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見上げた空のパラドックス


 この時世に長いこと放棄したにもかかわらず、背の低い四角いビルはそのまま残っていた。玄関が厳重すぎ、ほかに出入り口もないので、泥棒も侵入のしようがなかったようだ。
 埃っぽい部屋をまずは掃除しなくてはならなかったが、俺にやる気があるわけもなく、少女が一人でやった。俺がなにも言わなくても進んでやった。足取りはふらふらとして、血の気が引いて脂汗のにじんだままで。物好きな奴だと思う。

「懐かしい家ですね」
「……」

 どうせ殺せはしないから、苦しみに疎すぎる彼女に対して何が復讐たりえるのか俺にはわからなかったから、ひとまず連れ帰るしかなかった。弾丸を撃ち込まれると多少は苦しいようだったが、堪え忍びつつせっせと掃除をこなすところを見るとさすがに足りないなと思う。普通なら死に匹敵する苦痛であろうと、無理ができてしまうのだ、彼女は。
 その均衡をどうしても壊したい。
 愛したものが、家族が、居場所が、人生で積み上げてきたもののすべてがほとんど一度に奪われた。だからこの女にも心から絶望してもらわなければ、罪と向き合ってもらわなければ、割に合わないじゃないか。

「……あの、桧さん。ナイフをお借りしていいですか?」
「あ?」
「そろそろ、弾を……おおきいのだけでも、取りたくて」

 少女は1日かけて一通りの掃除を終えた頃になってそんなことを言った。無いはずの弾痕を押さえながら。

「私が少しでも苦しい方がいいのなら、このままでも別にいいんですけ、ど」

 言われている最中に腹が立って追加で撃ち込んだ。少女はう、と言ってたたらを踏み、喘鳴混じりの呼吸を整える。頭には撃ってやらない。しっかりと苦痛を味わってもらわなければならないから。
少女は何も言わない。恨むような目すら向けてこない。

「お前さ。なんでそうなの? マゾなの?」
「……このくらいであなたの気が済むのなら、それがいいから」
「は」
「抵抗した方が、いいですか……?」
「そうじゃないだろ!」

 話にならなかった。なにも伝わっていない。伝わる気もしない。
 なんで俺の方が苛つかなきゃならないんだよ。お前が理不尽を嘆く場面だろうが。水流を殴るような感触。彼女は自分の苦しみに興味を持たない。俺の方しか見ていない。
 碧と同じ仕草でこちらを覗き込むその目があまりに不快でたまらなくなって、俺は件のナイフを少女の瞳に突き立てた。

「ッ、う……、……」
「なあ。『俺のために耐える』の、やめてくれる? 自分が酷い目に遭ってるってわかんねえの?」
「だ、って……」
「何」
「桧さん、は、大切だから」

 ――この女。
 最悪だ。
 眼窩に刺し入れた刃を乱暴に動かすと隙間からだらだらと涙が流れ出した。血液は当然のように出てこない。少女はここまでされても我慢するように息を詰め震えながら、言葉を続けた。

「いいんです。よ。私が苦しいくらい。どうだって……」
「よくねえよ!」

 空気がビリビリと震える。少女が驚きに身を縮める。あれ。おかしいな。俺こんなに声を荒げたことあったっけ。わずかに思考が脳裏を伝う。たちまち怒りに浚われ消えていく。
 止まらなくなる。

「お前が! お前のせいで! 誰もいなくなったんだ!」
「っ……、」
「お前が苦しめよ! 死んだみんなのぶん! 殺された碧のぶん! お前が苦しまなきゃどうする!」

 俺は誰よりもこの女に悲しんでほしかった。だからどうかまともな心を持ってくれ。俺が人間扱いしてるんだから、お前も自分をひとだと思ってくれ。お前は化け物じゃない。万人と同じに、罪を犯せる、そして裁かれるべき、悪人でしかない。痛んで泣いて後悔すればいい。そうだろ。
 いつの間にか馬乗りになって、俺はめちゃくちゃなことを言って、少女の身体に刃を抜いては刺した。傷は服にしか残らない。彼女は身体を綺麗なかたちに保ったまま、抉られたはずの澄んだ目をやはり俺にばかり向けた。やめてくれ。碧の仕草で俺を見るな。幼い少女相手に癇癪を起こすしか、できることもやりたいこともない、落ちぶれた俺をその目で見るな。見るな。
 少女の衣服がボロ布同然になるまで嵐は続いた。恐怖と焦燥と憎悪の収まらない自分自身に怯える自分がいた。どうすればいい。どうすれば終わるんだ、これは。恐ろしいほど胸の奥から活力がみなぎって溢れそうで、どうしようもなく無様に叩きつけるしかなかった。生きている気がした。
 終わりはナイフを握りしめすぎた手のひらが痛くなって訪れた。己の痛みを認識すると冷や水を浴びたようにやる気がなくなって、刃が止まった。だいぶ息が荒れていたようで頭がくらくらした。

「……、落ち着きましたか?」
「…………」

 舌打ちひとつ。すべてがどうでもいい気がしてナイフを投げ出し立ち上がった。
 空腹だ。飯でも買いに行こう。

「ナイフ、使わせていただきますね。お気をつけて」

 忌まわしき少女の声を背に、逃げるように外へ出た。一人になると一気に先程のことが怖くなって肌が粟立つ。少女の目が脳裏に過る。吐き気をこらえて、俺は足を進める。



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