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見上げた空のパラドックス


 少女は何も言わなかった。
 再会したその瞬間に弾丸を叩き込まれてもわずかに目をみはった程度で、抵抗も逃亡もせず、俺が弾切れを起こすまでその場にじっとうずくまっていた。
 普通の人間なら一発で死ぬか、さもなければ絶叫するだろう弾丸を、二十も体内に留め、彼女はただちょっと調子が悪そうにしながら、肩で息をする俺を硝煙越しに見上げて。微笑んだ。

「お久しぶりです。桧さん」

 あの頃と少しも変わらない――感情を抑えたように淡白な、澄んだ声だった。
 青い目を見たくなくて衝動的に空撃ちして、カチリという間抜けな音に嫌気がさして銃を放り出した。地面に落ちる前に少女がそれをキャッチして、だめですよ、と笑う。

「武器は大切にしてください。この国じゃ貴重なんですから」
「…………お前……」

 差し出されたグリップを乱暴に掴んで、俺は深く息をついた。
 少女は服に空いた穴を片手で塞ぎながらよろよろと立ち上がる。

「お元気そうで何よりです。篠さんはどうしていますか?」
「……知らねえよ……」
「そっか、」

 生きていると良いですね。
 彼女の平静な声を耳にするほど怒りが増すようで手が震える。悪人が常識的なことを言うな。俺からも篠からも全てを奪った当人のくせに思いやるふりをするな。絶望を受け止めきった顔で、碧と同じ仕草で笑うな。
 この女は碧を殺して逃げた。直後に「追いかける」と言って篠が姿を消した。俺はショックで部屋から出られなくなった。そうしているうちに義父と義母が立て続けに自決し裏社会の体制が崩壊した。誰もいない背の低い四角いビルの、自分のベッドの上で、見る間に酷く荒れていく世情をテレビの向こうにだけ遠く見て、俺はこのまま餓死してしまおうと思った。
 できなかった。朦朧とした空腹のさなか、自分の命のことを考えた。かつては碧と直接つながっていたから大切だった命のことを。そうしてもう切れて戻らないつながりに茫然と膝を折った。空っぽの腹の底から、ふつふつと憎しみが湧いてきた。どうせもういらない命だ、あの女への復讐のために使おう、そう思うと怒涛のように食欲が湧いた。部屋から出ることができた。きな臭く変わり果てたコンクリートジャングルを縫って、かつてのツテに片っ端から当たり、脅して殺して盗んで、旅に出た。
 少女は山合の田舎町に身を潜めていた。悪いことをする価値もない寂れた町だからこんな時世でもいくぶん平穏な。彼女が穏やかに暮らせていることがまずもって許せなくて、やっと特定した彼女の暮らす家には火を放った。その翌日、それが今だ。

「放火犯、あなたですか?」
「だったら何?」
「怪我人はなんとか出しませんでしたから、まだいいんですけどね。大変ですよ、ボヤの後片付け。お金もかかるし」
「…………」
「これ以上ほかの人が巻き込まれるのも嫌なので、会いに来ました。桧さん。私は、ここにいます」

 揺れのないまっすぐな目が俺をとらえた。
 一瞬。薄れかけていた碧の記憶がまざまざと心臓によみがえって息をのんだ。思い出があふれる。恐ろしいほどに重なる。俺は怯えたように後ずさった。かつて義母の言ったことを思い出す。彼女たちはまったく同じだと。同じ? そんなの許されない。美山碧は心優しいまったくの被害者で、高瀬青空は諸悪の根源なのだ。歴然と。だから俺はこの少女にどうしても復讐しなければならない。

「……ねえ、弾倉まだありますか?」
「は?」
「殺したいなら頭を撃つのがいいですよ。さすがに私も機能停止します」
「……」
「苦しめたいなら、神経毒なら痛みも感じられます。致死性が高すぎると効かないので、加減がいりますけど」
「…………はぁ」

 銃を懐に仕舞い直した。
 そうだ。そうだった。こいつはこういう奴だった。自分が傷つくことなど少しも厭わない。向けられる敵意や暴力のすべてを諦めた顔で笑って受け入れる。自分は化け物だから、と。誰かの利益になる被虐ならなおさら「それでいい」などと抜かす。信じる人に不利益のあった時にだけ怒る。
 じゃあなんで碧を殺したんだよ。

「お前、壊れてるよ」
「ええ」
「お前のせいでみんな壊れた」

 少女は何も言わなかった。
 俺は彼女の腕を掴むと、来た道を引き返した。



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