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見上げた空のパラドックス
1 ―side Sora―

(まえの……一番最初の世界での話)

(蒼穹から滑落して目を開けると、そこは薄暗い路地裏だった)

 ビルの外壁に薄くスライスされた空は薄白く、濁った水色はここへは光を落とさない。急に景色が変わってまばたき数回、私は焦げあとのある夏物のセーラー服姿のままコンクリートの他に何もない辺りを見回して、ひとまずここを抜けよう、と歩き出した。
 私には記憶というものがなかった。覚えているのは、あの蒼穹の鮮やかさ、髪飾りにしているリボンが大切だってこと、焔が苦手だということ。だけ。
 灰色の迷路に惑う。排気の染みる路地裏をさまよって、ふと、何か得体の知れない異臭を感じて私は足を止める。錆びた鉄のような。そのころの私はまだその臭いの正体を知らなくて、ただ嫌な感じだとだけ思って、そして……どうしてだろう、わざわざ異臭のほうへ足を進めてみたのだ。
 案の定――
 そこにあったのは死体だった。
 初めて見た、……わけではない、人の死だった。その時は初めてだって思ったんだよ。だから、本当の初めての時と同じことを思った。
 『わからない』。
 ソレは、だいたい人のかたちをしていて、喉元と、左腋を縦に切り裂かれていて、黒々としたものを辺りに撒き散らして、生物としての活動を完全に停止していた。
 わからなかった。自分が何を見ているのか。わからないと思ったから、反射的に見つめてしまった。ハエが群がっている。汚れた靴。破れたジャケット。そのいちばん端っこに人間の顔らしいものをはっきりと知覚したとき。ようやく、私はその正体を悟った。

「……っど、どう、して」

 咄嗟に覆ったのは目でも口でもなく両耳。群がるハエの低い羽音がうるさくてぞっとした。
 ありえない。と思うことができたのも数秒で、何かに気がついたような思い出したような気がして、けれど頭は回らなくて、ただ無抵抗に、非現実的な現実に襲われる。……ああ……ここは殺人現場だ。それだけを理解した。案外、冷静だったのかもしれない。
 こんなにも血の臭いが鮮明だから、犯人はまだ近くにいるだろう。見つかったら私も殺される。想像するのは難しくなかった。
 死。
 苦しいと思った。まざまざと、死体の黒ずんだ目が私を見ていたから、引きずり込まれそうで、いやだ、死にたくないと心が叫んだ。異臭が喉につかえて咳き込んだ。呼吸がうまくいかない。死が、私にささやいている。黒々とした路地の暗がりの底から、ハエの羽音の休符から、鼻腔を焼く強烈な刺激から。おいで、君を待っていたんだと。暴力的な甘い幻聴だ。頭ががんがんする。酸欠に押し負けて膝をつく。

(なんだろう、)

(知ってる感覚だ)

 わけもわからず胸の真ん中に穴が空いたような気分で。茫然と息を詰める私に、背後から声をかける人がいた。足音もなく。

「大丈夫か?」

 なんて言ったその人は、目の前の死体をみとめてもさっぱり動揺しないのだから、きっと犯人だ。若い、まだ成人しているかもあやしいくらいのあどけない男性だった。やわらかな声が独特で、場違いなほど心地よく耳についたものだ。彼が片手にナイフを隠していたとしても。かけられたその一声だけで、私は息の仕方を思い出した。
 目が合った。微笑みを湛えていた薄いヘーゼルアイが、私をとらえると何か驚いたように丸くなって震えた。

「あんた、いったい……?」
「……わかりません」

 かすれた声が出る。何もわからない、そう答えるしかなかった。こんな言葉が私の最期か。
 薄いヘーゼルアイの彼は私の答えになおも何か驚いたような顔をして、少しだけ黙って。

「……そ。悪いな、余計なこと聞いた」

 かすかに眉を下げて笑った。彼は、見るも鮮やかな手際で、私の喉元に白刃を突き立てる。
 ひやり――と冷たさが走った。きっと確実に的確に人を殺せる軌跡だった。思わず目をつぶって、訪れるのだろう痛みに身構える。
 静寂が過ぎた。一秒……三秒……五秒。
 何か変だ、と感じて薄目を開く。
 景色は変わっていなかった。薄暗い路地裏、目前に佇む男性と、同じく立ったままの私。磨かれた刃はしっかりと私の首筋に刺さっている、ちゃんと感覚がある。でも、私は。
 まだ立っている。
 痛みもなければ、血の一滴も溢れてはいなかった。

「……どうして」

 思わず口に出すと、刃がするりと抜けていく。パチンと折り畳んだそれをポケットに押し込んだ男性は、何も言わずに私の姿を上から下まで一瞥した。

「あんた……幽霊か?」
「え、あ、そうなのかな……幽霊、いるんですか?」
「見たことはないな」
「そう、ですよね」

 おもむろに手首が掴まれる。恐怖よりは混乱が勝って、私は無抵抗でいる。彼は真剣な面持ちで掴んだ私の手首を見つめ、言う。

「体温も脈もある」
「……」
「これまでこういうことはなかったんだな?」
「は、はい」
「そっか……。わかった。そんじゃ、ついてきてくれ」

 そのまま手を引かれた。立ち上がろうとして、膝が震えて、ふらつく肩を彼が支える。

「おっと。歩けそうか?」

 どうして優しい声をかけるんだろう。彼は明らかに殺人犯で、さっき確かに私のことも殺そうとしたのに。戸惑うけれどどうにも落ち着いてきて、私は改めて自分の足でアスファルトを踏みしめた。傍らの死体が見えないよう俯いて。

「これ、着てな」
「え」
「あんたの服、汚れてて目立つから」

 彼はそう言うと鞄から取り出した黄色いカーディガンを私に羽織らせた。けっこう大きくて、だぼつく。
 あとは黙ったまま、歩いて歩いて、普通にしてろとよくよく言い含められながら電車に乗り、数駅して降りてまた歩いて。着いた、と彼が口を開いたのは、鈍色の雑居ビルが立ち並ぶ寂れた一角、背の低い四角いビルの前だった。
 手前中央にガラスの扉があり、その奥にもう一つ大きく厳重そうな扉がある。あの鍵付きの扉の奥に私は囚われてしまうのだろう。どうしよう、嫌だな、とはもちろん思うけど、あいにく私には逃げ帰りたい家もなければ名前の記憶すらない。逃げたところでどうする。わからないから、ただ従っていた。


2016年7月29日 2021年10月15日

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