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見上げた空のパラドックス
truth5

 自室のいちばん目につくものといえば、紙だ。
 週に数回あのアトリエに通うようになってから、ふと自分の部屋が汚いなと思うことが増えた気がする。四畳半の1Kは無趣味の学生が一人で暮らすには十分だがゆとりはなく、ベッド、クローゼット、本棚、デスクがぎりぎりで収まっている。
 紙はいたるところにあった。本棚の下段、デスクの足元に置いたかごからはもうあふれている、机の上のペーパーラック、あとはもう床に平積みだ。それらは角が微妙に揃わないままみっしりと重みをもった束になって区切りごとに輪ゴムでまとめられている。束の中身は大学でもらってくる講義資料であったり、ネットから拾ってきて印刷した論文であったり、表も裏も鉛筆で黒く汚れたコピー用紙であったり。汚いからといって片付ける気にはなれなかった。捨てていいかどうか、中身を見直すのだって大変だし。
 どんどん増えていくし。

「あ、切れた……」

 紙を買いに行くことにした。深夜だった。
 私の暮らすコーポはあのアトリエからそう遠くないところにある。大学の最寄駅から徒歩数分の位置取りだ。私は部屋着にしている高校時代のジャージに空のナップサックを背負って駅前のコンビニへ向かう。雑な服装で出かけることに、最近やっと抵抗がなくなってきている。
 独り暮らしも数ヵ月して思うのは、こうした無造作でランダムな買い物が増えたなあということだ。生活用品、化粧品、文房具、飲食物。気ままに好きなものを買えるのは私にとっては心地よい。
 生活は順風満帆だ。
 資金源は少し前まで親の仕送りだった。最近はバイト代があるので仕送りはそのまま貯蓄している。親にはバイトなんて時間がもったいない、好きなことをしなさいと言ってもらえたけど、そこまで甘えてしまうと窮屈な気がしたので、やってみたいからやる、と言って押しきった。仕送りもやめていいと言ったのだけどそちらは駄目だった。まあ、いい親を持ったのだと思う。
 自動ドアをくぐると深夜なのにきつい冷気が足元をかけぬける。真夏のコンビニの暴力的な冷房に上着の裾を直しながら、二百枚入りのコピー用紙を適当に三つ取ってレジに持ち込む。眠そうな店員が分厚い紙束を二度見した。

「袋いりません」

 ナップサックにずっしりとした紙を詰め、生暖かい夜風を吸う。
 そそくさと自宅へ帰ろうと、一回しか曲がらない角を曲がったときだ。駅はどちらですか、と問う低い声がした。この時間に駅は開いていない。私は両肩に背負っていた鞄を片手に移しながらあちらですよ、案内しますと返してコンビニへ引き返す。
 この街では初めてかなあと思う。昔から不審者に声をかけられることは多い。
 駅はそこですよ、それじゃあお気をつけて、と言ってまた極寒の地へ。戻ってきた珍客に店員が目をしばたたく。軽く会釈をしてナップサックを背負い直し、私は適当に朝食でも見繕うことにした。家に食べ物はあるけど、明日は、彼と出かける日だ。ちょっと奮発しようと普段は買わない値の張る軽食をかごに入れる。
 あとは安全のために時間をつぶそう。10分くらいしてさっきの人がまだ待っていたら通報、待っていなければ急いで帰ろう。雑誌コーナーで最新の科学雑誌を手に取る。知らないことはほとんど書いていないけど、意外と時間はつぶせる。立ち読みを終えると十数分もが経過していて、雑誌もかごに入れ、レジに持ち込んだ。

「袋いります」
「今度は普通なんですね」

 店員が苦笑まじりに口を開いた。客のいない時刻で暇なのかもしれない。

「紙、何に使うんですか?」
「えっ……と、研究に。学生なんです」
「へえーすごい」

 無駄話はそれきり広がるわけでもなく、私は袋を片手にまた生ぬるい外へ出る。今度の帰路は平和だった。足早に帰宅するとどっと疲れた気がする。しかしもう一枚くらいは、と白紙を引っ張り出しデスクに着いた。結局、日付の変わってしばらくしてから眠る。
 翌朝は早かった。急いでシャワーを浴びて、ちょっと奮発した朝食を終えて、何日も前から決めてあった服を着て駅へ向かった。当然わくわくとしていた――のだが、すぐげんなりとすることになる。見知らぬ人に声をかけられたからだった。昨日はありがとうございました、と。
 世の中には暇な人がいる。暇な人の中には有害な人がいる。どうも私は有害な人に好かれる風貌をしているらしいことはかなり前から悟っている。親が少し過保護なことの一因だ。
 とりあえず話しかけてきた人の顔を頑なに見ず、私は気づかぬ振りを決め込む。ねえ、君に話してるんだけど。声が近くなって視線を上げる。不機嫌そうだが薄笑いも含む、そんな顔をした男が立っている。有害な人はみんな同じ表情をしているものだ。ため息をこらえた。

「昨日道案内してくれたでしょ。いやー助かったよ。お礼したいんだけど君この辺に住んでるの?」
「人違いです」
「そんなわけない。なんで嘘つくの?」
「そうでしたか、覚えていません。すみません私待ち合わせ中なので」
「何? これからデート?」

 暇な人は無駄な質問をするものだ。ナンパを否定はしないが、するならもっと清潔な服を着てこいと思う。いや、違うか。この手の輩は弱そうな女を困らせて遊んでいるだけだ。ともかく早く撒かないと大切な友人に妙な場面を見せてしまう。それはよくない。

「はあ……じゃあこれ、あなたに差し上げます。大切にしてもらえたらうれしいな」

 鞄に捩じ込んでいた最新の紙を引っ張り出して目の前の男に突きつけた。思わずという風に受け取ってもらえたのでしめたと思い、「は?」と声が返る前に走り出す。ひとまず駅の構内へ。二階へ上がってガラス張りの壁から見下ろすと、男は変わらぬ位置で眉をひそめて紙をにらみ、そして投げ捨てて去っていった。傷つくなあ。傷つくけど、ちゃんとドン引きしてもらえたならこの場合は好都合だろう。
 どうにか待ち合わせの前に撒けてよかった。安堵に肩の力を抜くが、その勢いで疲労感が押し寄せてくる。あまり寝ていないのもあるから自業自得だ。まだ約束の時間まで数分あったので、なんとなくお手洗いに寄って、鏡の前で髪を直す振りをした。女性しかいない空間はいくぶん落ち着く。深呼吸をする。
 お手洗いを出て駅前に戻ってくるとキャラメルブロンドの彼が歩いてくるところだった。ちらと腕時計を見るときっかり時間通り。

「おはよう、フューレさん」
「か、……かわいい! おはようルーモ!」

 疲れが飛んだ。
 彼は深海魚を思わせるひらひらした青のブラウスにハットを合わせた格好で笑顔を見せた。さすがか当然か、彼はいつもおしゃれだ。

「ありがとう。ところで、さっきそこでこんなの拾ったんだけど」

 彼がA4のコピー用紙を広げた。

「あ、わ、私の……」

 咄嗟に言ってしまってから焦った。血の気が引く。まずい。不審者に絡まれるところを見られるよりもまずい。整えたばかりの鼓動がきしむ。
 紙は下手な製図と数字と記号でぐちゃぐちゃに埋め尽くされている。直感をそのまま図示したもので見た目も論理もおかしい、誰が見ても眉をひそめる代物だ。

「きみの? 落としたの?」
「うっ……、うん。拾ってくれてありがとう……」
「飛んでっちゃわなくてよかったね」

 彼は私の動揺ぶりに小首を傾げたくらいの反応で、紙についたシワをそっと伸ばして手渡してくれた。私はこれ以上ない速さでまだ余白のある片面に中身を隠すよう畳みなおし、紙を鞄の奥底に封印する。
 ええと、とりあえず引かれた感じはない。よく見なかったのかもしれない。セーフ、だろうか。

「フューレさん」
「はっ、はい」
「よければそれ、あとで見せてくれない?」
「なななんで!?」
「面白いこと書いてるなと思って。どうしても嫌ならいいんだけど」
「へ、え、見たの!?」
「うん」
「えっ……み、みたの?」
「少しね」

 駄目だ。アウトだ。せっかくちょっと気合いを入れて高い朝ごはんを食べてきたのに初っ端からテンパり通しだ。よく寝ず大切な日に臨んだ私のせいなのか、しつこく絡んできた暇人のせいなのか、いややっぱりこんな見られたらまずいものをわざわざ持って出かけた私のせいだ。鞄のひもを握る手が震えた。いつもは本と一緒に持ち歩いていたけど、彼に会うときは持たないようにしようと固く決意する。いやその前にこの状況をどう誤魔化せるのだろう。思考がフル回転するが、全くのフル空回りでいい案は何も浮かんでこない。

「フューレさん。落ち着いて。深呼吸深呼吸」

 すー。はー。

「ごめんね、この話やめようか?」
「い、や、その……き、気持ち悪いと思わなかった?」
「え」

 彼は心底不思議そうに首を振った。

「面白いとは思ったけど」
「おも、しろい……?」
「なにが書いてあるのかわかったわけじゃないけど。絵的だなあと思って」
「えてき。……引いてない?」
「引いてないよ」
「はあ…………」

 全身の力が抜けた。傍らの壁に手をつく。引かれてないならいい。ていうか、引かれないこと、あるのか。立て続けの緊張と弛緩と混乱にちょっと涙目になる。

「大丈夫? 少し休もうか」
「……、大丈夫。ごめんねテンパって。電車もうすぐだよね。行こう」

 電車に揺られてしばらく、彼も私も口を開かなかった。たぶん私が落ち着くのを待ってくれていたのだと思う。彼は汚れた車窓の外を変わらずまぶしそうに眺めていた。今日はよく晴れている。
 一度乗り換えを挟んだ。街並みは徐々に長閑になって、乗客も減っていく。

「フューレさん、落ち着いた?」

 小さく、柔い声が問うた。鮮やかな若草の目は優しさばかりを含んでいる。

「……うん。ありがとう」
「聞いてもいい?」
「うん」
「あの紙って、なにが書いてあるの?」
「えっと……数を思い付いたように置いてる、だけだよ。式も解も書いたり書かなかったり急に変な数いれたり……意味のない遊びたよ」

 封印した紙をおそるおそる引っ張り出して、私と彼にだけ見えるよう広げた。
 親が言うには、私が初めてこの遊びをしたのは数字の概念を覚えた五歳くらいのころだったらしい。最初のころは稚拙で、紙も余白が多く、親も私が数字を覚えてうれしくてたくさん書いているのだろうと微笑ましく思っていたらしい。異変は小学三年生のころに起きた。分数の掛け算ができるようになったあたりから、遊びは一気に複雑化した。親は何を期待したのか私を名のある数学者のもとへ連れて行った。数学者は私の書く数の無軌道さに眉をひそめ、「本当にただの遊びです」と言って私を追い返した。そのころにはクラスメイト達も私の一人遊びが理解できないといった顔をするようになった。中学のころにはさすがに孤立して、人前でやることはめっきりなくなった。
 それでも私はこの遊びを辞めることができなかった。楽しかったのだ。
 数の密度は年々増している。いちど淡い期待を抱いて数学科の同期に見せたことがあるけれど、やっぱり気味が悪いといった反応だった。びっしりと紙を埋める数字と図形と記号の嵐は普通の人が見たらそれだけで頭が痛くなるだろうし、意味の通らない無鉄砲な数式は数学者にはなおのこと気持ち悪いだろう。

「ねえ、今度これの過程が見れたりしない?」
「変なことに興味持つね、ルーモ……」
「うん、まあ確かに不思議だけど……気持ち悪いと思う人がいるってことは、それは紙一重で美しいんだよ。きみの言う意味のない遊びが、それだけ人の心を動かす力を持っているなら、やっぱり面白いと思うんだ」

 この絵はこれで完成だ、と言ったときと同じ目をしていた。どこか深く真にせまった、けれど穏やかな、彼が絵を描くときにしか見せない顔だった。


2022年3月1日

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