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見上げた空のパラドックス


 うちの合鍵を持つ生き残りなんて一人しか思い当たらない。
 三つもある頑丈すぎる鍵を丁寧に、しかし慣れたように開けた何者かは、俺が銃を拾い上げたのと同時に顔を見せた。

「手を上げろ」
「おっと」

 当然。
 篠だった。
 伸びた黒髪を後ろでひとつに括っていた。変わらぬ薄い色のヘーゼルアイは精悍で、微笑みをたたえる癖もそのままらしい。彼はへらへらとして従順に両手を挙げた。背中にギターケースを背負っていた。

「生きてたかー、ひのきちゃん! よかったあ! ほんまごめんな、すぐに連絡できんで……色々巻き込まれて大変やったんよ。でも前にもここへは来てさあ、そんときは誰も住んどらんみたいやったけど。戻ったんやな」
「…………」

 照準を篠の頭に合わせたまま、撃つかどうかを迷っていた。
 こいつを高瀬に会わせちゃいけない。

「……ひのきちゃん? 俺はあんたに悪さはせんよ? 友達から何か奪うほど生活困っとらんしな。あんたがいないか期待して様子見に来たんよ。本当に無事でよかった」
「……」
「……。なんかあったか? このままでええよ、話してみ?」

 篠は両手を挙げたままそんなことを言った。俺は引き金に指をかけた。今更、大切な友人を殺すくらいのことで良心が痛むわけがない。俺はただの悪人だ。

「出ていってくれ。二度と顔を見せるな」
「ひのきちゃんがそう言うならそうする。でも、話しな。何があった? ……大丈夫か? 死のうとしてないか?」

 思わず舌打ちした。
 なんでそんなピンポイントな質問をしやがる。

「そうか死ぬ気か。"生きろよ"」
「なっ……!? は、なんで……ッ」
「いやー、さすがにわかりやすいわ。ひのきちゃんに一番詳しいのは俺やしな」
「っもう何も知らないだろうが!」
「うん、最近のことは知らん。教えてくれんか? ほらだって、どうせもう死ねんよ、ひのきちゃん?」
「なんっ……てことすんだよ、馬鹿……!」

 銃口が震えた。篠は肩をすくめるとスタスタ歩いてきて、呆気なくバレルを掴み、下に向けた。俺は抵抗できなかった。
 死ぬ気だったのに。たった今死ぬところだったのに。俺は死にたいと口にしてすらいないのに。誰にも決して言わないくらい本気だったのに。突然やってきてヘラヘラペラペラしゃべって、そんなあっさりと禁じ手を使って禁じ手を封じるなんて、あんまりじゃないか。俺が、これまで、どれほどの思いで。
 篠は俺の肘をとんと叩いて銃を奪い取ると、涼しい顔で「で?」と話を急かした。

「なして死にたかってん?」
「………………」

 首をふる。

「ひのきちゃん」
「……」
「ちゃんと怒ったるから」
「そういうところが嫌いなんだよ!」
「うお」

 殺すしかない。
 言わないためには。殺すしかない。篠に高瀬青空がここにいると知れたら、彼女を俺が壊したと知れたら、彼は絶望するに違いない。そして俺のことも高瀬のこともかならず助けると、一緒に幸せになろうと言うに違いないのだ。そうはさせない。高瀬青空も桧辰巳もとっくに手遅れだ。取り返しのつかない罪の底に融けてへばりついてしまった。二度と取れない汚泥だ。だから滅びるしかない。救われてはいけない!
 俺はナイフを抜いた。攻防がはじまる。篠を殺すか俺が死ぬか、それでいいのだ。そしてどうしても駄目なら。彼に負けて、生かされてしまいそうになったら。そうしたら異能を使おう。彼の心臓を止めよう。彼を殺せば、俺への呪いだって解ける。心中するんだ。

「おいおいっ、俺に勝てるとは思っとらんよな? なしてこんな馬鹿げたこと」
「…………」
「殺すんなら早う力使え。迷っとるんなら――っ!」

 ぐるり、景色が回った。

「つかまえた。"力抜きな"」
「っ…………」

 1分と持たず床に転がされた。ギターを庇いながらの相手にこんなに太刀打ちできないものなのか。篠の呪文のせいで立ち上がることも身をよじることもできなくなる。ただ薄開きの目に彼の呆れ顔が映るだけだった。ナイフも没収され、ついでにポケットをがさごそ漁られる。他に入っているものなどない。篠は俺の武装チェックを済ませるとふうと一息ついた。

「まったく、生き別れの親友との再会やってのに風情がない」
「そりゃあ、わるかっ、たな……」
「ああ悪いね。いーい? 観念しなよ。あんたは生きたいし、まだ俺のことも大切で殺せんし、どうせなら幸せになりたいと思っとるんよ」
「うる、さい……知ったような口を……」
「なしてそんな三流の台詞しか吐けなくなっとんの? ださいんやけど。俺の知ってるひのきちゃんはもっとこう……眠そうで……あー、もとからださいな」
「ころすぞ」
「殺せん殺せん。諦めなって」

 篠はやわらかく笑みを浮かべるばかりだった。俺よりもずっと手酷い悪行と殺人を積み重ねてきた奴だが振る舞いばかりは聖人のようで、まぶしさに目が眩むような錯覚をおぼえる。無性に泣き出したくなってこらえる。

「は、……嫌だね。いいんだよ。救わないでくれ」
「なんや青空みたいなこと言うなあ」
「ッ……」

 少女の名前を出されると胸の奥が塞がるような心地がした。さっき見たばかりの泣き顔を思い出す。ほんのわずかにしか上げない甘い声や、熱くひくつく粘膜の感触を思い出す。滅多刺しにされて無傷で微笑み、俺の身ばかり案じてきた姿を思い出す。平然とソファに居着いて食事をとる姿を思い出す。強く射貫くような視線の透明度を思い出す。
 苦しい。
 本当に死んじゃいけないのか。
 どうして。なにも知らないくせに。篠は確かに俺と同じだけのものを奪われたが、それでもお前はお前自身をこんなに綺麗なまま見失わなかったじゃないか。俺は見失ったんだよ。俺が失わせた。俺が高瀬にしてきたことは、死を赦される理由には十分すぎないか。まだ足りないのか。まだ俺は自分を壊し続けなくちゃいけないか。

「………………、篠……」
「うん」
「……おれ、俺は……俺、」

 息が苦しい。くらくらして咳き込むと彼が大丈夫と囁いて呼吸が急速に回復する。そんなに力使って平気なのかお前。心配になるがそれよりも罪を告白せねばならない。彼に、失望してもらわなければ。

「俺、おれさ、……高瀬を、閉じ込めてるんだ、ここで」
「…………え」
「ご、め、」

 すべてがぼやけた。決壊した。溢れ出て止まらなかった。涙が絨毯に染みを作っていく。高瀬が掃除した絨毯。

「ごめん、ごめん、篠、ごめんな、俺は」
「ひのきちゃん」
「ごめん、たのむよ、死なせてくれ、もういいだろ? ……終わりに、してくれよお……っ」

 脳裏を伝うのは少女の姿ばかりだった。恨んで、憎んで、復讐を誓って、火を放って、撃って、刺して、犯して、壊した。誰もいない部屋で空っぽになった胃と孤独を満たしたのは彼女への憎悪だけだった。壊れていく自分自身を止めることができなかった。止めたいとすら思えなかった。少女が俺の暴力に晒されるたびこの上ない快感がほとばしった。もう忘れられない。彼女を貶めることでしか気持ち良くなれない。彼女が泣いてくれないと笑っていられない。俺はそういうばけものになってしまった。
 篠。お前は、人生を捧げた妹を殺されてもなお、高瀬のことが好きだろう。恋しくてたまらなくて、だから探しに旅立ったのだろう。
 俺とお前は相容れないよ。わかるだろ。終わりにするしか。

「……青空は今どこに?」
「風呂だけど……」
「そ、そっか」
「……、……篠。高瀬のこと、お前が連れてけよ。俺の、いないところに……遠くに、匿ってやってくれ。俺から逃げ切って、もう高瀬が、傷つかないように」
「……ひのきちゃん」
「俺さ、抱いたんだ。高瀬のこと、何度も、何度も何度も、無理やり、嫌がるのを」
「いいよひのきちゃん。言わんでええから」

 彼の手が俺の涙をぬぐった。薄いヘーゼルアイは俺が想像していたよりずっと静けさに満ちていて、口許はやはり微笑っていた。

「本人に聞かんと。ひのきちゃんとはもういたくないのかって。青空、逃げんかったんやろ?」
「………………」
「なぁ、一緒に暮らそう。『傷つかないように』なんて言えるんならあんた、まだやり直せるよ。青空が許したら」
「は……? そりゃ、無理な話だ……高瀬はもう、……はは、はははっ」

 数秒。転がされたままの俺のみぞおちに拳がめり込んだ。脱力させられていたので軽々と吹き飛ばされる。

「いっ……!」
「一発で勘弁したるわ」
「おっ……まえ……なに手加減して……っ」
「折れたりしたら面倒やん。いやまぁ、うん、ひのきちゃんじゃなかったら蛆のエサにしたけどな」
「無理すんな、殺せばいいよ……わかるだろ? 俺もう、高瀬のこと、まともに考えられないんだよ」
「殺しはせんよ。もう俺の知り合いで生き残りはあんたらだけやし。あ〜〜〜そのうち殺すかもしれんけど」
「はぁ……お前……なんか……」

 ……おもしろい奴だな。
 篠、本当に、これでもまだ俺のことが大事なのか。まだ親友でいてくれるのか。やったことの重みは受け止めながら? 怒りも辟易もあるままで?
 なんだよ、これ。
 なんなんだ。
 ずいぶんと手加減された痛みをビリビリと感じながら天井を眺めた。

「……、篠。高瀬を起こしてくるから解いてくんない?」
「は?」
「ちょっと気絶させちゃってて……ごめんって。殺気殺気。お前ほんとに俺のこと殺さなくて平気か?」
「…………」
「起こさないと話できないだろ。高瀬も別にもう俺に裸見られるくらい気にしねえし……お前が起こしに行きたきゃ行けばいいけどさ……」
「解除」

 動けるようになる。起き上がって見てみると篠は拳を震わせながら深呼吸を繰り返している。無理すんなよ。殴り殺されても文句は言わない程度の覚悟はあるぞ。
 ため息ひとつ、浴室の戸を開ける。少女の意識はまだ戻っていない。低く湯を張った浴槽に座り込む彼女の肩を揺する。

「高瀬、高瀬。起きられるか」
「……ん……、……?」

 青色の目が開く。濡れた睫毛にかたどられた透明な瞳から慌てて目を背ける。

「……桧さん。おはようございます」
「うん。高瀬。……篠が来てるんだ。お前と話したいって。立てそうか」
「……え」

 彼女は言った。

「すみません。しのさん、って、どなたですか……?」



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