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見上げた空のパラドックス
4 ―side Sora―

 連れられた部屋はリビングルームの洒落た感じとは違い、整然として殺風景だった。不必要な物は何も無いPCデスクと椅子、それから折り畳み式のマットレスが一枚壁際に置かれていて、向かいの壁際に小さな二人掛けのソファが置かれている。基本的には、それだけだ。ひとつだけ特筆すべきはデスク脇に立てかけられたギターケースだろうか。

「俺の部屋。座って。とりあえず、校章、見してもらえる? 調べるから」
「……はい」

 袋からスカートを取り出し渡して、また大人しく座って待った。篠さんは私のスカートの裏地に記された校章とパソコンの画面とを交互に見ながらカタカタと作業をすすめていった。
 結論から先に言うなら、私や私が通っていただろう学校に関するデータは何も見つからなかったのだけど、……わかったことがひとつだけある。
 私が、退屈に弱いタイプだってこと。

「あの、篠さん」
「んー?」
「ここがどこかとか、そういうのは、教えてもらえませんか?」
「あー。いいよ、何でも聞いて」

 数分で待っていられなくなった私は、彼の作業を邪魔する勢いで次々と質問をぶつけた。今はいつなのか、ここはどこなのか――秋口で都心。さっきはどうして急にいなくなったのか――知り合いを見かけたから話してた。ギター弾くんですか――まあちょっとね。彼は律儀に答えながらも手を止めることはなく、ひとしきりの後にくるりと椅子を回して、「なーんも、ないな」と言った。

「ここにしっかり書いてある、渋野江っていう地名がまず存在しないんよ。似た校章で似たデザインの制服の学校も見当たらないな。だからってコスプレだ……って言うには、この服だいぶしっかり作られてるし、アニメにこういう制服があるかもざっとは見たけどピッタリのはなかなか無い。現状言えるのは、『あんたは存在しない町の存在しない学校の制服を着てた』ってことだけだ」
「……そんなこと」
「ない、とは俺も思う。から今は置いとこ」

 篠さんはさらりと言って流すとパソコンの画面を閉じた。

「で、そらちゃん。何か覚えてることとか、小さな違和感でもいいよ。あったら教えてほしい」
「えっ……と」
「その癖」
「え」
「リボン触る癖。それ、なんか大事なもんなんかな」

 彼が席を立って歩み寄ってくる。指摘されて初めて気がついたリボンに触れる癖、に気を取られるうち、止める間もなく髪がほどけてひとすじの青が彼の手に収まる。
 ぱし。
 あ、と思ったのは手が出てからのことで、一秒と待たずにリボンは私の手の中に戻ってきていた。強引に取り返したのだ、と理解して呆然と見上げると、彼は叩かれた手を事も無げに下ろして、変わらぬ顔で微笑む。

「悪かったな」
「……いえ」

 心臓の焦りに気がつく。どくどくと波打っている。それは手の中のリボンの光沢に視線を落とすと少しずつ落ち着いた。大切な物であることはきっと間違いないのだろうけれど、こんなんじゃ、大切、というより。まるで依存だ。
 過去を思い出したところで、あまり素敵な記憶ではなさそうだなあ、と、どこか遠く思った。

「……顔色悪いな。ちょっと休もうか。俺は出とくよ、深呼吸しな」
「待ってください」
「ん?」

 手早く、おそらく染み付いているのだろう感覚に従ってリボンを結い直し、部屋から出て行こうとする篠さんを呼び止める。
 急にひとりにしないで。

「大丈夫ですから。それに、何もしないでいるのって得意じゃなくて」
「そ。んじゃ、何か覚えてること、話してくれ」

 部屋を出ようとした篠さんがすぐさま椅子に戻る。心配してくれたかと思えば淡白な仕事人の顔に戻っている。つくづく切り替えの早い人である。
 ……覚えていること。
 そんなに多くない、というより、ほとんどない、ひとつしかないのだった。あの空の景色。深く痛烈な青色。何者も侵せない純白の積乱雲。それがゆっくりと流れていくだけの悠久に溶けて忘れていた自我。
 そういえばそう、私はあの空を見ていたはずだ。見て、見て、いつしか景色と自分の区別をなくすくらいに見て、そこにいたはずだ。でも今はこうして殺風景な部屋でソファに腰掛けている。どうやってここへ来たんだっけ――? たしか、落ちた。重力に引かれて落ちてきたのだ。その感覚だけがまざまざと残っている。
 青、白、重力。
 こんな曖昧な記憶をどう伝えればいいのやら、考え始めたとき――電話が鳴った。

「うおっ」

 じっと私の言葉を待っていた篠さんが驚嘆の声を上げながらけたたましく鳴るケータイを引っ張り出す。ディスプレイを見るとその顔がめずらしく険しくなった。もしもし、と言う。声の硬さから仕事関係だとわかった。わずかに漏れ聞こえるのは女性の声らしいが聞き取れはしない。彼はスピーカーを耳に当てたまま強張った表情でたたずみ、何かをただ聴いていた。それから一言「わかりました」とだけ言って、通話が終わる。
 大丈夫ですか。と問おうかどうか迷っているうちに彼が振り向いて、いつもの微笑を見せた。力の抜けた顔だった。

「はー、びっくりしたー」
「どうしたんですか?」
「後のことは本社でやるって。明日身柄引き渡せって。てえことは、今日はもう好きにしろってことやん。うっし半休だー、のんびりしよー」
「……」

 後のことっていうのも本社っていうのもだいたい全部が怖いんですけど。急にゆるい口調で来られて当惑する。篠さんは機嫌よく開きっぱなしのケータイを振る。壁紙が海の写真だ、きれい。

「うん、さっきよりは顔色よくなったな、そらちゃん」
「……あなたがそういう感じだからですよ」
「はは。そんならうれしいな。見習ってさ、力は抜ける時に抜きなよ」

 言われて初めて自分の座り方のぎこちなさに気がつく。思ったより緊張していたらしい。ゆっくり息を吐くと身体がソファに沈み込んだ。今日という日の疲労と緊迫が呼吸になっていく。

「私、死ねないのかな」

 言葉が無意識に溢れ出た。この感覚を名状するには記憶が足りない。
 篠さんは口を挟まなかった。ただ何気ないままに流した。

「ご飯作るけど食べたいもんあるか?」
「え。……温かいものがいいです」
「おっけー」

 二人で部屋を出る。一階では桧さんが眠そうな顔で新聞を読んでいる。メシ作るぞー、おー、とだけ会話がある。慣れた風だ。
 居どころがないので桧さんとは離れたところに腰を下ろして大人しくしておく。つけっぱなしのテレビからは物騒なニュースばかりを淡々と読み上げるアナウンサーの声が小さめに流れてくる。暇を紛らすために聞いておく。

「……篠も、ちゃんと脅してやればいいのにな」

 ふと口を開いたのは桧さんだった。つまらなそうに紙面へ目を落としたまま。篠さんは少し離れたキッチンで作業中だ。

「高瀬って言ったか。お前、ずいぶん落ち着いてるようだが。わかってるのか? 置かれた状況」

 抑えた声で、目も合わせず。どうにも言いたくなさそうだったから少し笑ってしまう。非情になりきれない悪人たちを前にして、気が抜けていくばかりの自分がおかしかった。

「全然わかりません」

 端的に返すと、紫紺の目がちらりと上がって下がる。

「……、そうだろうな」
「死体を見ました。私もそうなるんだって、思ったんですけど、ならなかった。……わかりませんよ」

 少し冷たいだけだった、自分の喉元を通り抜けるナイフの感触を思い出す。
 刃が迫ったとき、死ぬと思った。当たり前に、傷つけば痛くて、血が出るだろうと思った。けれど実際は何も起きなくて。不可思議な体感は一瞬でこの全身を得たいの知れない無生物に変えてしまったみたいで。
 私は、自分のことがわからなくなった。空気が気道を往来することも、指先に血が巡ることも――記憶なんか無くたって信じていた、そんな前提の数々が、どこか夢のように信用ならなくなった。ねえ、私、ちゃんと生きものだよね? なんて問いが心臓を伝う。この手は少し冷たい方だけど、でも確かに無機物よりは温かいと思うのに。

「エラーの調べなら本社がやってくれるだろうがな。どうせろくでもないことに利用されるに決まってる。穏やかなのは今のうちだよ、せいぜい覚悟しておけ」
「はい。ご忠告、ありがとうございます」
「……はぁ……」

 二人とも律儀だ。口で言うばかりで酷いことは何もしないくせに。
 殺し屋だと篠さんが言っていた。疑う余地はないけれど。肩書きの物騒な響きにはとても見合わず、この人たちは穏やかだ。むしろ少し、だいぶ、優しくすら見えてしまうからつい微笑んだ。
 また深く息をついた桧さんはそれきり口を開かなかった。退屈で物々しいニュース番組、キッチンからの物音だけが、延々と時間をつなぐ。
 数分も沈黙が続くと少し居心地が悪く思って、私は用もないのにお手洗いに立った。キッチンの脇を通る。
 その刹那、だった。
 たった一瞬の不完全燃焼がコンロから溢れて消えて。朱が、見えた。印象はするどく喉に張り付いた。
 焔。
 脳裏に実体を持った恐怖がはじけた。視界が揺れる。ぐるり。咄嗟にトイレに逃げ込み膝を折る。頭が、全身が重くて潰れそうに床へ縋った。息をする。喉から細い音がする。鼓動が速くなっていく。清潔な便座の輪郭がぶれては結んでを繰り返す。

「……っ」

 震える手で口許を押さえた。嗚咽を止める。呼吸を止める。心臓も止まれば良いと思った。魂に刻まれた喪失と罪が、鼓動に乗って全身へひびいている。
 そうだ。
 そうか。
 私は喪ったんだ。
 愛する人を。幸せな暮らしを。乾きゆく哀悼を照らす斜陽を。それでも続こうとしていたか細い未来のすべてを。踏み締めていた故郷の土を。
 世界を。私のいのちを。
 確かに、あのとき。

(思い出した)

 簡単なことだった。こんなに呆気なく、こんなに当たり前に、私は自らから逃げられない。もうどんな幸福も不安もないよ。体のいい罰を受けてゆくだけ。
 あかいろひとつで記憶が戻るのだから。


2021年11月16日

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