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見上げた空のパラドックス
truth6

 直後だった。彼がはじめて私の前で発作を起こしたのは。いや、直後は言い過ぎかもしれないが、その日のうちだった。
 私たちは展望台のある海辺の町に来ていた。昼前に町へ降りたって、潮風の吹く街道を行って海鮮料理店で食事をした。私たちの住む町は内陸の方だからふだん新鮮な魚を口にすることはあまりなく、ちょっと驚くくらいおいしかった。それからゆったりと海辺の展望台まで向かった。道中、路傍にかわいらしい小物店があって入って、やわらかな乳白色のカップをふたつ買った。アトリエに置いてもらうことにした。
 目当ての展望台は荷物検査を挟んでエレベータで登ることができる。星の丸みが見える場所との売り文句が大きな看板に印字されている。私たちはそれぞれ小さな鞄を検査してもらって、エレベータに乗り込む。

「高いところって、ただ高いだけでも景色が良いと思わない? 下が町でも海でも」

 と、登るエレベータの中で彼が切り出した。ガラス張りの壁の向こうにかすむ青い地平線が、どんどんと位置を下げている。

「たしかに、そうかも」
「不思議だよね。横や下じゃそうはならないよ」
「上がいちばん見晴らしがいいから、とか?」
「そうだね。距離や空間を感じるのは大事だ。遠さの表現が成り立った瞬間に、もう美しさは担保される。っていうのは絵のたとえだけれど」

 遠いってなんだろうね。
 そんなことを彼が口ずさむころにドアが開いた。全方位がガラス張りになった円形の空間に降りる。エレベータ付近、展望室の中央ではスーベニアショップが展開されている。日曜の昼間ということでそれなりに混み合って、ざわざわと無数の声が塊になって展望室を満たしている。私たちはどことなく喧騒には溶け込まないまま歩いた。

「考えたことなかったなあ」
「ぼくもいま適当に考えた」
「あはは、そっか」

 彼はガラスの壁に歩み寄って一面の青に目を細めた。今日の彼の服装と相まって、空の上にいるのに深海を泳ぐ魚を連想させる。
 謳い文句のとおり、海の方角に目をやるとはっきりと水平線が弧を描いて見える。星はまるいなあ、と当たり前の感想を抱くと同時、私は少しずつ胸が踊るのを感じていた。頭の片隅に無作為な数式がちらつく。
 脳裏に浮かぶ架空のイメージを追った。点、円、球。次元と距離。夢想するほど宇宙に近い形に収まり、やがて数式はほどけ消える。帰宅して覚えていたら書き起こそうかなと思った次の瞬間にはだいたい忘れている、その程度の空想だった。
 私の携帯を彼に渡して、水平線の写真を数枚撮ってもらった。それからスーベニアショップをぐるっと見て、めぼしいものはなくて、展望室を降りる。
 せっかくだからビーチまで行ってみることにした。浅瀬が狭く危険なので遊泳禁止のビーチで、こちらは観光客がそれほど多くない。下から見れば水平線は文字通り水平な直線に見えた。
 彼の発作は浜で起きた。
 並んで歩いていたのがふと一歩ぶんずれて、後ろからあ、ごめん、と彼の声がした。いつもの澄んだ柔い声よりいくぶん不安定な、どこか濁った声だった。とっさに振り向くや否や彼が白砂に膝をついた。

「ルーモ」
「だい、じょうぶ。ごめん……」

 彼がいちばん驚いた顔をしていた。肩を貸すとかろうじて歩くことができて、ひとまず堤防の足元まで辿り着くなり崩れ落ちる勢いで彼は意識を落とした。私は黙って隣に腰を下ろす。暑さからではない嫌な汗がこめかみを伝った。頭を打つとかしなければ危険な発作ではない。知識ではわかっていたが、実際に目の前にすると動揺が心臓に響く。膝を抱えた彼の寝息が苦しげだからかもしれない。
 確か、発作が出たら起こすまで数十分は待てと言われていた。私は深呼吸ひとつ、鞄の底から皴のついたコピー用紙とペンを抜き出した。日陰に吹き付ける潮風は冷たく、紙の端を執拗にめくりあげる。気にせず、まだ白かった片面に今日感じたすべてを書き殴った。児童期以来の友人との外出に心躍ったこと、いろいろと出ばなをくじかれて戸惑ったこと、私の一人遊びを初めて肯定してくれる人がいたこと、私は今その人を心配しているということ、彼の口ずさんだ謝罪の濁った響きまで。私にとって数式はどんな言葉や芸術よりも饒舌で、圧倒的に簡潔だ。その簡潔さを知っているから、記述が今ばかりうまくまとまらないことに驚いた。何かに絶望したような心地になってペン先をしまい、紙を畳みなおした。コンビニのコピー用紙はすっかりしなしなだ。

「……ルーモ。ルーモ、起きられる……?」

 時間を見て、彼の寝息が安定していることを確認して、そっと呼びかけた。彼はあっさりと両腕にうずめていた顔をあげる。そのまなじりから数滴のしずくが落ちて、彼は手早くそれを拭って笑う。顔色はよくなっている。

「ごめん、おはよう。心配かけたね」
「……大丈夫?」
「大丈夫。びっくりしたよ、数年ぶりだ。こんな日に申し訳ない」
「本当に大丈夫?」

 泣いてたよね、今?
 言外の訴えを受け取ったらしい彼が苦笑する。

「夢見がいいわけじゃないから。まあ、起きられたんだし、そんなに気にしないで」
「……」
「心配してくれてうれしい。でも、今は平気だ。行こう」

 突き放された気がした。平気だ、という彼の顔色は確かにもうよくなっているけど、そうだ、私のこの動揺や心配は、彼には受け取ってもらえないのだと思った。身勝手な傷つきが呼吸を切れさせる。私は悟らせないようにうんと答えて立ち上がる。
 胸が痛んだ。一瞬が焼き付いた。彼は涙しても美しかった。絶対の善の祝福を負った彼からそのあたたかな笑顔を奪っていく病に、私はきっと嫉妬したのだ。

「どんな夢を見るの」
「もう忘れたな」
「そっか」

 いつもの駅前で彼と別れるまで、たぶん私はあまり浮かない顔をしていただろう。彼は西日に身を打たれながら今日はごめんと言った。それから、ありがとう、楽しかった、と。なんてことのない挨拶だった。
 帰ってシャワーを浴びて、今日は数を綴る気がしなくて、そのまま眠った。

 その後はしばらく彼のアトリエに行かなかった。夏休みが終わって大学が始まって、けれどバイトは続けて、けっこう忙しかったからだ。秋は講義とバイト、冬は試験勉強で消し飛んだ。何回か、病院で彼を見かけることはあったが、話しはしなかった。
 彼にまた会いに行ったのは、一月、長い春休みが始まってからのことだった。私は結局大学に友人を作ることができなくて、長期休みの過ごし方がわからず、夏を懐かしんだからだった。
 夕刻、アトリエの扉をノックした。はいと声がして建付けの悪い扉が開いて、久しい顔が出迎える。

「あれ、久しぶり。フューレさん」
「ひ、ひさしぶり……」

 彼は変わっていなかった。柔く涼やかな声で話し、まっすぐな目をして、穏やかに笑う。強いて言うなら肩にかかるほどだった髪が短くなっている。

「元気だった?」
「うん……」
「あ、わかった。テストが終わったんでしょう。お疲れ様」
「よくわかったね」
「学生さんはこの時期春休みだよね。また会いに来てくれてうれしいな」

 上がって、と彼が言った。流されるまま通してもらったアトリエの景色もさして変わらない。オイルヒーターが一つ出ているのと、机上の花瓶が無くなったくらい。椅子を進められて丸テーブルに着くと、いつか自分たち用に買ったカップで暖かい紅茶が出された。初めて使う。
 私は何を言うべきか迷っていた。急に来なくなってごめんと言うのもなんだか不自然だ。ただ何かを言いたい気がする。それはおそらくまた会えてうれしいではなかった。会いたくて来たのは間違いないと思うのに。
 何気ないまま、紅茶はカモミールとアッサムのブレンドだと彼が話した。本当に夏と変わらない様子で、ずっとどこか楽しげだ。そうなんだ、と私は生返事をする。

「ルーモ」
「うん」
「最近、どう?」
「いい感じかな。売り上げが安定してきてね、バイトはだいぶ減らしてる」
「すごい。元気そうでよかった」
「フューレさんは?」
「私は」

 元気だ。と答えようとして言葉に詰まった。生活は変わらず順風満帆だ。学業も生活の維持も難しいことはない。バイトはすっかり慣れたし、両親はずっと仕送りをくれるし、成績にもそこそこ自信がある。それに、そうだ、簡単な料理をするようになった。部屋をちょっと片付けて、溜まりすぎた計算用紙をまとめて捨てたりもした。
 うまい言葉が見つからず。

「……紙とペン、貸して」
「え。うん」

 数字を綴った。
 大学でちょっと学んで、また私の一人遊びは複雑化の一途をたどった。いや、逆だ。深く突き進めば進むほど数式は単純で簡潔になった。一枚の紙に表せる情報量が増え、結果的にもっともっとと詰め込みたくなり、密度があがっている。
 彼は私の隣に回って興味深そうに紙面を見た。
 ずっと不規則だった数の並びはいつの間にかある程度の法則性を持つようになっていた。いくつかの系に中心を据えて、樹状に、網目状に、緩くつなげていく。ただあまねく系の中心だけはいつも書き起こすことができない。A4の紙の中央部分ではごちゃごちゃと破綻した数が収まるべき場所を探してさまよっている。紙が一枚真っ黒に埋まるのにかかる時間は十分ほど。まだまだ足りなくて何かを書き足そうとして、けれど浮かばなくなって手を止める。息を吸う。

「……最近、こんな感じ、だよ」
「すごいものを見た気分だ。前より整った? 書き方」
「うん。たぶん、そんなかんじ」
「前はパッと見、面白いなって思ったけど。それより、なんか、綺麗になってる気がする。やっぱり絵的だ。ぼくにも意味がわかればもっといいんだけどね」

 彼はそう言い切って向かいに座り直した。紅茶は冷めても美味しかった。

「無理だよ。私もこれが何かなんてわからないもの」

 端的に返すと、そうかあ、と声が返る。しばらく沈黙があって、少し気まずいと思った。オイルヒーターの駆動は静かだからアトリエには無音が満ちている。
 ついずいぶん投げやりなことをしてしまったなと、後になって思った。でも、どうすれば言いたいことがうまく言葉にできるのか、わからない。

「フューレさん。改めて三つだけもう一度言うけれど、聞いてくれる?」

 彼が口火を切った。私はその視線を受けとめきれず俯いて、なに、と言う。

「また会いに来てくれてうれしい。きみのその遊びは美しい。あと、ぼくはきみのこと綺麗だと思ってる」
「……」
「言いたいことがあれば言ってほしい。何か悩んでるだろ」
「ルーモ」
「うん」
「病気の調子は?」

 彼は冷めた紅茶を一口含んで、ゆっくりと飲み込む。

「だいぶ悪化してる」
「そう、なんだ」
「バイト、減らさざるを得なかったんだ。でも服の売り上げが追い付いてくれたからよかった。すごく困るようなことはないし、どっちかっていうと制作時間が増えて結果オーライって思ってるよ」
「強いよね、ルーモは」

 西向きの窓、もう閉められたカーテンの隙間から薄く街灯りが漏れている。この部屋は暖かい。彼は黙ってカップを傾けた。
 私は言葉を探す。私にわかる言葉で、彼に伝わる言葉で、潮風に綴ったぐちやぐちゃの数字に少しでも掠る言葉。

「……いつ、泣くほどの悪夢を見るか、わからない。そんな状態が、一生、治らない……でも、きみは、少しも気にしないね。ずっと、なんだよね。慣れたからなんだろうなって思う。もちろん想像だよ。余計なお世話なのも、わかってる。でも、私は悲しい」

 不思議と今度はどうにか口を動かせた。伝えても嫌われることはないと思えたからかもしれない。
 続ける。

「私は、私が、悲しかったの。夢なんかにきみが苦しめられるのも、そのせいできみが苦しみを受け流せてしまうようになったのも。きみが大切にしてるのは楽しいことと美しいものだけで、苦しいことは捨てられてるんだって思った。きみの苦しみだって、ちゃんと美しいのに。私が勝手に心配してるこの気持ちもそう、きみは捨てるよ。前に進むために。わかってるから、会いに行くのが怖かった」

 カップが空になった。

「……ごめんね、それだけだから……今のは忘れていいよ」
「どうしてまた会いに来てくれたの?」
「……」
「フューレさん」
「ねえルーモ、そろそろさ、その、なんか他人行儀っていうか……もうちょっと、フランクに呼んでほしい」

 私はやっと空のカップから視線をあげる。穏やかな若草色と目が合う。彼の表情は結局変わらず、どこまでも慈しむ目で私を見る。私があさましい感情を吐露したところで、どうしても彼の負う善性の祝福は壊れない。彼の痛みはきっと夢の向こうに置き去られている。此処には無い。私の手の届くところには。
 遠いということを、唐突に理解した。

「じゃあ、フュー。もし嫌じゃなければ、またここに来てくれる?」

 彼はむしろ嬉しそうに言った。私は複雑な心境で、けれど鼓動に急かされてうなづいた。
 抗いようもなく、私は彼のことが好きだと思う。


2022年3月5日

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