[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
3 ―side Shino―

「碧」

 あおい、という妹がいる。
 彼女はこの国を揺るがしたある一大事件の日に生まれた。
 暖かく優しかった両親が、突然なにも言わずに出かけて帰ってこなかった日だった。幼かった俺は不安でたまらなかったのを覚えている。両親は結局数日後になって姿をあらわして、生まれたばかりの妹を家に置いて、それきり、どこかへいなくなった。
 尊い奇跡のような話だろ? だって、新生児のうちに捨てられた妹は、今も元気に生きているんだから。

「碧!」

 彼女は掴まれた腕と俺の顔を交互に見ている。駅ビルの一角、小ぶりな楽器屋の店頭に彼女を見かけたから、とっさに追いかけて、気づかれて逃げられて、はるばる道路に出て、やっと捕まえたところだった。

「……、なに?」
「……」

 俺と同じヘーゼルアイが当惑を示す。強気な響きの声が怯えを含んでいる気がして、俺はそっと手を離した。
 すべきことは多いが、すぐにできることは少ない。
 とりあえずは、そうだな。

「眠れてるか? 食べてるか?」
「んな話するために追いかけてきたの?」
「うん。大事やろ」
「アホ……」

 妹の声が沈んでいく。
 灰色の路傍、人通りはそれなりだが、今は誰も見ていないようだ。
 俯いた少女の顔に肩まで伸ばされた黒髪がはらりと影を落とす。俺はただ立ってそれを見下ろしている。

「まあ……眠れてるし、食べてるよ」
「……」
「嘘じゃないって。タフな方やん、私」
「辰巳が会いたがっとるよ」
「……、……しばらく会えないって伝えといて」
「俺も話すこと、たくさんある」
「しばらく保留にして」
「……学校は行ってる?」
「行ってない」
「何か困ったらすぐ連絡してな」
「ねえ、お兄ちゃん」

 正面から目を合わせられる。碧は都合のよくない時ほどそうするから、こちらが気圧されそうになる。傷ついているのは彼女の方だろうに。
 俺は隠していた。
 裏の仕事のことを。妹に。ずっと。
 発覚したのはつい一週間ほど前で、しばらく一人にしてくれと頼まれて俺は桧の家に転がり込み、毎日メールを無視され続けている。
 たぶん、きっと、仕方のないことだった。ずっとずっと隠し通せるわけはないと知っていた。彼女が一人でもある程度は生活ができるようになった今まで隠し通せたのだから、上々だろう、とさえ。

「私、たぶんお兄ちゃんが思ってるよりもけっこう大丈夫だから。家のこともちゃんとしてるよ。だから、ただ少し、距離を置かせて。連絡する気になったら連絡するから」

 努めて落ち着かせたような口調で彼女が言った。成長したなあとは思うも、それで心配が消えるわけではない。互いに黙って無理をするたちなのはわかっているわけで。

「メールにだけ返信くれ。空メールでも」
「……わかった」
「本当につらいときは俺かひのきちゃんに言うこと」
「わかってるって」
「んじゃ、そういうことで」

 ひらり。手を振って踵を返す。駅ビルへ戻る俺の背を碧は数秒だけ見て、反対側へ歩き出した。
 妹はもう何も知らない子どもではない。本人が大丈夫と言うのなら、信じよう。生存確認だけは許されたいが。
 足早に店内へ戻ると、青い目の少女は化粧室の出口から動かずに待っていた。

「そらちゃん。待たせてごめん。かわいくなったなー」
「……ありがとうございます」
「んじゃー、帰ろ」

 高瀬青空と名乗った不死身で記憶喪失の彼女は、怖がる様子もなくスカートを揺らして俺の隣についてくる。さっき連れ歩いた時よりだいぶ緊張がほぐれた様子だ。よかった、と思うと同時、だからといってどうしようか、とも思う。
 不死身。
 冷静に考えなくても重大なエラーでありイレギュラーだ。彼女に課されるだろう処遇を考えるだけで気が滅入った。

 エラー。
 この世の理(system)に反する何か(errorあるいはbugとも呼ばれる)を身に宿してしまった者たち。
 端的に言えば、超能力者だ。
 あの日、碧が生まれた日。一人の少年が、社会の闇の奥底に隠され続けてきたエラーのすべてを、その命をもって世界に告白した。厳密に言えば関連するとある組織の悪事を告発しただけなのだけど、とにかく、彼の遺書はこの国を、この国の異能者たちの暮らしを根本から揺るがす力を持っていた。
 重要なことだけ言えば、エラーは今も社会の裏側に押し込まれ、隠され続けている。日向で生きる人々は、裏路地に蔓延るSFチックな不条理のことをそうはっきりとは知らないだろう。ただ明確に、治安が悪くなった。それだけが誰しもの知るところだ。
 ただ、人として生きにくいエラーたちの行き着く場所自体は、変わった。
 変化を超えた、その後の世界で、俺はエラーに関わるある組織で働いている。

「いいか、そらちゃん。あんたはきっとこれからものすごく苦労する」
「はい」

 少女はわかっているとばかりに小さくうなづいた。名前と同じ色の目は何気ないときでもすべてを射貫くように澄んでいる。出逢った一瞬目から執拗に静謐で、――どう見ても既視感があった。
 似ている。おかしいほどに。
 実際おかしいと、思う。肌身に感じる。根拠はないが、何かが変だ。

(……碧)

 死体輸送車から俺が降りるところ、を、碧は目撃した。当然はぐらかしたが、違和感は拭えなかったようで、隠し続けることに限界を感じて、数日後に俺から白状した。
 そのときだ。彼女もこういう顔をした。
 ただただ直視する、澄んで強いばかりの目だった。意思は感じなかった。嫌だとか怖いとか逃げたいとか、困惑すらも浮かべなかった。状況が飲み込めないのか、呆れか諦めか。
 同じだ。碧と、この少女は。
 わけもなくそう思う。
 だから余計な口を挟みたくなった。俺は少女に言い聞かせる。閑静な灰色の路地の隅で。

「でも――嫌と思ったら逃げてもいい。あんたにも俺たちにも、力がある。何も言えない立場ってわけじゃない。それだけは、覚えておきな」

 彼女は働かされるだろう。
 最悪の場合は、俺と同じように。

「あの、篠さん。どうして」

 帰り着いた背の低い四角いビルの玄関先で、少女はまたまっすぐにこちらを見上げる。目の奥の奥を覗き込もうとするような視線に、少し気圧されそうになる。よく味わう感覚だ。

「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか?」

 至極まっとうな問いだ。が、答えるべきだろうか? あんたがあまりにも妹にそっくりだったから、なんて馬鹿げた理由を。

「……なんでかな。けど、一人くらい頼れるおにいさんがいたっていいだろ」

 へらへらとはぐらかした俺を、揺らぎのない目はじっと覗いている。
 顔も声も年齢も違う他人のはずが、どうしてこんなに重なって見えるんだろうな。あまりに強烈に重なるものだから、本当は刃だって突き立てたくはなかった。
 少女は、ふと、かすかに破顔する。微笑みの仕草ひとつだって奇妙なほどに重なった。

「……優しい、んですね。篠さん」
「やめときな、人殺しを信用するのは。ぜんぶ嘘かもしれないやん」
「だって。私がこれから苦労するってことと、あと、服を自由に選ばせてもらったことは、本当だから」

 彼女の左手が髪飾りに触れている。ひとすじの青いリボンだ。

「ありがとうございます。……って、思えるうちに言っておきますね」

 笑顔を初めて見る。変哲なく可憐なのに、どこか痛みと諦めを秘めている。
 やっぱり、似ていた。いつも見ている表情だった。だからいつもと同じように、俺も淡く笑って返す。

「んじゃ、今のうちに聞いとこうかな」

 さあ、きっとまた転機になる。
 一つ目の鍵を回した。


2021年11月3日

▲  ▼
[戻る]