私ひとりがちょっと嫌な思いする程度なら、すっごく、マシだと思うので。……前の仕事、殺し屋だったんです」
「だろうねえ」
「私のこと怖くないですか」
「頼もしいよ。ぼくを守ってくれるんだろう?」
「はい」
 窓外には色づいた木々と枯野とがまばらに覗き、陽光に色の輪郭をぼやかされては流れてゆく。冬を待つ大地を小高い線路から見渡せば、無性に終わりの近さを想う。
 結局のところぼくは今も彼女に依存して命を繋いでいる。彼女が飽きるまで、ぼくを守り損なうまで、いなくなるまで。それまでの脆弱な暮らし、脆弱な命だ。本当は守られる価値も無いはずの。
「ねえ、どうして一緒に来てくれたの」
「あなたは私に巻き込まれただけの一般人ですよ。私のせいで死なれるのも嫌だなとは、ずっと思ってました」
「えぇー? きみの稼いだ金でぼく、さんざん遊び歩いてたんだよ? きみが責任感じることは無いだろ」
「……、死ぬの、怖くないんですか?」
「怖い。怖いけど、生きたいほどじゃないし、重たくは思ってないよ。だからさ、」
 夜をほどいた陽光に焼かれ続けた車内は少しずつ暖かくなってくる。座って揺られていれば夜勤明けの頭がまた徐々にひりひりと眠気を訴えた。眠気は意識してしまえば急速に存在感を増して、首から上をずっしりと重たくする。どうしてだろう、彼女といると安心してしまってどうにも眠気に抗えない。彼女は眠らずぼくに危険が及ばぬよう見ていてくれるのに。いつまでもぼくだけが楽をして、彼女を都合よく利用して。
 早くうしない尽くしてしまえばいいと思うのだ。思い出も、あの街に見たネオンカラーも、脳を浮かした酒の味も、嫌いじゃなかった勤務時間も、繰り返した刹那的な出逢いとぼくの身勝手な縁切りも、しばらく暮らした狭苦しい1Kも、作ってもらったポトフの温度も、彼女を都合よく利用し続けていることも、何もかも全部。いつもと、すべてと同じように。ただ過ぎ去って、不確かに薄らぐ残照になってしまいたい。夢から覚めたみたいに、夜が明けるみたいに、新しい光に塗り潰されて忘れ尽くされたい。それはきっと美しいことだと思うから。
 幼いきみは悲しむのかもしれないけれど。
「きみが飽きたら、失望したらさあ、……いつでも、気楽に、ぼくを捨てなよ……」
 馬鹿だなあ。ぼくもきみも、そんなこと、いちいち考えなくていいのにさ。ずっと考えずにいられたら、へらへらと生きてゆけただろうに。
 彼女がどう答えたのか、眠りに落ちていった意識では捉えることができなかった。




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