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見上げた空のパラドックス
5 ―side Sora―

「あれがサウンズレストエンターテインメント本社だ」

 電車で数駅、徒歩で数分、灰色のビジネス街の路傍で桧さんが前方を指さした。ガラス張りの小綺麗なオフィスビルだった、とはいえここはどっちを向いても似たようなビルばかりなのだが。
 昨晩は物置部屋に布団を敷いてもらって眠った。朝になって支度が済んで、篠さんが行ってくるぞと声をかけたところでやっと桧さんも目を覚まして、俺も行くと言って慌てて上着を羽織った。やれやれといった笑顔を浮かべる篠さんと三人で、朝方の澄んだようでそうでもない排気を吸った。
 サウンズレストエンターテイメント本社ビル。エントランスは寒々しさを与えないクリームベージュに明るく整えられ、壁際にはよく育った観葉植物が置かれている。篠さんが受付で一言二言交わしているうち、桧さんはずんずんと離れて行って一人でエレベータに乗り込み、そのまま姿が見えなくなる。私と篠さんとは遅れてエレベータを待った。重たい話も世間話もしにくい、なんとも言えない沈黙の壁を挟んでふたり、点滅するエレベータの位置表示を見上げていた。ガラス張りの籠の上昇に合わせて耳の奥がつんとする。高層ビルばかりの街だから、どんどん上っていっても見晴らしはよくならない。ふたりぶんの沈黙を乗せた箱は、最上階で止まった。

「はじめまして、高瀬青空ちゃん」

 扉が開くなり、甘やかな女性の声がかかった。
 さらりとしたボブカットの、華奢できれいなひとだった。緑のカットソーに高そうなジャケットを羽織った姿から否応なく位の高い人物だと察せられる。そんな人が、エレベータのすぐ脇で、明らかに私たちを待っていた。翡翠色のひとみが私を見る。

「はじめまして」

 とりあえず会釈を返すと、彼女はくすくすと笑って、肝の据わった子ね、と言った。

「私は理子っていうの。一応ここサウンズレストの社長なんだけど、あんまり気にしないで、仲良くしてね」
「理子さん。わかりました」

 彼女がゆるりと歩き出し、ふたりそっとついていく。通されたのは漫画やドラマでしか見たことのないような社長室だ。大きくて高そうな机と椅子が窓際にぽつんと置かれた広い部屋。

「美山くん。休憩室に辰巳がいるから、少し怒ってるから、相手してあげて」
「……承知しました」

 篠さんが頭を下げて部屋を出ていく。
 さすがに、身構える。ちらりと見えた篠さんの横顔が珍しく笑っていなかったから。彼が緊張するほどの人なのだ、それとも社長ともなると当然なのか。

「ねえ、青空ちゃん。超能力を信じるわね?」

 身構える私をよそに、至って平静な声の、確信めいた問いが響いた。ちゃちな漫画みたいな台詞なのに彼女が言うとどこか重厚に聞こえる。ふかふかの椅子があるのに立ったままで向かい合って、翡翠の目が私の青を射貫く。どこを見ているんだろう。なにが見えているんだろう。
 でも。私の頭はいやに冷静さを保ったままでいる。
 ここは私の世界じゃないから。

「……ええ。信じます」
「あなたの力は?」
「たまに、火が出たり、しますね」
「正直でいい子。あのね、単刀直入に言うわ。当社では力のある人たちをスカウトしているの。力の制御、私たちなら教えられる。どうかな?」
「ここは、殺し屋じゃないんですか?」
「そうね。だからあなたにも人を殺してもらうわ。でも、あなたが愛する人を、二度と間違って傷つけないようにはしてあげられる。悪い話ではないでしょう?」
「あの」

 私が過去を思い出していることも、その内容の詳細もわかりきったような言い方だ。どうして。でも、それなら――

「私は故郷に帰れないんですか?」
「ええ」
「……そう、ですか」
「帰りたい?」
「いいえ。……もうみんな、生きてはいないだろうし……」
「そのとおり。あなたの故郷はもう滅んでる。帰れたとしても意味がない。そもそも、世界の行き来なんて、できる方がおかしいけどね」
「どこまで知っているんですか」
「知ろうと思ったことなら大抵は。でも、あんまりホイホイ使える力じゃないよ? このくらいが限界」

 彼女は肩をすくめて、上品なパンプスを鳴らして窓辺に寄り添った。ビルの合間を縫って眼下にはせわしない四車線道路が見える。何もかもが灰色の街並みの真ん中を、色とりどりの点が一直線に往来した。

「まあ、つまりね、拒否権は無いの。だって、危険だものね。力の制御ができない野良の異能者なんて。だからあなたは人を殺すの」
「……はい。それで、構いませんよ」

 帰れないのなら進むしかない。実感の伴わないまま、ぼんやりと、けれど他の判断ができもしなかった。何よりいまさら幸せに生きていこうなんて思えない。倖貴を殺した私が、あの時みんなと一緒に死ぬはずだった私が、一人だけ、なんて。だからこのくらいがちょうどいいんだと思った。昔の私には想像もつかないほどきな臭くて薄暗い道を行く、そうでもしなければ、私が失わせた愛する人との幸福な時間に示しがつかないと。
 胸の真ん中の空虚が、もう絶望でしか埋まらないことを確信していた。
 理子さんは笑った。端正で可憐な、だからこそ迫力のある、強者の笑みだ。

「覚悟はできてる?」
「いいえ。でも、それしかないでしょう」
「そうね。それじゃあ、少し頑張ってもらうわ」

 ぷしゅ、と小さな音がした。
 視界が揺れる。最初に感じたのは熱さだった。次に耐えがたい圧力と異物感。清潔な床に膝をついた。息苦しさをはっきりと認識する。あれ、でも、おかしいな。息はちゃんとできている。はずだ。苦しい。
 嵐のような感覚は一瞬で収まった。
 カラン、と小さなものの転がる音が聞こえる。見れば、煙を上げる金属片が。そのまま目を上げれば理子さんが無骨な拳銃をしまい直すところだったから、いま私の身体を銃弾が通り過ぎたのだと理解した。傷はどこにもない。

「痛みは?」
「……ありません」
「本当に不思議ね」
「……、……」
「あなたに傷がつかない理由や、どれくらいまで平気なのか、そういうのは私にもよくわからなかった。だからまずは調べさせて。ごめんね、苦しいでしょうけど、不明なエラーを放っておくわけにはいかないの」

 苦しい?
 そうだ、苦しかった気がする。
 違和感を思い出す。少しずつ夢から覚めていく。
 この世界にやってきてからずっと、息が苦しかった。

 膝をついたまま沈黙する私に理子さんは手を差し伸べてくれた。おそるおそる取ると、見た目通りしっとりとしたやわらかな手だった。

「案内を呼ぶわ。ついて行って」
「……わかり、ました」

 明るいガラス張りの壁の向こうはからりとした秋晴れで、強烈な青に目がちかちかした。ほんとうの青を知っているから、私は、ああ、美しくないな、と思った。


2021年12月12日

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