見上げた空のパラドックス dream12 登校日の遅い朝に彼女は目覚めた。 「おはよ、日暮」 「……、おはよう。貴女の名前は高瀬青空」 久しぶりの、話せる日だった。 あれから結局彼女とは話ができない日が続いた。視線も合わないことが多かった。俺は彼女のひんやりとした手を握ったりご飯を作ったりして過ごしていた。数日に一度だけ一人で放課後の学校に顔を出して、保健室の先生に課題をもらって帰る。勉強は得意でもないが苦手というほどでもなく、教科書と睨めっこしているとうまい具合に時間が過ぎていった。 待つことは得意な方だ。なんのことはない日々。 「今日さ学校なんだけど、行ける?」 「ん」 むくり。数日ぶりに起き上がった彼女がうんと伸びをする。着たきりのパジャマの背中にシワがついている。彼女が選んで買ったひらひらした白のネグリジェ。 「行く」 「それじゃ、ご案内するよ。お嬢さん」 彼女の手を引いて洗面所へエスコート。朝食を温め直して出す。学校に電話して今日は行くと伝える。突発的な日常は澱みない。 青空がどうすれば過去と同じくらい楽しんでくれるのか、答えは出ない。ただ、日常は送れるのなら普通に送ったほうがいい。嘘だ。俺が、青空と日常を送りたい。 「学校の勉強って記憶なくてもいけるもんかな?」 「俺はわりといけてる」 「じゃあいけるか」 青空の今日の服はピンクのトレーナーにカーキ色のカーゴパンツ。今日は暖かいので上着は無しだ。長い白髪は二つに結った。 「かわいい?」 「かわいいよ、今日も」 「女慣れを感じる返答だー」 「ないない。そろそろ青空慣れしたいけど一生無理って気がするし」 「恋だねえ」 「やめろよ、俺は繊細なんだぞ。って青空が前に言ってたよ」 「てきかく」 「毒舌」 「私そんなに口悪い?」 「たまにね」 「へー」 バスに揺られて学校へ。当初の予想通り、週一ペースの通学だ。 裏口から入る。事務員に会釈をする。人気のない廊下を進み、相談室の扉をノックする。丸いテーブルにふかふかの椅子が数個並んだ相談室は俺だけ見慣れた。 がらり。向こう側から扉が開いた。 「やあ」 出てきた顔に俺は目をしばたたいた。見覚えのある最高明度の目に水色の髪。 「……、澪さん」 「あたしも保健室登校なんだよね。きみたぶんクラスメイトだよ」 「そうなんだ。会いませんでしたね、これまで」 「日暮くんいつもいないから」 「はは……」 「お知り合い?」 青空が俺の袖を引っ張った。俺はうん、と言って一歩退き、ふたりを向かい合わせる。白と青の位置が入れ替わったふたりだ。並んで見るとやっぱり雰囲気が似ていた。 「こちら二門澪さん。こっちが高瀬青空。青空がちょっと前まで入院してたんですけど、見舞いのときに病院でたまたま知り合って」 「そうなんだ。はじめまして、みおさん。……どうか、しましたか?」 青空が澪の顔を見上げて首を傾げた。澪は確かに少し様子が変で、なにやら慌てたように視線を迷わせた後、青空と目を合わせ、ごまかすように笑った。 「う、ううん。大丈夫……。はじめまして。高瀬さん」 ……嫌な予感がした。 追及するかどうか、迷っているうちに澪はそそくさと部屋の中へ引っ込んでしまう。青空が何ともなしに続いたので俺もおずおず入室する。先では養護教諭と今日の担当の指導員が待っていて、わずかに異質でおおむねありふれた学校生活を始めようとしていた。 既に並べられていた課題のプリントそれぞれの前に座る。来てしばらくは雑談タイムだ。桜がすっかり散ったとか、この時間はお腹が空くとか、そんな些細な話を形式的にたしなんでいく、保健室登校とはそういうものらしい。俺は苦じゃないが、青空はやっぱり退屈そうにしていた。 ひと段落し、課題に手をつける。中一の春だ、そこまで難しい問題はなくて、青空と一緒に教科書を見ながらさらさらとプリントを埋めていく。青空は俺より少し数字に強い。 養護教諭は保健室の方へ行って帰ってきてをまばらに繰り返し、指導員がこなすべき課題のプリントを運んでくれる。澪は少し離れた席でひとり黙々とノートに向かっている。昼食はみなで一緒に食べ、また当たり障りのない世間話が繰り広げられた。弁当作りの腕を褒めてもらった。 とりあえず何事もなく午後。 「今日は美術の課題があるんですよ」 「ビジュツですか……」 「日暮苦手?」 「ものによっては」 この五年は家具作りとか塗装とかしたけど、オリジナリティを出せと言われたら急にできなくなったな、なんて思い出す。 「塗り絵だそうですよ」 「あ、よかった」 「得意なの?」 「ふつうくらい」 そうして半日が過ぎていく。青空がまたこんなに長いこと起きていられた奇跡に思わず祈りそうになる。元気な日もあるのだ。確かにある。 青空といる間はやっぱり気分が楽だった。いま彼女は本当に幸せだろうか、なんて不安にかかずらう暇がないほどに。そうしてふと気がつく。真っ白な彼女、というものに目が慣れている。少しずつ疑わなくなってきている。 花の塗り絵には青を多く使った。青空のを覗くとピンクや黄色で鮮やかだった。 塗り絵を提出して帰りがけ、一目散に帰ろうとする澪をすんでで呼び止める。 「澪さん」 「ごめん、忙しいから」 「澪さん。何か見えたんですよね? 青空に……」 椅子で伸びをしていた青空が、名前を出されてこちらを振り向いた。青い目が確かにこちらを見ている。澪はまた少し視線を迷わせてから彼女の方を向く。 「……、ううん、べつに何も……」 「『何も見えない』?」 「……」 「……教えてくれてありがとうございました。すみません、呼び止めちゃって。どうぞお気をつけて」 会釈をすると澪は怪訝そうにため息をついた。そして、 「――きみは『此処にいない』。そう見えるよ」 青空を目に、そう言って去っていった。 俺は考えた。万物や魂の境界が見えるという澪の能力。俺の正体をも見極めている、その澪が、青空を見えないと言った。確かに側から見ても認識に時間がかかっている素振りがあった。視覚的には見えているが、能力では感知できていないのだろう。どういうことなのか。此処にいないってなんだよ。じゃあ、青空は、どこにいるんだ。 「日暮?」 「……ん。ごめん、ぼんやりしてた」 「かえろう」 「うん。青空、今日は本当に元気だな」 「いつもは?」 「寝たきりの日の方が多い」 「わお」 二人分の筆箱と課題のファイルを手持ちの鞄に突っ込んで、青空が席を立つ。鞄は俺に渡してもらって、養護教諭に挨拶をし、下校する。 桜はもう葉ばかりだ。 今日は青空と学校に行けた。しかも朝から夕方まで通しで。これは本当に快挙で、本来ならお祝いを考えるほどの出来事だ。 が、素直に喜ぶには少し、気になることができてしまった。 「青空、どう思う」 「なにが?」 「貴女はここにいないと思うか?」 「哲学だね。よくわかんないよ」 「そうだよな」 「でも、みおさんは私のこと、一瞬見えないみたいだね」 「……」 目の前でバスを待っている真っ白な彼女は、いったい、『何』なのだろうか。春風におさげを揺らして、新品同然のトレーナーの袖口をひとつ折り上げていて、まぶしげに新緑の桜を見上げる、彼女は確かにここにいると思う。今は。が、ひとたびその目が閉ざされれば俺とて彼女の存在の確かさに疑いをおぼえるのだ。澪の言葉は無視していいようには思えなかった。 バスに乗り込み、揺られた。 「なあ」 「ん?」 「俺がさ、これ……した時に。ちゃんとできてるよな?」 隣に座る彼女の手を握って、問題にならないくらいの熱を送った。 「あったかい」 「これは」 「つめたい」 「できてるよな……やっぱり……」 俺の力は彼女に問題なく通っている。彼女があらゆる異能を弾くような存在ということではない。 確認していくことにする。ひとまずアルマにメッセージを送った。青空のこと見えるか? とだけ。返信は1分と経たず返ってくる。 『見えないよ』 ――はあ、と深く息をつく。窓の外を見ていた青空がどうしたの、と言って、俺はなんでもないと返した。 なんでもなくないよ馬鹿。 『前は見えてたか? 俺は見えてるか』 『見えてた。5年前に見えなくなった。あなたのことは見えてる』 『そういうことは早く言ってくれ、重要だろ』 『早く言ってもあなたは忘れるし、言ってどうなることもないよ』 『そうかもしれないけど』 ますますわからなくなる。彼女が、何なのか。天下の力を待ってしても感じ取ることができない魂。けれど肉眼には見える。それと俺の力だけはどうやら問題なく通る。 よくよく考えればおかしなことばかりだった。毎日の記憶喪失は病でこじつけが効くにしたって、俺のことばかり克明に覚えているのもおかしい。 はっきりしたことは二つだ。 やっぱり、この彼女は、湖に飛び込む前の彼女とは、決定的に違っているということ。 この彼女にとって俺はなにかとても特別な存在だということ。 『見えないからわたしにも確証のあることは言えないけど、この件に関わることで、あなたにとって良いことがあるとはあまり思えない』 数分を置いてアルマからチャットが飛んできた。数分も文面を考えてその率直さか。わが半身は今日も半身だ。知らなくていいことは知らない方がいい、そう信じてやまない奴らだ。 隣で窓外をぼうと眺めていた青空があくびをする。 「眠いか?」 「ひまなだけー」 「……なあ青空、もしまだ元気そうなら、出掛けたいと思うんだけど」 「んー、おおせのままに」 返信する。 『俺もそう思うよ』 2022年1月26日 ▲ ▼ [戻る] |