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見上げた空のパラドックス
境界

 また、忘れていく。

 目覚めはいつも重苦しくて壮快だ。深い泥の底からゆっくりと這い上がった意識はたいてい睡眠と覚醒の境界を感じさせず、そのくせ瞼を持ち上げてしまえば夢でのことなど何も覚えていなくて、思考は晴れ晴れと空洞をさまようばかりになる。
 寒風が窓を揺らしたから倦怠を押しのけて目を開けた。冷たいビニールの感触と埃とへどろのにおい、静寂、喉の渇き。ぼやけた視界は瞬きとともに歪みを震わせて、ふと涙が落ちて、なつかしいと思う。埃を舞い立たせないように気を付けて起き上がると、凹凸の激しいところに放置されていた体があちこち痛んだ。慎重に伸びをして、息を吸って、吸いきる前にむせて、取り急ぎ窓を開ける。冷気が濡れた頬を刺す。たぶん、冬の朝だった。
 なんだっけ。覚えていない。
 何故かも、誰かも、何処かも。
 ただ胸が苦しい気がして仕方がなかった。何かがあったはずだ。何かとても大切なものを確かにこの目で見た。痛む心臓だけが確信している。記憶もなければ証人もいないから、それらはただ夢と呼ばれる。夢の、残像が脳裏を過ったような、錯覚に、涙が溢れて止まらない。そういう朝だった。今日はひどい眠り方のせいか一段とむこうの感情が残っているみたいだ。ごみ屋敷のうず高いがらくたに背を預け、自らの肩をさする。早く落ち着こうとだけ思った。どうせ明けてしまった夜は二度と巡らない。哀悼だけが証明になりうるとしても意味がない。実存への信仰で腹は膨れない。
 ごちゃごちゃ言ってごめんね。なんでもないんだ。
 まだ寝ぼけている。それだけのこと。
 たぶん倒れたのだろう。少しずつ思い出す。ずれたヘッドギアを外して汚れを払った。衝撃吸収用のクッション部分はとっくの昔にすっかりへこんでしまっている。

「……、大丈夫」

 身支度を整える。シャワールームの壁を這う虫に、この寒いのに元気だなあとぼやいた。無心に頭を洗っているうちに色々どうでもよくなってきて、ぼくは現実に戻る。
 もっとも、これが現実かどうか決めるのはぼくだが。
 紙とペンを鞄に押し込む。
 自宅のマンション前の通りはかつていつもまばらに車が行き交っていた。もう見る影もないので、狭苦しい歩道に沿う理由もないけど、でも結局は癖付いたまま歩道に従って足を進める。バイトを辞めたのが何年前だったか忘れたが、予定が無くなってからも目覚めたらとりあえず出かける習慣だけは保っている。適当に散歩をして、道中のどこかで食事を摂ったら、アトリエに向かう。
 変わらない日課だ。
 変わったことがあったとしても、よく覚えていないというだけだ。
 点かない信号機を無視して、枯れた木々の合間を縫い、廃教会の脇をすり抜け、白く残った病院の傍らで足を止める。なにかを思ったような気がして高くそびえる病棟を見上げて、結局なにも思い出せずに、視線を行く手に戻す。
 少しずつひび割れてゆくアスファルトを渡る、歩調の合間、一瞬の空白を埋めるように、どこからか降って湧いたある言葉が脳裏を占める。一言だけ執拗に繰り返す。いつの間にか周りが見えなくなっている。うつむいている。白い息で視界がふさがる。おかしいなとは思うけれど、なぜと言って深く考えるわけにもいかない。考えるためには記憶が必要だからさ。

「ごめんね……」

 ただ何かが消えないだけ。
 わけがわからずとも苦しめるうちは大丈夫だ。感情の片鱗だけでも残っているうちは。だから。
 大丈夫。
 これでいいんだ。
 これでいいはずだ。
 鞄を持つ手に力が入る。足を早めてもいないのに息が切れる。
 大丈夫。
 これでいい。
 繰り返す。歩く。歩く。どうやってアトリエまでたどり着いたかわからない。宥めたはずの涙が戸を閉めるなりせきを切った。やめろよ、紙が濡れてしまうだろ。
 一生目覚めずにいられたら、それはそれで幸せだろうと思う。
 ごみの中で育ったからごみの中で目覚める。冬が来るから街が凍える。誰もいないから静寂の満ちる。当然に地続きなふりをした歪な現実が、閉じた瞼一枚の先で、いつでもぼくを待っている。
 でも本当に、大丈夫なんだよ。後悔したことはない。何が起きてもこの世界を愛している。忘れたどこかでは憎んだこともあるだろうけれど、それでもぼくは生きている。鼓動が血流を運んで熱を帯びる。熱は指先に宿っておずおずと外気に震える。ぼくは、ここにいる。それだけのことを、この世界はまだ肯定している。きっと。
 だからぼくは筆を執らなくてはならなかった。
 少しでも紡げる言葉があるうちに。どこにもないもののために涙できるうちに。世界が決して肯定しない、ぼくにしか肯定できないすべての存在を、繋ぎ止めるように。
 膨大な絵画をめくった。空白が目立つけれど、何を描こうとしたのかまでわからないものは少ない。花、木々、家並み、季節、愛した人のこと、記憶に引っ掛かった夢の片鱗。ある時ぼくは無謀にも旅に出た。見届けなければならないと思ったから。描くために。その頃の絵はあまり見ていられない。記録を閉じる。呼吸を、鼓動を整える。アトリエの壁一面に絵画を綴じたアルバムが並んでいる。いつのものかわからなくならないよう整頓を怠らない。絶え間ない忘却を慰めるためだけの空間だ。
 毎夜の、朝の、白昼の、夢の断片を確かめている。
 これからも、残すしかない。描き続ける他にやりたいことがない。絶望に抗う術をそれしか知らない。ぼくは筆を執る。ここに命がある限り。

 この目がまだ開く限り。




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