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見上げた空のパラドックス
ラブソング

「一緒に遊ばない?」
 その日はたまたま友達が早く帰ってしまったから、ぼくは公園の片隅で彼女に声をかけた。夕刻、黄金色の陽光が木立を染める夏の日だった。
 夏休みに入ってからぼくは宿題もやらずに公園へ通いつめていた。約束なんてしなくても行ってしまえば誰かがいるし、ボールなんて持っていった日にはみんなのヒーローで、遊具も広場も誰も彼も一緒くたにどこまでだって遊び回れた。両親に買ってもらった自慢のボールを小脇に抱えてぐっしょりとTシャツを汗で濡らした、今日もまだ遊び足りることなどなかった。
 彼女はいつも木陰のベンチで歌を歌っていた。誰とも友達ではないみたいでひとと遊んでいるところはあまり見かけなくて、今もひとりでジュースを片手に涼んでいる。
「……私?」
「うん。運動きらい?」
「好きだけど、どうして?」
「みんな帰っちゃったんだもん。ぼくまだ門限先だし、暇なんだ」
「そっか。ちょっと待ってね」
 彼女はジュースのボトルをひと息で空にすると傍らのゴミ箱へ放り込み、木陰のベンチから立ち上がってスカートを払った。身体の大きさから同い年くらいだと思っていたのだけど、話してみると声も口調も落ち着いて大人びた印象を受ける。ぼくは片手間
にボールを弾ませながら思わず「何年生?」と聞いていた。
「中一、かな」
「え、やば、大人じゃん」
「何して遊ぶ?」
「いいの? キャッチボール!」
 二人しかいないのにボールを使うならキャッチボールしかない。彼女はいいよと応じると明るい栗色の短髪をなびかせ広場の方へ歩き出す。思ったよりもずっと気さくに応じてもらえたからぼくはびっくりして反応を遅らせ、小走りで彼女の背を追った。
「ねえ、きみさ、どうしていつもひとりでいるの」
 問いかけついでに山なりにボールを放って、すぐに似たような軌道で球が返ってきて、ぼくらは夕刻の広場に対峙する。改めて見据えると、ほのかに黄色く明度を落とした景色の中心で、彼女の青く透き通った目はやけに際立った。青に意識を浚われ束の間立ち留まったぼくに、彼女は早く投げろとばかりに片手を上げながら答える。
「見てるのが好きだから」
「見てるのが?」
「うん。遊んでるあなたたちとか、木とか、花とか、空とか、砂とか」
「嘘だあ、飽きないの?」
「飽きないよ」
 適当に投げたどんなボールも彼女は軽々と受け取ってぼくの胸の真ん中へぴったり返した。しなやかに伸びる細い腕、風を切る手のひら、砂埃を立てるスニーカーの靴底、揺れるスカート、まっすぐに飛んでくる球。何度か投げ合うだけで素人目にも相手の上手さがわかってきて、それならばと、ぼくは調子に乗って色んなところへ色んな投げ方でボールを放ってやった。これならさすがに取れるまい、とにやついて投げたどんな球も、力を入れすぎて変な方向へ曲がった球も、彼女は即座に走って取って、ひたすら正確にぼくの胸の前へ返すのだ。何十回も繰り返して、あまりの実力差になんだか腹が立ってきて、ぼくは前触れなく飽きたと叫んだ。
「もういい!」
「そう?」
「ボールやめよう、鬼ごっこしよう」
「えー、いいけど、あなたじゃたぶん勝てないよ」
「何それーっ!」
「あはは、ごめんね。私、走るのめっちゃ速いから」
「ぜっったい体育Aじゃん」
「うん。ばれた?」
「ありえない! 大人げないぞ中学生! もっとこっそり手加減してよね」
「そうだよね、ごめんね」
 毎日、一秒だって立ち止まれずに駆けずり回っているぼくよりも、いつも座ってのんびりしている彼女の方が、遥かに運動が得意だった。ぼくが全身で憤慨すると彼女は青い目を細めてけらけらと笑った。上から笑われているのに嫌味な感じがしなかったのは、彼女が口癖のようにごめんねと繰り返すからだろうか。
「それじゃあ、お詫びにとっておきの秘密を教えてあげるね」
 彼女はそう言って人差し指を立て微笑むと、ぼくの手を取ってボールの投げ方を教えた。夏場で運動した後なのにその手のひらはひんやりとしていた。これでドッジボール最強になれるよ、と彼女が笑うからぼくは夢中になって練習して、あっという間に門限がやってくる。藍に呑まれてゆく空と誘蛾灯を上に、じゃあね、と手を振り合って別れる。ぼくは彼女が先に帰るところを見たことがなかった。
 それからぼくは公園で彼女を見かけるとたまにキャッチボールをけしかけるようになった。なぜだろう、とっておきの秘密、だと思っていたから、他の子が公園にいる時は決して話しかけない。みんなとボールを投げ合ってはしゃいでいると、たびたび彼女の歌声が耳を掠めて、けれどぼくも遊んでいる最中だから、印象は淡いままで過ぎ去ってゆく。淡いままで過ぎ去ってゆくから、誰も彼女を気に留めず、話しかけず、秘密はずっと守られている。そうして時たま訪れる誰もいない夕刻、門限までのわずかな時間にだけ、声をかける代わりに彼女の方へボールをぶん投げて、やっぱり呆気なく取られて。彼女がやれやれという風に笑うのだ。
「ちょっと。私まだジュース飲んでるんだけど」
「いつも何飲んでるの?」
「毎日違うよ? 今日はマスカットスカッシュ」
「ますかっ……? 何それ、一口ちょうだい」
「やだ。いちばん好きなやつだからあげない」
「ケチ」
 結局、何度挑んでも、どれだけ教わっても、他のどんな遊びを提案しても、彼女はぼくより運動が得意で、越えられないまま夏が終わった。夕陽が朱に傾けば傾くほど、手を振る別れ際、彼女の目の湛える青が鮮烈に瞼の裏に残った。
「宿題やった?」
「ぜんぜんやってない」
「駄目じゃん。怒られろー」
「きみはやったの?」
「私は宿題とか無いから平気」
「えー! いいなあ」
 最後にした会話はそんな他愛の無いもので、夏休みが終わってしまえば公園へ行く機会も減って、ぼくはそれきりしばらくは彼女と会えないまま学校生活を送った。秋が深まるほど空が青さを増すから晴れた日にはどうしても思い出していた。予定の空く放課後に公園へ行ってみても彼女の姿はなかなか見つけられない。夏からもとより彼女にもいる日といない日があったから、中学生とは予定が合わないのだろうとだけ思っていた。悔しいから次に会う日までに彼女より足が速くなっていよう、なんて言ってまた駆け回って過ごしていた。

 次に彼女と会ったのは、真冬、両親と大喧嘩をした夜のことだった。ぼくが大切にしていたボールを、玄関に置いていたのだけど、父が踏んづけて壊してしまったのが原因だった。後から考えればそもそも古くなって劣化していたのだとわかるけど、とにかくその時のぼくにはショックで、大泣きして家を飛び出して走った。慌てて追ってきた父も気がついた頃には撒いていた。
 白い息を吐きながらとぼとぼと辿り着いたいつもの公園、いつものベンチに彼女が座っていた。片手に持っているのが冷たいジュースのボトルから温かそうなポタージュの缶に変わっていた。泣いていたはずのぼくは何もかも忘れて目を見開いた。彼女がこちらに気づいて、あれ、と言った。夏の日と変わらない落ち着いた声で。
「夜だよ? どうしたの」
 少女の声は冬の静謐と同じ音色で鳴る。ぼくは何も言えずに彼女を見つめていた。暗闇の下にたたずんでも空色の目はまざまざと澄んでいた。
「……泣いてるの?」
 彼女が立ち上がってコートの砂を払う。仕草のひとつまで夏休みの記憶のままで、懐かしくなってわけもなく涙が滲んだ。お気に入りのボールが壊れてしまった悲しみも父への怒りもどうでもよくなって、ただ、ただ何ともわからない感情が雫に変わって流れてゆく。浅くなった息が白く視界を揺らす。彼女がそっとハンカチを取り出してぼくの頬に触れる。あの時と同じひんやりとした手だ。
「家出かな? 親子喧嘩でもしたの?」
「……した」
「そっか。コンポタ飲む?」
「飲む」
「はい」
 彼女の手から飲みかけの缶を受け取って一口だけ飲みくだした。温かくて甘い液体が喉の奥を通って、寒いということを思い出して肩が震えた。
 涙が止まるまで彼女と二人、並んで座って話をした。大切なボールが壊れてしまったこと。ショックで父にひどいことを言ってしまったこと。思わず走って逃げ出してしまったこと。彼女はひとつひとつ頷きながら聞いて、かなしいね、と答えた。ぼくは力なくうなだれたまま、凍えて震えたまま、小さく頷いた。かなしい夜だった。
「早く帰って暖かくしな、風邪引いちゃうよ。ご両親も心配してるだろうし」
「ねえ、また会える?」
「会えるかな? たまに来てるよ、この公園。今日は会えてよかったね」
「どうして、ここにひとりでいるの。こんな、誰もいないし寒いし夜なのに」
「見てるのが好きだからだよ」
 ひとびとや、木々や、花や、空や、砂や、季節や、すべてのものを。彼女はそう歌うようにさらさらと語って、とっておきの秘密を教えてあげると言った時と同じ顔で微笑んだ。何もかも、変わらない。
「飽きないの?」
「飽きないよ。だって好きだから」
 ぼくはなんだか自分の悩みがものすごくちっぽけなものに思えてきて、すぐ走って家まで帰ると両親に謝った。父は翌日にもっとしっかりしたボールを買って帰ってきてくれた。新しい宝物は踏まないよう靴箱の上に置いておくことにした。
 冬休みは忙しくてあまり公園へ行けなかった。飛ぶように春になって、また夏が来て、けれどもその頃にはいくら毎日公園へ通えど彼女を見かけることは無くなっていた。たまに来てるよと言われてから半年も経ったのだから仕方無い。ぼくはどこかもやもやとしながら、快晴の日には彼女を思い出しながら、淡く、ゆっくりと諦めていった。
 小学校を卒業して中学生になって、なんだよ夏休みの宿題あるんじゃないかと悪態をついて、球技大会で自分のクラスを優勝させて得意気になって、恋人ができて振られて落ち込んで、流行りのゲームを買って、勉強が難しくなってきて、公園へ行くことがすっかり無くなって、だんだん、だんだんと思い出す頻度を減らして──

 次に彼女と会ったのは、社会に出て上京して数年、地元へ帰省した時のことだった。年末の大掃除で足りなくなった掃除用具を買ってこいと母に頼まれ、ぼくはついでに酒でも買ってくるよと返して買い物へ出かけた、その帰りのことだった。
 彼女はコンビニエンスストアの駐車場の隅でうずくまっていた。冬なのに夏物の薄汚れた格好をして、明らかに異様な雰囲気で、だけど、確かにあの日と同じ彼女だった。栗色の髪は首筋を風にさらしていて寒そうだった。突然すべてを思い出して、ぼくは立ち尽くす。うろたえる。
 どうして。
 どうして、また、何も変わらない姿で──?
 駆け寄った。迷わず着ていたコートを脱いで彼女の肩に被せた。かつてのぼくにとってはお姉さんだったけれど、こんなにも小さな女の子だったのか、と思った。青い目がよろよろと持ち上がってぼくを捉えた。鮮烈で透いた空色もまた遠い思い出に焼きついたままで、ああ、本当に、本当に彼女だ!
「温かいものを買ってくるから、ここにいて」
 ぼくは一方的に言いつけるとコンビニへ駆け込み、家族と呑むためのお酒とつまみと、ホットココアを急いで購入して少女のもとへ戻る。彼女は大人しくぶかぶかのコートを着込んでじっとしていた。
「これ、飲んで。あげるから」
「……、……あの……?」
「そんな格好じゃ寒いだろう? ええと、そうだな、とりあえずうちに来るかい? 今は掃除してるから家の中すごいことになってるんだけど、外にいるよりはマシだろうし、まあその、家族に説明は……しづらいんだけどさ……」
「あの。あなたは……?」
 少女は笑わなかった。能面のような冷たく固まった顔で、ひどく淡白な口調で話した。声音はそれでも冬の静謐を灯していて、今のぼくには幼い響きに聞こえるけれど、やはり昔の通りだった。
「ぼくは昔、すっごい昔、きみにお世話になったんだ。きみが何者なのかは、ぼくにはわかんないけど、でも放っておきたくないよ」
「え。……そんなことが、起こるんですか……?」
「覚えてない?」
「すみません」
「そっか。ぼくもついさっき思い出したんだ。無理もないよね」
 ついてきて、と言うと少女は従順にぼくの後ろを歩いた。ぼくは母に電話をかけ、諸事情あって女の子を連れていくということを話した。こんな年末に薄着で外にいたからいったん保護したくて、と言うと一応はわかったと返事があって安堵する。警察を呼ばれたらどうしようと考える。彼女には、親とか、家とか、そういうものはたぶん無いのだろうと思う。直接聞いたわけではないけれど、あの日から何ひとつ変わらない姿を前にしてみれば確信できた。
 彼女は『何』なのだろう?
 後ろを歩く少女をちらりと振り返る。思い出通りの青と目が合う。

 ──ぼくの足りない脳で、いちばん適切な言葉をあえて考えるのなら、彼女は、『永遠』そのもの、だ。

「冷める前に飲んじゃいなよ」
「……ありがとうございます」
 缶を開ける音。年末の地方都市をゆっくりと歩きながら少女がココアを飲む。ぼくは自然と半歩下がって彼女の隣に並んだ。幼い横顔は乾風の吹く町並みをまぶしそうに見上げている。なんの変哲も無い電柱や街路樹や家の壁なんかを、どこか愛おしそうに見る。ぼくはまた思い出してゆく。見るのが好きだと言っていた。ひとびとや、木々や、花や、空や、砂や、──すべてのものを。
 今になって冷静に考えれば、彼女の言ったことは問いの答えにはなっていないように思う。見るのが好きだからといって、誰とも話さずひとりで遠ざかる必要がどこにあったのだろう。ぼくにはわからない。今も、目の前にする世界のすべてを遠いもののように見つめている彼女のことが、わからない。
「昔のきみって、よく歌を歌ってたんだよ」
「……そうなんですね」
「今も歌は好きなの?」
「好きですよ。たぶん、その時あなたが見た私と今の私、あまり変わらないと思います。記憶は、ありませんけど……」
「うん。変わってなくて驚いたな」
「……」
 アルミ缶を片手に少女がうつむく。
 変わったことがひとつだけある。彼女は笑わなくなった。あの夏にはいつも快活そうに微笑んで遊びに付き合ってくれたものだけど、今はこうしてうつむいて見る影も無い。
 自宅へ帰りついて少女を家に上げた。母が風呂を沸かして待っていてくれて、彼女はすぐに浴室へ押し込まれ、ぼくは大掃除中の埃っぽいリビングで両親から事情聴取を受ける。色々考えたけれど包み隠さず説明することに決めて、ぼくが見てきたまま、体験してきたままのことを洗いざらい話した。当然ほとんど信じてもらえなかったけれど、浴室から顔を出した少女が「たぶん本当のことですよ」と声をかけたから場が収まる。彼女はもとの薄汚れた夏物のセーラー服をそのまま身につけて出てきて、ありがとうございます、と母に向かって丁寧な会釈をした。着替えは受け取ろうとしなかった。
「お掃除の邪魔をしてしまってすみません。手伝えることがあれば、なんでもやりますから」
「何言ってるの。ぼくがやるからきみは休んでてよ」
 彼女をソファに座らせ、茶と菓子を用意し、ぼくら家族は急いで掃除を進め、仕上げ、午後にはテレビをつけて机を囲んだ。毎年やっていることだから手際も連携も申し分ない。彼女はその間、菓子には手をつけず、時折ぼくらの様子を窺いながら、ずっとうつむいて押し黙っていた。どうしたの、何があったの、と母が優しく声をかけるけれど、彼女は何も言わず首を横に振るだけだった。
 掃除したばかりの押し入れを父が漁り出したのは日が傾き始めた頃のことだった。何してんの、と問うてみれば、父はあるものを取り出してぼくに差し出す。さっきの話が本当ならこれを持って行ってこい、と言って。
「……ありがとう」
 ぼくは父の手から古びたボールを受け取って彼女を連れ出した。あれから数回代替わりして、ぼくが学生の頃に買ったボールだ。少し劣化はしているけれどまだ使えそうだった。
 あの公園は、遊具は新しく整備し直されているけど、おおかたあの頃のまま残っている。広場の位置もベンチの位置も変わっていない。少女はぼくに従って歩きながら夕に染まり出した木立を眺めていた。公園に入っても反応らしい反応は無く、本当に何も覚えてはいないらしい。
「ねえ」
「はい?」
「ぼくとキャッチボールしてくれない?」
 鞄からボールを取り出して言うと、彼女はただ不思議そうに目をしばたたいた。
「構いませんけど……」
「よし。じゃあやろう。そっち立ってね」
 ぼくは大学を卒業するまでゆるゆると運動部にいたけれど、働き出してからは身体を動かす機会が無くなったからすっかり鈍ってしまっている。投げ方ひとつもまともに知らなかった小学生の頃と今とどっちがマシなのだろうか、なんて考えながら、彼女に向かってボールを放つ。少女は突然のことに戸惑いながらもやはりまっすぐ正確にぼくの胸の真ん中へ球を返してくる。
 もう実力差に悔しがって喚くほど子どもではない。ぼくは穏やかな気持ちで何回でもボールを投げた。砂を踏みしめ、かすかに煙を上げ、肘の先で風を切り。球はまっすぐに彼女めがけて飛んでゆく。
「うまいですね」
 思わず、という風に彼女がこぼした。
「きみに教わったからね!」
「そう、だったんですか」
「そういえば聞いてなかったんだけどさ、きみって何かスポーツとかしてたの?」
「覚えていません。でも、走るのだけはちょっと得意です」
「だけって言うなよー、嫌味だぞ」
「すみません」
「好きなものがいっぱいあるよね、きみってさ。歌うこととか、運動とか、あと確かマスカットスカッシュがいちばん好きって言ってたんだよ。ジュース」
「……それは、なかなか無さそうですね」
「そうだよ。なかなか無さそうだからやけに覚えててさ。たまに思い出して探したりしてたんだ。懐かしいなあ」
 冬の夕はよく染まる。茜色が波のように空を侵食して、青を夜に向かって引きずり込んでゆく。過ぎ去った真昼に見た一瞬の空色は、彼女の虹彩にだけ閉じ込められて永遠に宿り続ける。
「見つかりましたか? マスカットスカッシュ」
「無かった! 似た製品は色々出てるけど。きみが飲んでたのは期間限定発売だったらしくて、もう手に入らないんだよ」
「そっか、残念ですね……」
「残念だった。残念だったさ! きみとも二度と会えないと思ってたんだ」
 ぱし、ぱし、とボールを受け止める音が、メトロノームのように鳴っている。ぼくは徐々に息を上げて、彼女は平気な顔をして。
「だからさ、また会えてうれしいよ」
 彼女がボールを抱え込むようにして受け取る。メトロノームの針が少し、遅くなる。
「……私も驚いています。あなたを思い出すことは、私にはどうしてもできないんですけど」
 その時、再会して初めて彼女が笑んだ。明るさはまったく感じさせない、痛切で、寂しげな笑みだった。
「離れてもまた会えることが、そんな可能性が、……あるんですね」
「どうしてそんな顔するの」
「ごめんなさい。うれしいことだとは、思います。思いますよ。あなたが私のことを覚えてくれている。それを確かめられただけで満足するべきなんです。こんな奇跡はきっと二度と起こりません。同じ世界の、近い時代の、近い場所に、二度も落ちるなんてこと……。でも、だから」
 テンポは夕闇に従って速度を落とし、日没と同時に完全に静止した。ボールを抱えた少女が冬の静謐と共鳴する声でぽつりと言う。
「私も、覚えていたかったなあ……」
 どうやら懐かしのキャッチボールはこれで終わりらしい。ぼくは白い息を繰り返しながら彼女のもとへ歩き、ひんやりとした手からボールを回収した。
「どうしても思い出せないっていうのは、どういうことなの」
「……あなたにとっては何年でしたか?」
「十五年かな」
「それが、私にとっては一億年だったかもしれない、ということです」
「億って。本気?」
「正確な数字はわかりませんよ。さすがにそんなには覚えていられないから」
「……永いね」
 永遠の少女は、すべてを愛おしそうに、すべてから遠ざかって、ずっとひとりでいるのだ。
 ぼくは手元に抱えたごくありふれた市販のボールを見下ろして、目の前にたたずむ絶対的異質のことを考えている。歌と運動とマスカットスカッシュが好きで中学一年生にしては少し小柄な、かつてはぼくの初恋だった女の子について考えている。
「一緒に暮らそう」
 自然とそんな言葉が出た。
「夏になったら新鮮なシャインマスカットを絞って炭酸水で割って飲もう。たぶんわりかし近い感じになるから」
「……夏までこの世界にいられる確証はありませんよ」
「じゃあとりあえず一緒に年を越そうよ。でっかいおせち注文してあるんだ。母さんも父さんも子ども好きだから嫌がらないだろうし」
「あの、私は。暮らす場所とかご飯とか、無くても平気なので。お金のかかることでお世話になるのは、あまり……」
「どうして遠ざけるの。どうしてわざわざひとりでいようとするの」
「……」
「前もそうだった。前のきみは明るかったけど、でもやっぱり同じなんだね。変わらないんだね。やっとわかった。きみはずっとぼくらを突き放してたんだ」
 暗くなったから帰る。もう門限や決まりがあるわけでもないのに、何も言わなくても子どもの頃みたいに、ぼくらはそうして公園を出た。子どもの頃とは違って、ぼくは彼女の手を引いて歩いた。彼女に家が無いことを知っているから、ぼくには家があって仕事があってお金があるから、今はもうじゃあねと手を振らなくてもいいはずだった。
 身体を動かしてしばらくは残っていた熱を、家路に荒ぶ乾風が剥がしてゆく。冷えてゆく。
「ねえ、ぼくが覚えておくよ。ぼくは一億年は生きないから、せいぜい百年くらいだろうけど、死ぬまでは覚えとく。きみが忘れた分を教えられるくらい、覚えておくよ。だからまた、一緒に遊んでほしい」
 彼女は答えなかった。二人で夜道を辿った。家の前に立ったところで、小さな声がごめんなさいと鳴った。繋いでいた手が離れたから振り向いた。一歩離れたところで青色がぼくを見上げている。痛切な微笑みを浮かべた頬に短い栗毛がかかってなびいている。
「私は行きます。二度と会うことはありません」
「そんな。どうしてだよ」
「必要以上に迷惑をかけても仕方がありませんし。それに、あまり親しくなると、その分、傷つけることになりますから」
「おかしいって。そもそもなんで傷つける前提なんだ」
「今までそうやってきたから」
「頑固だな、きみは」
「ごめんなさい。あなたのことは愛しています。幸せになる生き方は知っています。好きなものも得意なこともたくさんあります。それでも、私は、生きていたいわけではないんです」
 言い残して少女がきびすを返した。またたく間も無くその足がアスファルトを蹴って、吹きつける乾風よりも速く遠ざかってゆく。ぼくは慌ててその背を追って走って、走って、すぐに背中が見えなくなって諦めた。彼女に運動では勝てない。勝てたことが無い。心臓が痛い。もう子どもではないから涙が出なくて困った。
 帰って両親に彼女が逃げてしまったことを伝えた。もう二度と会わないと言われたことも。父母はしばらくは難しい顔をしていたけれど、狐につままれたことにしようと結論してテレビ鑑賞に戻っていった。ぼくはボールを押し入れの奥に仕舞い直して、父と一緒に酒瓶を空けた。

 思い返す。何かに駆られるように何度も、何度も思い返している。
 黄金色の夕闇、ざわめく木立、日陰のベンチ、ジュースのボトルとゴミ箱、彼女の目の色、明るい栗色の髪、笑顔、笑顔、投球フォーム、砂煙、揺れるスカート、とっておきの秘密、ひんやりとした手のひら、交わした雑談、誘蛾灯、やらなかった宿題、涙した夜、ポタージュスープの味、白い息、コンビニの駐車場、まぶしげな横顔、埃のにおい、乾風、痛切な微笑み、冬の静謐。
 一度も真面目に彼女の歌声に耳を傾けなかったことを、ぼくはたったの数十年──彼女にとっては一瞬にも近いのだろうわずかな間だけ、ぼくが死ぬまで、悔やみ続けた。




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