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見上げた空のパラドックス
8※

 目を覚ました。また瞼が腫れて重い。無性に泣きたくなる夜が多くなっていた。
 生活はあまり変わらない。俺がちょっと料理をするようになって、つまらないテレビをあまり見なくなって、まあその程度だ。やりたいこともやるべきこともない。寝て過ごすことが多い。日々、武器の整備と軽い鍛練だけ欠かさないようにして、消耗品が減ったら買いに出る。道中に襲われたら人を撃つ。治安は見る影もない。
 少女に癇癪を起こす頻度は減った。減ったが無くなるわけでもなく、ささいなきっかけで繰り返す。俺にできる簡単な拷問は全部したんじゃないかとさえ思う。ただ、抱くときはできるだけ手早く済ませるようにしている。なけなしの慈悲、というより、少女の涙を見て悦に入る自分が怖いからだ。……もう泣かないのかもしれないが。
 彼女の記憶の欠落は止まらなかった。思い出話をすることは稀にあるが、碧のことも篠のこともサウンズレストの仕事のこともとうに通じない。かつて彼女が愛用していた青いリボンについて問えばなんの話かわからないと言われた。
 俺は、たぶん、彼女の中の俺以外のすべてを奪ったのだと思う。
 憎悪は薄れていた。憎むほどの被害感も、気力も、互いに残っていない。

「高瀬」
「はい」
「出掛けよう」
「え?」

 今日も気まぐれにリビングの片隅。少女はいつものソファの上で、いつものスウェット一枚姿で首をかしげた。

「服がありませんよ」
「買ってくる。サイズいくつ?」
「Sですけど……どうして急に?」
「……暇だから?」
「なるほど」

 俺は彼女が以前着ていた服をおぼろげに思い出しながら治安のましな区域へ出掛けていって、数着のワンピースを見繕って帰った。彼女はありがとうと微笑んで、少し気恥ずかしそうに着替えた。俺はとりあえず上着を貸した。

「下着買いに行くぞ」
「はい」
「これ持ってろ」
「……はい」

 武骨なナイフを重々しく受け取った彼女の手を引いて外に出た。俺に連れ去られてからこのかた長らく外に出ていないはずだが彼女はなんら特別な反応はせず、曇ってますねえ、と淡白にこぼした。幸い買い物が済むまでは滞りなかった。しかし賑やかしいショッピングセンターになんて滅多に入らないから俺の調子が悪くなって、外のベンチでしばらく休んだ。

「桧さん、大丈夫ですか……?」
「んー……出掛けんの嫌になった」
「しばらくこもりましょうか」
「いや、せっかく服買ったし」
「行きたい場所でも?」
「ないけど静かなとこがいい」
「そっかあ」

 コンクリートジャングルの上空にまで蔓延る灰色を仰いでいる。

「お前行きたい場所ある?」
「海がいいです」
「あー、どこならひと気ないかな……」

 帰路の道中で不穏な連中とかち合った。近道に路地裏を使うから、あとたぶん俺の見た目が明らかに引きこもりで弱そうだから、こういうことは多い。男数人が道を塞いで、少女を置いていけば命までは取らないと言った。俺は怪訝に思って彼女の方を見た。そんなにかわいいのかな、こいつ。ひと気を嫌って買いにいったから服はそれなりに上等なものだし、明るい色の碧眼は珍しいし、確かに高く売れるのかもしれない。
 まあ、いいや。とりあえず足元に向けて発砲した。かったるいからさっさと怯えて逃げろと思ったが、向こうも負けじと武器を手に取る。

「下がれ高瀬。服汚れるから」
「あ、はい」

 殺る気満々の少女を片手で下がらせながら連射する。二秒で三発撃って三人中二人の脚に当たる程度の精度だ。逃した一人に銃口を向けるとどこからともなく『火が飛んできて』、俺は少女の首根っこを掴んで駆け出す。

「うわっ」
「目。閉じて走れ。できるよな?」
「え、はい……」

 幸い彼女に初撃は見えなかったらしい。手を離す。彼女は不思議そうに俺の指示に従い目を閉じたまま並走する。こいつ脚速いな。
 後ろから待てと声がする。声の方向に意識を飛ばし、座標を認識する。相手が異能者なら、俺も力を使わせてもらう。むやみに殺すのもなんだか嫌だからまるきり敵の動きを止めきってしまうことはしない。ちょっとめんどくさいが走行の進みを流動する観念としてとらえ直してから、止める。これで相手はしばらく走れなくなる。
 じゅうぶんに撒けるよう路地をぐるぐる回ってからいつものビルに帰宅した。俺は息を切らしたが彼女はけろっとしていた。

「ちょっと冒険でしたね」
「火は見なかったな?」
「火、ですか? いいえ」
「よし……」

 深く息をつく。彼女には焔の朱を目にしたら記憶が戻ったという前例がある。そうでなくても恐怖症が治ってはいないだろう。俺の悪意でならまだし、知らない奴の放った火で彼女が怯えることになるのは無性に嫌だった。
 それにしても苛々する。慣れないことをして疲れただけかもしれないが。絡んできた奴らの態度を改めて思い返すと反吐が出る。高圧的に品定めして勝手に決めつける奴らの目だ。暴力に甘んじて、他人を自分の思いどおりに動かせると信じて疑わない。まあつまり、俺と同じだ。

「クソ……」

 悪態をついた。

「桧さん。上着ありがとうございました」
「あぁ、うん……」
「……守ってくれなくても、よかったんですよ?」

 言うと思った。苛つきは増すだけだった。守ったわけではない、あんな低俗な奴らの思いどおりにさせたくなかっただけだ。かといって高瀬の思い通りにことが運ぶ展開ももう嫌だった。支配下に置いたつもりの少女の真の強さなど、頭でわかっていても目の当たりにしたくない。別に俺だけでも対処できる敵だったんだからいいだろ。
 駄目だ。収まらない。無駄な言い訳ばかり考えてしまう。深呼吸を繰り返しながら買ってきたものの整理をして、いつもの定位置に座る。黙り込む。

「なんか怒ってますか」

 頑なに無視を決め込んだ。
 少女の微笑む気配がして、彼女もまたいつもどおり俺の隣に座った。今日はありがとうございました。やわらかな声でそう言われたのも嫌になって目を逸らす。

「ありがとうございました。人間扱いしてくれて」
「……はぁ……」

 彼女のそういうところが嫌いだ。自分がひとでないことが当たり前だと思っている。化け物だからどんなに酷く扱われても当然だと受け入れる。かといって人を憎むでもなく、誰のことも自然と尊ぶ。その在り方に俺が幾度悩まされてきたか。もう誰のことも覚えていないくせに、考え方は変われないなんて損な奴。
 ワンピースの薄い胸ぐらを掴んで引き寄せた。
 手加減する気が失せた。ちょっと付き合ってもらう。これは単なる憂さ晴らしだ。

「わっ、ちょ」

 彼女が何か言う前に唇を塞ぐ。ぞっとするほど無臭の粘膜はあたたかい。空いた手で逃げないよう頭を押さえ、そっと背を撫でる。勝手はわかっている。どのくらいで彼女が大人しくなるか。どのくらいで視線を背け、どのくらいで呼吸を乱すか。
 執拗に愛撫を続けた。指先で、唇で、舌で。少女は身体ばかり従順にぐったりと力を抜いて、ときおり不規則に背をしならせ息を詰めた。普段の体温が低いから肌が上気するとすぐにわかる。

「……服、汚れちゃう……」

 上ずった声が言うのでボタンを外し、真新しい衣服を剥ぎ取る。見慣れた裸体を組み敷いて息をつく。
 どうして。と彼女が続ける。青の視線が迷っている。普段はペッティングなどしないのにという意味か、俺が勃起していないのにという意味か。なんにせよ答える気にはならない。熱を持った肌に触れる。少女の呼吸を聞く。恥部には触れてやらない。何がしたいのかは自分でもわからない。

「高瀬」
「……、はい……」
「こっち見て」
「え、……ぁ、っ?」
「ほら、逃げない。俺の目見て」

 じっと目を合わせてやると少女は独特の重たい息をする。すぐ顔を逸らそうとするから顎を掴んでこちらを向かせる。彼女は自分自身に戸惑うような驚くような顔で、悲鳴に近い声をほんの一瞬漏らして飲み込んだ。柔い下腹部に指を添えてみればひくひくと内側へ向かう圧力がわかる。久しくやっていなかったがこの反応は未だ健在らしい。なぜそうなるのか忘れたくせに、刷り込まれた快楽は残ったまま。
 飽きるまで徹底的に優しくいたぶった。挿れていないからか彼女はうまく達せず、苦しげに中途半端な痙攣を繰り返して、でももう嫌だとは泣かなかった。嫌がる理由が残っていないから。
 空虚だけを共有する。
 不完全な欠落を全身に抱えた少女が問う。

「……、あ、の、……楽しいですか……?」
「ぜんぜん」
「……」
「気持ちいい?」
「わ、からない、です」
「そう」

 細やかな髪をくしゃりと撫でた。
 虚しい気ばかりするが、ひとまず怒りは収まっていた。

「飽きた。おわり」
「そう、ですか……」
「立てるか?」
「ちょっと、まってください……」

 生まれたての小鹿みたいな挙動でふらふらと起き上がって、少女は冷えていく自らの肩を重たげな腕で抱く。焦点がなかなか合わず、床に向いた視線が震えている。

「……運ぶか?」
「大丈夫、です」
「いやお前」
「話しかけないでください。声……だめなので……」

 ひどくよろめきながら少女は自力でシャワーに向かった。
 ……現状、彼女をここまでどろどろに組み敷けるのは俺だけだろう。そう思うとなんだか笑えて、すかっとする思いがある。支配欲ばかりの自分に呆れはするも、もう彼女にだってこの関係を嫌がることができない。煮詰まりすぎた罪は誰にも裁けない。
 俺の勝ちだ。
 投げ出していた彼女の服を拾ってハンガーにかけておいた。



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