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見上げた空のパラドックス
2 ―side Sora―

 男性と共に一枚目のドアを潜る。二枚目の扉までの空間の脇に細長い椅子が置いてあって、彼はそこにぽすんと座ってケータイを取り出す。あ、ガラケーだ。

「もしもしーひのきちゃん? 起きてた?」

 受話器に向かって放たれたのが存外に明るい声で、驚きにぴくりと肩が跳ねた。

「篠やけど。悪い知らせがあって。驚かんで聞いてほしい。うん、……女の子誘拐しちゃった」

 は!? ……と、隣に立つ私にまで電話の向こうの声が聞こえた。彼と同じく若い男性の声だ。

「事情がありそうでな。連れてきちゃった。いまうちの前」

 はあ!? お前いまなんて言った!?
 かなり大きく相手の声が聞こえて、「あっ切れた……」と彼がつぶやく。緊張感のないやりとりに戸惑いながら、とりあえずカーディガンを返却したところで、今度はガチャガチャガチャと扉の方から開錠音が騒がしく響き出す。見たところ鍵は三つついていて、開けるのも一苦労だろう……なんてことを考えてしまう程度には、今のやり取りで気が抜けてしまった。
 ようやっと扉が開かれると、はたして若い男性が渋面をあらわしこちらを睨んだ。ヒノキ、と呼ばれていた人だろう。黒に近い紫の目。

「はぁ。篠……百歩譲ってなんかあって人を連れてくるのはわかる。が、連れてくるより前に電話しろ。俺がいなかったらどうすんだよ」
「寝てたやん」
「起きて出かけてるかもしんないだろ」
「でもいた。めでたし、めでたし」
「最悪な起こされ方したよ、まったく」

 私を連れてきた声の高い男性が、シノ。このビルというか、家? から出てきた方の男性が、ヒノキ。と言うらしい。
 ヒノキさんは私のすがたを目に大きく息をついて、「入れ」と短く言うと扉を押し開けた。私はきょろきょろと二人の顔を見てから、おそるおそる重たい扉をくぐる。
 モノトーンにしつらえられたリビングルームだった。グレーの絨毯の上、黒の二人がけソファがL字に置かれた一角にはガラステーブルと小ぶりの液晶テレビが置かれていて、どこか持ち主の几帳面さを感じる。私は示された通りソファの片隅に座った。シノさんが玄関に背を預けて立ち、ヒノキさんが私の斜向かいに腰を下ろす。

「……とりあえず。どこの誰?」
「……」
「名前は?」
「確認させてください」

 すぐに答えることはできなかった。でも、知る方法があることはなんとなくわかっていた。
 私は座ったばかりのソファから腰を浮かすと、カチリと身につけていたスカートのホックを外した。足元に落下したダークブラウンのそれを拾い上げたところで、「……ちょっと待て何しとん!?」と後ろから焦った声がする。

「短パン履いてるので大丈夫ですよ」
「そういう問題!?」

 すみませんと言いつつスカートの裏地を調べる。えてしてそこには白い布で繕われた記名欄があって、しかと私の属するらしい学校の校章と生徒氏名が記されていた。

「……高瀬青空」

 たかせそら。端正な大人の筆跡は丁寧に読み仮名までも記してあった。もしかしたら私の親が書いてくれたのかもしれない、と直感するけれど、相変わらず記憶はぼんやりとしたまま、ただしっくりとくる感じはある。だからこれが私の名前で、きっと合っている。そら。

「って言うみたいです」
「お前、自分の名前がわからないのか?」
「はい。……キオクソウシツ? ってやつ、みたいです」
「事情って、そういうことか……」
「ひのきちゃん、そいつ殺せなかったんよ。傷が付かなかった」
「は」
「言葉のままの意味」

 会話しながらスカートを履き直した私に、シノさんが後ろから柔い声を飛ばして歩み寄った。

「そらちゃん、ちょっといい?」
「はい……?」
「身構えて」

 数秒。何を言い返す間もなく片手をとられ、刃が前腕の裏側を滑った。ひやりとする。え、いつの間に抜いたの、そのナイフ? シノさんは表情ひとつ変えない。ただ慎重に、薄く皮を裂いて入り込んできた白刃から、私は思わず目を逸らす。また、やっぱり、痛みも流血もなかった。確認するようにゆっくりと線を引いた刃は、やがてなんの色もつけずに離れていく。傷跡ひとつ残らない。何事もなかったみたいに。
 二回目だ。自分でもまだ驚く。不気味とすら思う。

「な? こういうこと」

 シノさんがナイフをポケットに押し込みながら言う。私は切りつけられたはずの自分の腕を呆然と見下ろす。
 生ぬるい加害未遂を見せつけられたヒノキさんはどんどん眉間に皺を寄せていく。まだ会って数分だけれど、ずっと悩ましそうにしている。むろん私のせいだろうけど。

「こりゃまた……特殊なエラーだな。発生初期?」
「ぽいけど、本人に記憶がないならわからんな」
「はぁ。……高瀬、って言ったか。本当に何も覚えてないのか? 何があってそうなったのか」
「はい……」

 曖昧にうなづく。感覚的な確信はいろいろ探せばあるのだろうけど、言葉にできる記憶は無いにひとしい。

「そうか。俺はひとまず本社に連絡入れるが、篠、調べられることは調べておけよ」
「おけ」
「……の前に。服、どうにかした方がいいんじゃないか?」
「そやなあ。ちょっと調達しようか」

 私をよそに青年たちは次々と話を進めていく。頭上を飛び交う声を邪魔しないよう、私はソファの片隅に小さくなってそれを聞いている。
 変なことがあって変な人たちに拾われて、これからどうなっていくんだろう、とゆるやかに考え始めてみる。きっとどうしても平和にはいかないだろう。
 それで、いいよなあ――と、納得に似た諦めが心の真ん中に音もなく生じている。どこからやって来たのかは、やはりわからない。

「出掛けるならそいつ連れてけ。俺の手には負えない」
「ん、わかった」

 そらちゃん、と柔い声が私を呼んだ。響きはいたって優しいばかりだ。

「はい」
「怖いか?」
「……怖くは、ないです」
「そ。まだよくわかんないよな」
「はい」

 うなづいたけれど、半分は嘘だ。よくわからなくて現実感がなくて、何もかもが遠いような気は大いにある。でも、それだけじゃない。
 どうしてだろう。こんなにも彼らの振る舞い、その雰囲気に安心してしまうのは。状況にも記憶の有無にも関わらず、何かへの反射をして感情が動く。何かがなつかしいような温みがある。私は黙って戸惑うままでいる。

「ま、悪くなったら悪くなっただから。とりあえず……、その服。なんとかしに行こ」

 焦げ跡と埃にまみれた私のセーラー服を目に彼が言って、もう一度カーディガンが投げて寄越された。
 取って返してまた街へ。今度は手を引かれるわけでもなく、彼はただ「あんま離れんようにな」、と言って先を歩いた。白昼、ビジネス街の路地は静かで、灰色一色のアスファルトにふたりぶんの足音がかすかに聞こえている。

「あらため、俺は美山篠。なんか困ったら言ってな」

 静寂に放たれてもうるさく感じない声はゆるゆるとして朗らかだ。隣から顔を見上げるとなんら後ろ暗さを感じさせない柔和な微笑みがある。ヒノキさんと話していたときもなにやらずっと笑顔だったし、癖なのだろうなと思う。

「美山さん、ですね」
「下で」
「……篠さん?」
「うん。妹いるから紛らわしくてなー」

 彼はからから笑って、何気ないまま鞄の紐を持ち直した。

「あ、さっきの人見知りは桧辰巳っての。知らない奴の前じゃ不機嫌だけど、ぜんぜん怖いヤツじゃないから」
「桧さん。お友達なんですか?」
「んー、友達ってより、上司? あと今は俺が居候してるから、同居人だな」
「じょうし……」
「うん。殺し屋だもん、俺たち」

 あっけらかんと言うものだから、私は何も返せなくてうつむく。
 人通りのある道に出ると篠さんも私も余計な口を開かず、駅ビル内の服飾店が固まった一角で足を止めた。ぎらぎらしたセールスの嵐に目が回りそうになるが、よくよく見れば興味を惹かれるものもたくさんある。

「なんか選びな」
「えと、私、お金とか」
「そんくらい出すよ」
「……お世話になります」

 誘拐犯につい頭なんか下げて、安めのワンピースを一着入手し、公衆トイレで身なりを整える。自分で改めて見てみると、なるほどこれまで着ていた制服は脇腹から背中にかけてが焦げと煤でひどい有様だった。火事でもあったのだろうか、と考えそうになって、悪寒が走ってやめる。とりあえず、髪飾りにしているリボンが綺麗なままでよかったな。
 着替えを終えてトイレを出た。ところが、出口付近で待っていたはずの篠さんがいない。離れるなと言われていたはずなのに。


2021年10月19日

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