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見上げた空のパラドックス


 またかお前は!
 彼女の記憶喪失癖は今に始まったことではないから驚きはしなかった。覚えていないんだろうけど篠は俺の親友でお前とも深い関わりがあった奴でなんならお前らちょっと付き合ってたぞ、と軽く説明して、とりあえず浴室を出てもらう。服は無いのでやっぱり俺のものを適当に着せる。
 だぼつくスウェット一枚姿の少女をリビングに連れ出す。誰かが口を開く前に、篠に「こいつお前のこと覚えてないぞ」と伝えた。彼はわずかに目をみはって、そうか、と答えるといつもの微笑みに戻った。

「そらちゃん。はじめまして。俺は美山篠。篠って呼んでな」
「篠さん。こんにちは。高瀬青空です」

 三人。いつかの定位置には従わず、俺と高瀬が隣り合い、篠と距離をとる形でソファに着席する。

「最初に言っとく。そらちゃん、俺はあんたが好きだ」
「……ありがとうございます」
「ずっとあんたを探してた。やっと見つかってうれしい。つーわけで、できればひのきちゃんとあんたと俺で一緒に暮らしたいと思っとる。ひのきちゃんはあんたが頷けばいいらしい。どう?」
「いいとか言ってねえぞ」
「言わせる」
「おい」
「まあまあ、今はそらちゃんの意志確認優先で。な?」

 篠の視線は少女に向いたまま逸らされなかった。記憶の有無など彼にとっては重要ではないらしい。高瀬青空が高瀬青空であること、それしか眼中にないといった風にその背筋は堂々と伸びている。

「私は……」

 少女は戸惑う素振りを見せると俺を見上げ、すぐに視線を下げた。かと思えばその不安になるほど小さくやわらかな手が俺の服の裾を握る。

「私は、桧さんとふたりがいいです」

 ほら。これだから会わせたくなかったんだ。
 俺は重い息を喉の奥に隠す。

「ごめんなさい篠さん、きっと、あなたに果たすべきこともたくさんあるんでしょうけれど。少なくとも、今の私は」

 ぎゅう。小さな手が力を込める。距離が詰まるとすっかり慣れた低めの体温が伝わる。いつもは寄り添うだけて怯えていた奴がどういうつもりなんだか。少女は久しく見る強く澄んだ目をまっすぐに篠へ向けている。
 篠は額に手を当てて少し黙った。そうして、なるほどなあ、と呟いた。

「わかった、そらちゃん。一つだけ張り合わせてもらう。いいか? ひのきちゃんには、俺がいる。あんたより絶対に俺の方がひのきちゃんを幸せにできる」
「は?」
「ひのきちゃんにはもう、あんたしかいないわけやない。俺なら死なせんし、あんたのことも他の人のことも傷つけさせない。言わせてもらうけどな、あんたとひのきちゃんと二人でおったら、ひのきちゃんはずっとすり減るだけやんか」
「おい、なんでそういう話に」
「俺の知り合いで生き残っとるのもうあんたら二人だけなんよ。俺には他に大切なもんはない。せやから俺といてほしいし、苦しいなら支えたい。本気だよ。わかるか?」

 ぶつぶつとわめく俺をよそに、青とヘーゼルイエローが鋭利に交錯している。

「それにな、そらちゃん。どこまで覚えとるかわからんが、あんたに何もかも奪われたのは、俺も同じや。俺も正直あんたのことは恨んでる」
「……そう、でしたか」
「あぁ。頼む、一緒に来てくれ」

 澄んだ目が伏せられ、少女は片手で濡れた髪を払った。俺の服を掴む手は緩まない。
 俺はもうわからなくなってきて黙った。これ以上生きていたくないと願うけれど、篠といたら救われてしまうだろうという確信ははなからある。それにしたって高瀬青空への拗れすぎた劣情だけは二度とどうにもならないとも思う。だから、道は四つだ。死んで終わりにするか。これまで通り彼女を貶め続けるか。彼女を篠に預け、離れて生きるか。篠に監視されながら全員一緒に生きるか。どう検討したって最後のは難易度が桁違いだ。
 少女は薄く笑みを浮かべた。

「……そうですね。私が頷けば、なにもかもうまくいくのかもしれません。でも、なおさら、あなたのような優しい人が今の私たちに関わるのは、私は嫌です」

 告げられたのがきっぱりとした拒否で、俺はどうしてか深く安堵をおぼえた。

「私たちは、苦しいままでいることを自分で選んできました。どうか構わないでください」

 俺は黙ったまま少女の横顔を見やった。どこまでも真摯で純朴な表情をしている。諸悪の根源に、汚れた罪の底に、ぴんと背筋を伸ばして立ち尽くしている。いつの間にか彼女が俺を同類と見ていたらしいことに、少し苛ついて、少し安心した。決然と紡がれた言葉は抵抗無く耳に馴染む。
 篠は困ったように眉を下げて笑う。その手がシャツの胸元を掴んでいる。

「じゃあどうしたらええん?」

 声のトーンが落ちていた。拒まれたことへの怒りか、虚脱か。

「俺も別に善意で言ってるのとちゃう。一緒にいたいだけや。ひのきちゃんを一人にしたら死ぬんやろうし、青空とも二度と離れたくない」

 篠はなにを聞いても譲らないようだった。この場にいる全員が頑固でどうしようもない。
 ふと青の視線が上がった。透明が俺をとらえたからぞっとして逸らした。久しい感覚だ。頼むからその目でこっちを見ないでほしい。少女は俺の示した怯えに微笑むと、席を立って篠に歩み寄った。迷いのない足取りで。

「……篠さん」

 やわらかな声だった。母が泣く子をなだめるような。

「もったいない、と思うんですよ。まだがんばれるひとが、まだ幸せになれるひとが、『ここ』に来てしまうのは……。あなたはまだ大丈夫です。まだ、孤独でいてください。いつか本当にどうしようもなくなって、前が見えなくなったら、そのとき会いに来てください」

 少女はそっと彼の頭を抱き寄せ、言った。

「私たちはここで、地獄の底であなたの帰りを待ちます。ずっと待っています。……ね、桧さん」
「なんで俺に同意させんだよ……」
「理由になるでしょう? あなたが死なずに、何も努力せずに、変わらずに、ただ『ここにいる』ための」
「は――」

 少女が抱擁を解く。俺の嫌いな笑顔を向けてくる。不快でたまらなくて、しかし漏れ出たのは舌打ちではなく涙だった。あれ、おかしいな。篠ならいいが高瀬の前で泣くのは嫌で、あわてて拭うが止まらなかった。一瞬だけ抱擁された篠は呆然として彼女を見上げている。
 少女は肩をすくめ、声を明るくした。ますます碧に似るからやめてほしかった。

「お願いです、篠さん。疲れきった人に向かって幸せになろうなんて、暴言じゃないですか。変わらなくていいんです。何も変えずに、ここにいればいい。そういうことにさせてくださいよ、今は」
「…………青空、」
「行ってください。大丈夫です、あなたが帰ってくるまで桧さんは死にません。確かにすり減るとは思いますけど……それは桧さんが選んだことですから」

 知ったようなことばかり言うな。それは俺のじゃない、お前の絶望だろ。勝手に一緒にするな。と、吐こうとした文句すら涙になっていく。誰もいない部屋で餓死を待った頃から、ずっと、今日まで涙など一滴も流さなかったのに。
 くそ。おかしいじゃないか。考えてみれば何もかもおかしな話なのだ。ちっぽけな理由ひとつで命がつながるなんて!
 数秒して、篠の立ち上がる音がした。俺は己の止めどない涙に困惑して俯くばかりで何も見えない。

「……あーあ。わかったよ、あんたが正しいことにしとくわ。でも、あんたは平気なん?」
「どうしても無理と思ったら殺します」
「大丈夫って言われるよりは安心するけどなぁ」

 苦笑の息遣い。ギターケースを背負う音。自分のこらえる嗚咽。

「青空。また会えるか?」
「おそらく」
「頷いてくれ」
「……はい。また会いましょう」
「愛してるよ」
「忘れてごめんなさい」
「好きにしな。俺はあんたがあんたなら、それでええから。今日は逢えて嬉しかった」

 静かな足音が遠ざかった。鍵の開いたままの玄関扉はあっけなく開閉した。律儀にすべての鍵を閉める音がしばらく響いた。何も見えなかった。残された静寂に自分の不揃いな呼吸だけが聞こえる。
 少女は座ったままの俺の隣に座り直すと、細く息をついた。

「そのうち帰ってきますよ、篠さんは」
「………………」
「だから、私がいなくなっても、あなたはここで生きていてくださいね」

 どうしていなくなる前提なんだ。
 俺は嗚咽を殺したまま少女を抱き締めた。濡れた髪からはやっぱり俺のにおいがする。



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