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見上げた空のパラドックス
truth4

「きみの名前はフューレ」

 彼は夕陽のさすアトリエに私を出迎え、そう言った。

「ふゅーれ?」
「花、って意味。響きが似てるかなと思って、ぼくと。……いいかな?」
「かわいい名前。ありがとう」
「よかった」

 あれから数回このアトリエに通っていた。夕刻から夕食を終えて解散するまでの短い間、私は彼に言われるまま服を着たり、彼の作業を邪魔しないよう棚に並んだ本を読んでみたり、机を借りて勉強したりして過ごしていた。
 そうして数回めの頃に、お恥ずかしながら写真を撮った。それを顧客に渡すサンプル画像に使いたいから、モデルとして一応のワーカーネームを決めようという話になった。しかし私は何か考え出すのが得意ではなく、彼にまるきりお任せしたのだった。
 私の名前はフューレ。ということになったらしい。

「ごめんね、なんか流れで雇っちゃって。売れたらちゃんと報酬は出すから」
「いいのに、そんな」
「そういうわけにもいかない」

 バイト帰り、彼がアトリエにいれば、たいてい夕食はご馳走になっていた。彼は料理がうまかった。
 それだけでもすごく助かっているから、さらなる報酬なんていらないと思うけれど。お仕事なのでそうもいかないと彼は言う。

「……あ、じゃあさ、お金の代わりに」
「ん?」
「あのワンピース、ほしいな。とか……だめかな?」

 言ってみると彼はもとより丸い目を丸くして、部屋の奥にひっそりと置かれたままの没服のハンガーラックと私とを順に見た。しばらく彼のお仕事が忙しかったのもあり、あの白いワンピースは結局あのまま保管されている。

「だめってことはないけど……そんなのでいいの?」
「え、い、いいのっ? じゃあその、いただけたらうれしい……です」
「わかった。本当に気に入ってくれたんだね、ありがとう」

 少しはにかんで彼は快諾した。
 そうして私はあのワンピースを入手した。本当にいい服だから着る機会は思いつかないけど、持っているだけだって心が弾むような気がして、自室のクローゼットのいちばん見やすいところに提げた。朝になってクローゼットの扉を開くたび、ちょっとうれしい気がするようになった。
 長い夏休み、バイトは楽でもないけれど、終われば彼に会いに行けるから楽しみだった。彼もスケッチや顧客の採寸なんかでいない日があるから、そういう日は朝から寂しい気がするけれど。
 電話なんかで彼と連絡をとるといったことはなかった。彼は携帯電話を持たないからだ。仕事の連絡は愛用の旧式ラップトップでおこなっていて、それでこと足りるという。ご家族との連絡は? と返してみると、門限を破ったことが無いからたぶん大丈夫、と。聞けば実家暮らしの彼には門限があるそうで、朝から半日はバイトをして、夜まで限られた残りの時間はできるだけアトリエで製作にあたるという。

「ルーモ、いつもなんのバイトしてるの?」
「今はコールセンター」
「うわ。クレーム対応とか? 大変そう」
「平気だよ、電話の向こうからは殴られないもの。フューレさんは市民病院だっけ?」
「そうだよ、事務と受付」
「レセプションもするのかあ。すごいな」
「ルーモも接客得意そうって思うけど」
「んー、できないわけじゃないんだけど、眠くなっちゃうから」
「へえ……?」

 ――そんな会話をしたしばらく後、私は病院で彼を見かけた。
 初診受付にいる私に気づいた彼は軽く会釈をして、再診受付機に手早く診察券を通し、まっすぐ廊下を抜けていった。通院慣れしている、と、その所作からありありとわかった。

「なにか病気なの……?」
「あー、そんな顔しないで、フューレさん。ぼくは元気だ」

 次に会って問い詰めると、彼は布に針を通しながらやれやれというように苦笑した。至極、軽い調子で。

「ほんとにぜんぜん深刻な病とかじゃないんだけど、きみは説明があった方が安心する? それとも余計心配しちゃうかな」
「説明おねがいします」

 おっけー、と言って彼は布を裏返した。きらきらしたフリルにどんどん細やかな刺繍が施されていくのを見ていると魔法のようだと思う。

「ナルコレプシーなんだ。たまにちょっと眠くなっちゃう。それだけだよ。ちゃんと夜寝てちゃんと服薬してればなんともない。発作は数年出てないし、通院も処方と経過観察だけだ。ね、安心した?」
「……心配した……」
「えー」

 当然、後から大学図書館に詰めかけて、調べた。
 ナルコレプシー。眠り病とも呼ばれる睡眠障害の一種で、時と場合を問わない強い眠気や睡眠発作を中核症状とする。根本的な治療法は今のところなく、発症したら一生付き合っていかなければならない病気だ。地域によってばらつきがあるが、世界中どこでもだいたい1000人から600人に一人くらいはいると言われる。

「平気だけどなあ。見ての通り、ぜんぜん元気に暮らせてるしね」
「それは、そうだけど」
「あ、でももし寝ちゃったら先に帰っていいよ。起こしてもいいけど、その時は二十分くらい待ってもらえると助かります」
「……わか、った」

 病が発覚すれども彼は、彼の言う通り、いつも元気に動きまわっていた。
 息をするように、休むときでさえもたいてい何かを作っている。布を切ったりミシンに向かったり、時間が空けば紙を引っ張り出して絵を描き始めたりする。なにより彼がずっと楽しそうにするから、私はゆくゆく自らの空気の読めない心配性を反省した。病より彼の方が強い。
 多忙で充実した、日々は飛ぶようだった。バイトして彼に会って仕立て作業を横目に本を読んだり会話をしたりして、たまにモデルにされてみて、そんなことをしているとひと月など瞬く間に過ぎる。
 夏が終わるまで、何枚かの絵を見た。彼はひどく繊細で曖昧な、まざまざとした夢の中のような絵を描く。……そこにしばしば私が写るのは恥ずかしいから考えないとして。

「フューレさん。おかげさまで、このまえのドレス、もうお客さんが欲しいって連絡してくれたよ」
「えっ、おめでとう」
「あれが売れたらしばらくバイト減らせるから、少し時間ができるんだ」

 夏休みもそろそろ終わろうかという頃、旧式の分厚いラップトップに向かいながら彼がうれしそうに話した。いつぞや私が着せてもらった、私の語彙ではきれいなとしか表現できない一点ものの高級ドレスが、いよいよ売れるらしい。
 あれは緊張したなあとぼんやり思い出す。彼に髪を結ってもらって、整頓されたアトリエの棚の前で、顔の映らない画角で写真を撮った。モデルができるほど私の見た目がいいとは思えないけど、完成した写真はしっかり雰囲気があって良かった。つくづく彼は視覚芸術全般に長ける。

「でね、遊びに行こう」
「えっ」
「空いてる日があれば都合したいんだけど、どう?」

 さらさらと言いながら彼は作業を終えたらしいラップトップを閉じてうんと伸びをした。簡素なパイプの丸椅子のきしむ音がする。

「え、っと、日曜日はお休みだけど……私とって、どうして?」

 思わず聞いてしまった。遊びに誘われるなんてこと自体が私にとっては一大事なのだ。友好の深さと遊びの可否のあいだに相関があまりなかった小学生のころ以来、相当に主要な宴会のほかには余暇の予定を確認された覚えさえない。ようは、友達がいたことがほとんどないので、こういうことに慣れていない。
 彼の方はなんともなさそうに、いつも同じ動作で冷蔵庫の中身を確認している。そろそろ夕飯だ。

「ぼくいろいろ出かけるの好きでね、仕事の合間に日帰りで旅行とかけっこうするんだ。今回のお休みはきみがくれたようなものだし、誘うのもいいかなって。もちろん、お金かかっちゃうし、きみが嫌じゃなければだよ」
「い、嫌じゃないよ! でも、その、どこに行くの?」
「まだ決めてない。きれいなところがいいな」
「そっか、なるほど……」

 ぱたむ。がさがさ。流れるように始まる調理を私は椅子に座って縮こまったまま見ている。余談だけれど私は料理ができないから、申し訳程度に机を拭いたり食器を洗う係をしている。

「来る?」
「い、……行きます」
「よかった。楽しみだ」

 彼は食事を作りながら私に行きたい場所がないかとかどのくらい疲れず歩けるかとかどんな食べ物が好きかとかそういうことを逐一たずねた。遊びに行くというのがよほどうれしいのか、機嫌よく鼻歌交じりでキッチンに向かっているのだった。
 こんなによくしてもらって大丈夫なのだろうか。日夜つきまとっていた感覚が大きく胸に渦巻く。私はみたび口にする。

「ルーモ、どうして……そんなによくしてくれるの?」
「え、そんなによく思ってくれてるの? うれしいな」
「……えっと、その、私、邪魔じゃない?」
「フューレさんといるのは楽しいよ。それに見てる人がいると作業がはかどる」
「そう、なの?」
「こちらこそ、ぼくが来てって言ったのに、きみを放ったらかしてばかりで」
「う、ううん! それは全然、私が好きで押しかけてて」
「そう? よかった」

 楽しげに、何かとっておきの秘密の外線をなぞるように、あるいはその核心を包み隠さず笑う。無邪気で奔放で冷静で堅実な、年若い芸術家で、よかった、が口癖。
 彼はそういう人だった。


2022年2月25日

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