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見上げた空のパラドックス


 波の音は静寂に似ている。
 なるべく人が寄り付かないだろう遊泳禁止の浜を調べて赴いた。都心から南へ数本電車を乗り継ぎ、潮風の吹く駅前を歩くと、舗装の乱雑さが増していって濃密な静寂が俺たちを出迎えた。青と白砂、風と波。人はいないわけでもないがまばらで、堤防の落とす影の下で楽器を練習する青年、波打ち際で犬を歩かせる老人、彼らは総じてふたりだけの観光客になど見向きもせず沈黙を守っている。

「晴れてよかったですね」

 少女は冷えた潮風にスカートをはためかせ、水平線を見つめる。白く泡立つ水面は緩やかに波打って風を轟かせ、押し寄せて砂を浚っていく。
 俺は実のところ東京の外で海を見るのは初めてで、率直に青いなと思った。東京の海はもっと黒い。他に思うことは別にない。景色を楽しめる感性があるなら俺ほどの出不精にはなるまい。
 堤防の近くに転がされたブロックのひとつに腰掛け、何もないのに楽しげに浜を歩く少女を見守った。形のいい貝殻を見つけてはしゃぐ彼女に返せるような気のきいた言葉は見つからない。

「桧さん、どうして連れ出してくれたんですか?」
「……なんでだと思う?」
「さあ?」

 彼女は不思議そうに首をかしげるばかりで考えようともしなかった。俺は堤防の湿った影の中で浅く息をつく。
 言いたいことはずっと同じだ。
 お前はもう少し自分を大切に思ってくれ。普通の、人間の少女だと。そしてまっとうに傷ついて、まっとうに後悔して、まっとうに俺を恨んでほしい。

「やっぱつまんねえわ、外」
「うちにいるよりマシじゃないですか?」
「おんなじだよ」
「ずっとつまらないんですね、あなたには」

 からからと笑う。今日はずっと彼女の表情が明るくて直視できない。

「桧さん、何か楽しいと思えること、本当に何もありませんか」
「……ないよ」
「私といても楽しくない?」
「うん」
「そうですよね、よかった」

 なんで笑ってんだこの女。怪訝に思うままひんやりとしたコンクリートに触れている。落ち影の淡い境界を挟んで向こう、白昼の光のさなかに佇む少女は、何ともなしにこちらに背を向け、海原を臨む。

「その方がいいんです。そのままでいてください」
「……何が言いたい?」
「少し心配なんですよ。言ったらあなたは怒るかもしれないけど。桧さん、だんだん私を大切にするようになったから」
「……」
「いつ捨ててもいい、と思っていてくださいね」
「お前さ、」

 思わず立ち上がった。光の方に歩く。先に立つ少女は振り返らない。

「いなくなるつもりなのか?」

 あと一歩まで来て、どうしていいかわからず立ち止まる。砂浜はただただ歩きにくくて好かないなと思う。

「はい。当たり前でしょう? この世界はいつか私をはじくから」
「は……? お前、」
「覚えてませんよ。ごめんなさい。でも、知ってるんです。座席を奪い取ったとしても、ずっとここにいられるわけじゃないんだって。私、言ったことありますか? 世界に存在を拒まれると、息が苦しくなるってこと」

 海原を背に彼女が振り返る。その手が細い喉に触れている。人のちっぽけな視界には果てしなく見える一面の青の真ん中で、結局やっぱり彼女の瞳の湛えるそれがいちばん澄んでいた。

「――たぶん、ですけど。席を取ったとき。きっと息が楽になるだろうと思って、でも、ならなかったんだと思います。少しタイムリミットが延びた、それだけなんだってわかって。私はどうしてももうすぐ『死ぬ』んだって。あと少し、この世界で、どう生きたらいいんだろうって。そればかり考えていました。考えていた記憶はあります」

 そうだ。
 思い出した。俺はまだ聞けていなかった。お前は一体どうして、なんのために碧を殺したのかと。

「お前は俺の恋人を殺した」

 端的に教えた。お前が盗った椅子の持ち主が誰だったか。
 彼女は空より海より透き通る色の目をみはって、すぐさま諦めたように微笑んで、そうですか、と言う。
 さすがに、かちんとくる。

「そうですか、じゃないだろ。お前。何のために碧を殺したんだよ。なんの罪も恨みもない、碧を殺してまで、篠といたいのかと思ったら一人で逃げるし。追い付いてみたら俺にホイホイついてくるし。殴っても文句言わねえし。全部、忘れたし……お前そんなくだらない時間のために、わざわざ人の命を、」
「死にたくなかった」

 風が止む。
 少女の声は消えた潮風と同じ温度をしている。

「目的なんて、なかったんでしょうね。私。死にたくなかった。今だって、抗えないから、泣いても変わらないから黙ってるだけで、いなくなりたいわけじゃなくて」
「…………」
「私はこの世界に生きてたんだって、ただ消えるだけじゃなかったって、思えるならなんでもいいんですよ。人を助けるでも殺すでも、あなたに憎まれるでも」

 死にたくなかった。
 そんな理由で。
 碧だってそうだったはずなのに。
 忘れかけていた憎悪に震える。だがこの憎悪こそが彼女をお望み通りこの世界に繋ぎ止めるあかしになってしまうと、それがいいのだと聞いたら、俺にはもうどうしようもない。怒れば怒るほど思うつぼだ。何をしたって彼女に都合がいいのなら。こんなの、奪われた時点で、最初から、どうしても完敗じゃないか。
 何も言葉が出ない。

「だけどね、桧さん。私はやっぱりずっとはここにいられないから」

 少女が足元から欠けた貝殻を拾い上げる。真っ白でつるりとした、素朴できれいな死骸だ。それは戯れに水面へと放られた。ぺち、と情けない音を立てて、死骸はたちまち沖へ浚われる。誰の記憶にも残らないに違いなかった。

「私がいなくてもあなたには生きていてほしいなって。思っちゃいました」

 彼女はそう続けた。
 目眩がしてくる。
 なんで俺がお前無しで生きられない前提なんだよ!
 碧のことは殺したくせに、俺にだけ生きろなんてよく言えたな!
 二つの思考が同時に浮かんで、どちらも言えず立ち尽くす。何ヵ月も彼女を手酷くいたぶって加害者のつもりでいたから薄れていたが、本当に、つくづく、こいつは俺の全てを奪い去った悪人だった。これまでの人生も、大切な人たちも、居場所も、まともな世界も、まともな人格も、生きる理由も、死ぬ理由も、彼女が奪った。篠の最後の帰る場所になる、なんて、無下にしにくい生存理由だけ与えて。
 俺はもう生きることも死ぬこともできない。
 お前がそうさせたくせにお前が心配するな。毎度毎度ズレている。

「……高瀬……」
「はい」
「俺はどうせ死ねないよ」
「……はい。すみません、ちょっと気にしすぎですよね」

 あれからも何度でも死のうとは思った。思って彼女の見ぬ間に己の心臓に意識を集中してみても、銃口を咥えてみても、刃を首に当ててみても、いや待て篠はまだどこかで生きているかもしれない、そう思うと決まって何もできなくなった。俺と同じく知人の誰もが死に絶えた孤独のなかを、俺とは違ってまだ歩いている親友が、いつか暖を取りに俺を訪ねてくるかもしれない、そんな想像がどうしても思い起こされるようになった。それもこれも高瀬のせいだ。
 なけなしの希望だけ残して、勝手にいなくなる気なのか。
 どこまで奪えば気が済む。
 お前だってもう何も持っていないくせに。

「ねえ桧さん、次はどこへ行きましょうか」
「……はぁ。まだどっか行くのか」
「最低でもお洋服の数は出掛けなくちゃ。あなたが選んでくれて、私すごくうれしいんです」
「買うんじゃなかった。しばらくいいよ、遠出は……」
「それじゃあ都内で静かなところ探しましょう。いつまでデートできる世情かもわかりませんし」
「……」

 ぺし。軽くしっぺを食らわせた。

「いて」
「彼女面すんな、反吐が出る」
「じゃあ女の子扱いやめればいいのに……」
「あ?」
「どうして大切にしてくれるんですか? 罪人は磔にでもしておけばいいでしょう」
「お前のそういう考えが嫌いだからだよ」

 本当に、話が通じない。
 彼女は結局、どうやら本当に、何をしても真に傷ついてはくれないみたいだ。決して絶望してくれない。俺は彼女からすべてを奪う復讐に成功したが、それすら、彼女にとって特に大きな苦痛とはなり得ない。むしろ、俺が彼女の記憶の大半を失わせたことが、その心的無痛症の一因である気もする。
 考えている。いったいどうすれば彼女は。
 ……あるいは、そうか。
 こう言うのがいいのかもしれない。

「頼むから、ずっといなくならないでくれ」
「……ふふ」
「なに笑ってんだよ」
「笑うしかないだけです」

 少女は何もない青を背負って気まぐれに歩き、気まぐれに息を吸った。
 そういえばと思い出す。彼女は歌が好きだった。篠が彼女を愛したきっかけでもある。
 静寂を騙る波の音に、おもむろに、少女の澄んだ歌声が混じる。覚えていないと言うくせに曲目が篠のもので笑ってしまった。なつかしい。篠は、凛と前を向ける奴に見えて、絶望ばかりを歌う音楽家だった。歌はうまいけどずいぶん湿ってんな、とだけ思っていたものだが、今になって聴くとわずかに心臓の震える気がした。
 篠にまた会うまで。それまででいいんだ。どうにか、生きて、生きて、生きていなくてはと思う。また誰もいなくなっても。何もかも消えてしまっても。独りになっても、生きなきゃ。そうしたら、孤独に蝕まれボロボロになった最果てで、彼はきっと旅路に刻まれた痛みのすべてを歌ってくれるはずだから。
 少女の歌声は素直に美しかった。

「帰りましょうか」
「……そうだな」
「あの。また出掛けてくれますよね?」
「あー、まあ、どうせ暇だし」
「よかった」

 空が焼け始めるよりも前に家路についた。


2022年6月12日

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