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見上げた空のパラドックス
dream13

 この病院に来るのは数週間ぶりになる。以前は湖面にびっしりと浮いていた花びらもすっかりなくなっている。
 二人でナースステーションに顔を出すと見知った看護師が目をぱちくりした。村塚隼との面会に来た旨を告げるとなおも驚かれる。以前お見舞いに来たとき少し話して友人になったんです、と説明すると複雑そうに部屋番号を伝えてくれた。部屋はもう知っているけど、お礼を言って、彼女の手を引く。
 南の病室の戸を丁寧に三回叩いて待つと、どうぞ、と中から少年の声がする。スライド式の戸を開くと本日二回目の最高明度の目が俺を見た。

「お、幽霊じゃん!? 誰が来たのかと思った!」
「その呼び方、もう固定なのか……?」
「おれもよそじゃ幽霊って呼ばれること多くてさー、親近感湧くんだよな!」

 彼は一人でベッドに上体を起こし、窓の方を向いていた。夕刻の湖は深く暗い緑色をしている。

「……彼女のこと見えるか?」

 青空の手を引いて部屋に入り、しっかりと扉を閉めた。青空ははじめましてと言って隼に会釈をする。隼はどうもー、と返して片手をひらひら振った。

「見えるぜ? ああ、いや待って。わかんねーや。おまえの言いたいことはわかるんだけど、おれあんま力で見るの強い方じゃなくてさ」
「そうか」
「あー、おまえら学校でねえさんに会ったんだろ? あ、ねえさんって二門澪のことな。んで、ねえさんには高瀬が見えなかったと。それでおれんとこに相談、なるほどなー」
「話が早くて助かる」

 名前を教えた覚えはないので、隼にはどこかの青空との面識もあるようだった。そうと知るとひやりとした恐怖を感じるが、彼はこともなげに俺たちに椅子をすすめる。
 俺は座る前にベッドテーブルにそっと見舞いの品を置かせてもらった。無難に高くも安くもないプリンだ。隼はいたく喜んだ。

「っしゃー! もうおれ当分お菓子食えないもんだと思ってたわー! さんきゅーな! 質問は? なんでもどんとこい!」
「じゃあ、まず。澪さんの目は信頼できるんだよな?」
「異常なくらい見えてるよな。おれねえさんの身体借りたことあるけど、よくあんな見えてて目眩しねーなと思ったもん。って体験談だけじゃ断言できねーけどな」
「いや、いいよ。他の奴にも見えないらしいんだ、わかってる」
「高瀬は力を通して感知できなくなってるってこと? おもしろいことになってるじゃん」

 隼がにこにことして青空を見つめた。青空は丸椅子に大人しく座って彼の顔を見返す。

「……日暮、日暮。なんのはなししてる?」
「ごめん置いてけぼりにして。彼は村塚隼って言っていろいろ詳しい奴なんだ。で、今は、もしかしたら青空に俺以外の奴の異能は効かないんじゃないか、って話をしてる」
「あーおまえのは効くんだ? 感知も?」
「うん。俺は生体発光までわかる」
「ますますおもしろいじゃん。なあ高瀬、身体貸してくんね? 検証しよーぜ。おれの力は憑依。でも主導権は持ち主の意識がある時は取れない。安全だろ?」

 隼はすらすらと喋った。話の飲み込みが異常に早く、進め方も的確で、身体が強ければ世界を握っていておかしくないほどの奴だな、なんて思う。
 青空は可も不可もないまっさらな表情をしていた。いいとか悪いとか問われてもピンとは来ないのだろう。そもそも自分のことなんて何も覚えていないところに、自分は特殊かもしれないから検証しようだなんて言われても。

「日暮、いい?」
「……まあ……うん、いいよ」

 しぶしぶOKする。
 俺じゃない男に青空を乗っ取られるのはいい気分がしなかったが、それはそれ、彼の力が比較的安全に検証しやすいことは確かだった。

「おっけー、そのままな!」

 ぱたむと彼がベッドに身を沈める。眠るように目を閉じるとすぐにその全身から力が抜け、完全に意識を落としたとわかる。
 青空と顔を見合わせ、数秒だけ沈黙した。
 彼はすぐに戻ってくる。ホワイトアイを開き、「むりそう!」と言ってベッドの柵を掴みよいしょよいしょと身を起こす。

「そこに人がいる気がしないって感じだった。むりそー」
「……なる、ほど」

 いない。
 同じことを言われたな、と、きょとんとしている彼女を見つめた。ちゃんとここにいる。俺も不安になったから、何度も、何度も、何度も確認した。今だってその身体はちゃんとここにあって熱を発している。
 何が違うのだろう。俺と皆は、青空にとって。

「んー……なあ幽霊、関係あるかは分かんないんだけどさ、おまえ最近あれ、そうだな、傍観者のこと見かけたか?」
「は?」
「言い方が多くて確認しづらいや。流石におまえが奴と話したことないってこたあないと思うんだが」
「ごめん、何の話かわからない」
「あ! そっかおまえ記憶。もうこの世界のことしか覚えてねえよなあー」

 はあ、とわざとらしいため息をついて彼はベッドテーブルに突っ伏した。青空がいたのと内装は変わらない白い部屋なのだが、主が彼だとずっとどことなく賑やかな気がする。

「ま、いいや。とりあえず、『感知系にも感知できない例』ってのはもうほぼ決まっててな。『マジに存在しない』か『次元が違う』かだよ」

 朗らかな少年の声は軽やかさを損なわないまでも難解な言葉を次々と並べる。自らを神学者と云っただけあってその話は俺でも半分は理解に苦しむほどのものだった。

「まず『存在しない』っていうのは、全世界の全可能性を遡ってもどこにも無い、って意味な。これもまーけっこうあるよな。任意の可能性をまるっきり削除する異能もどこかにはあったっぽいし」
「ぽいって」
「消されたら痕跡しか残んないじゃん? でも虫食い穴みたいに不自然にそこだけものや情報がなくなってるってけっこうあるわけよ」
「滅亡現象じゃなくて?」
「そうかもしんないけどさ。滅亡現象ならだいたい世界線を選ばずランダムにくる、ことが多くて、複数の世界にまったく同じ穴が空いてっとさすがに恣意を感じるよ。個人の異能か、神様の判断かは区別できないけどな。ま、高瀬のことはお前以外覚えてるし、肉眼じゃ誰にでも見えるんだろ? 消されてるって印象は無いよなあ」

 隼はそこまで言って切れた息を整えた。ごめん無理させて、と言うと別にと返される。青白い少年の手がプリンの蓋を剥がした。ふわりと甘い香りが広がる。

「次元が違う方にいこうか。言葉通りなんだけどさ」
「……」
「たとえばだ。心象風景、あるだろ? おれもおまえも、観測者全員が持ってる。魂と世界の核だ。今わの際に見れたりするよな、有名なのは三途の川? アレがおれたち人間の到達できるたぶん最も高次元の領域、だとおれは思ってる」
「明晰夢」
「おまえはそう呼んでんの? 言い得て妙だな」

 青空が暇すぎて学校のプリントを眺めている。退屈させてごめん、と思うが俺にはこの話の方が重大だった。
 心象風景。耳慣れない言葉だが心当たりはある。たぶん、俺にとってはあの夕景のことだ。何億と繰り返した落下と浮上のことは流石に今の俺でも覚えている。そうだ、俺はあの夕景から個々の世界に向かって、落ちている。そして世界を去る時は、浮上している。
 上、なのだ。感覚的に。

「ただな。おまえの言う通りアレは『夢』の形態をとることが多い。意識がない時にほぼ限って観測できるってこと。高瀬には今も意識があるだろ? だからこっちも説明はつかないね」
「ことが多い……ほぼ……ってことは、他にもあるのか?」
「観測者が複数になると実体化できるんだよ。ほとんどはそこで起きた事象のごく一部だけどな、ワンチャンすげえ力が強ければ、心象風景がまるごと世界の方に出てくることもあり得るんだ。一つの場所として」
「は……?」
「稀なケースだよ。魂の距離の近いもの同士が同じ場所で同時に死に目にあったりすればな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「はいよ」

 俺の制止に軽々とうなづき、隼は手元のプリンを口に運んだ。動揺する俺をよそに彼はたいそう幸せそうに頬を押さえている。青空は学校のプリントに猫の落書きをしている。ちょっとかわいいので二度見した。
 ――整理しよう。
 此処にいない、という青空の現状に関係する予想はふたつだ。
 ひとつは『いないのではなく、存在しない』。高瀬青空に関する記憶が世界からごっそり抜け落ちている場合だ。これは彼女を覚えている人が実際にいる以上は薄い線だ。
 もうひとつは『彼女は夢の中にいる』。
 そもそも夢ってなんだ?
 あの夕景は、あるいはいつか見た水中は、ただ圧倒的に絶対的に、そこにあった。あれがいったい何かなんて俺はまともに考えたことがなかった。考える余地もない絶対の存在だと思っていたから。
 あれが他の誰かに侵される場合があるなんて思いもしなかったし、あの場所が下位の世界と影響し合えるということも、俺には体感的に信じがたいことだった。
 しかし、下から他人に観測される例が、極めつけには上から下へ実体化した例が、ある、らしい。
 ……実体?
 俺にはしっくりこない、下から見た場合の言い方だな、と感じた。だって正しく存在しているのは心象風景の方であって、この世界は。
 いや、まて。なぜそんな荒唐無稽なことを確信しているんだ、俺は。おかしい。
 深呼吸をした。

「……だめだ。わからない……」
「そうだな。おれもあちこち見て回っただけで、法則が正確にわかるわけじゃない。高瀬が感知されないってのは何かしら違和感あるけど、おれにも確実なことは言えねー。悪いな」
「いや、ありがとう。貴重な情報を」
「またなんかあったら来なよ! 世界のことならおまえのオトモダチより詳しいと思うぜ」

 紙の端に猫を増やしていた青空が顔を上げて俺を見る。目が合う。何も知らない本人の前で勝手にぐちゃぐちゃと深掘りして、不快ではないだろうか。彼女の表情はずっとまっさらだ。

「退屈させてごめん。行こうか」
「あなたに必要なことならいいよ」

 青空は淡白に答えてプリントを鞄に押し込んだ。俺は隼に一礼して「じゃあ」と言う。彼は食べかけのプリンを前に変わらずにこにこと手を振った。白い病室は窓外の明度を落としている。

「いつでも来いよ、おれはずーっと暇だからさ。ああ、それと」
「うん?」
「ねえさんには、おれと会ったこと言わないほうがいいぜ。今後とも」
「わかった」

 面会時間も終わりだ。


2022年1月27日

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