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見上げた空のパラドックス


 彼女は少し大人しくなった。言葉数が減り、視線が交わることも減った。俺は積極的に彼女に触れるようにした。眠るとき隣に置き、なんでもない時も手が空けば抱き締め、気が向いたときに犯した。身体が寄り添うだけでも彼女が怯えたように目を逸らすから愉快だった。かといってやはり抵抗されるわけでもなかったが。
 数日で彼女の示す怯えの意味がわかった。
 行為中、少し盛り上げた後に限るが――目を合わせると締まるのだ。どこにどう触れた時よりもはっきりと。

「……お前さ、俺のこと好きだったりする?」

 まったく考えたことのなかった可能性が浮かんできて、うろんなまま問うた。頷かれたらかなり困るが、考えてみればそれで説明のつきそうなことがいくつもある。彼女が俺から逃げないこと。やたらと気にかけてくること。頑なに優しいことばかり言われること。
 事後、ぐったりとした少女は力なく首を横に振った。止まったばかりの涙が乾ききらない頬を伝って溢れた。

「……、ごめんなさい」
「なんの謝罪だよ」
「違うんです……あなたが好きなわけじゃ……違うんです、けど……」

 彼女は手の甲で涙を拭って、ちらりとこちらを見た。

「桧さんは、……私が碧さんと重なること、ありませんか……?」
「……あ?」

 最愛の故人の名が殺した本人から出たから、にわかに憎悪の気配が巻いた。俺はつい声を低くして彼女を見返す。
 それから考える。彼女が碧と重なることは、まあ、ある。毅然と微笑むすがたを見せられればずっと思い出していると言っていい。だから嫌で、やっと笑えないようにしてやったのだ。

「最近はないな」

 俺は碧の泣き顔も怯える顔も見たことがないから。

「そっか……」
「なんで急にその話なんだよ」
「……私、は、最近急に……、重なるようになって……」

 彼女は俯き、手を組んで、神に懺悔するような仕草で。

「私の、もういない、大切な人……『あなた』だったから……」
「…………………………」

 俺は目をみはった。衝撃だった。知らなかった。そして納得した。口角が上がった。
 ああそうか嫌だろうな。好いた奴と同じ仕草で同じ息遣いで見るに耐えない暴虐を重ねられるのは。決してそいつではないはずのよく似た暴漢に否応なく身体が反応してしまうのは。目を合わせたくない理由は俺も彼女も全く同じだったらしい。
 こんなに愉快なことがあるだろうか。俺はたまらず声を上げて笑った。すっかり趣味が悪くなったなと、残り続ける冷静な部分で思う。

「ふうん、そうか、俺が優しくしたからお前の好きな人に似ちゃったってわけだ」
「………………」
「っははは!」

 俺も同じ思いで苦しんでいるんだ。
 お前だって苦しめばいい。お前こそ俺なんかよりずっと苦しめばいい。身も心もこのままボロボロになってしまえばいい。
 少女の身体をふんわりと抱き締め、指先で髪を梳いた。まだ熱の残る幼い身体がぴくりと反応したが不埒なことはせず、ただ労るように触れて、ゆっくり落ち着かせて、それから額を合わせた。目を開く限りずっと視線が交わる体勢だ。彼女の不必要に透明度の高すぎる青を見つめる。じっと覗き込む。視界の真ん中で、青が震える。

「っ、ぁ……、あ……っ」

 ただ目を合わせただけ、だが。彼女はおそらく達して、かすかに肩を震わせ、意識を落とした。ぐらりと揺れた身体を抱き止める。無臭の少女からはひたすらにこびりついた俺のにおいがする。
 壊した、と思った。俺はついに彼女を壊した。二度と戻らないほど徹底的に。故郷も寄る辺もない彼女がただひとつ大切に抱えていた、愛した故人の思い出を奪って。恋心を破壊して。
 その瞬間に、唐突に、終わった気がした。
 俺の目指した醜い復讐が。
 終わりだ、と思ってからの行動は早かった。気絶した少女を浴室に放り込み、俺も身体を綺麗にして、少女を置き去りに部屋に戻って銃の点検をした。異常がないとわかると火薬臭い銃口をその場で口に咥える。ハンマーを持ち上げ、引き金に指を添えた。
 死のう。もう誰もいない。義父に救われ裏切られ、義母に引きずり回され、碧と繋がり、そこからは十年ものあいだ碧のためだけに繋いだ命だった。篠が長いこと寄り添ってくれたが、彼も姿を消して久しく、そもそも携帯端末は解約してどこへやったかも忘れたから連絡がつかない。碧が死に、義父が死に、義母が死んだ。俺の生に関わってくれたすべての人が、もういない。高瀬への復讐だけが未練の全部だった。それが終わったのだ。生きる理由はない。ましてやここまで落ちぶれた酷い暴漢に成り果てて、これ以上はどうしようもない。結局奪われ続け喪い続けるだけの、散々な人生だった。もうこれで終わりだ。よかった、終わるんだ。潔く地獄に落ちよう。
 そう思った、時だった。
 玄関扉から、解錠音が、聞こえた。
 俺は銃を取り落とした。



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