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見上げた空のパラドックス
dream10

 その日、青空は昼を過ぎるまで目を覚まさなかった。俺は至ってのんびりと、家の掃除でもしながら青空の目覚めを待っていた。

「おはよ。貴女の名前は高瀬青空、で、俺の恋人。ご飯食べる?」
「……」

 長い白髪を枕に散らしたまま、青空は黙って顔を背けた。今日は調子が悪そうだ、と判断して、無理はしなくていいこと、何か希望があったら教えてほしいことを伝えておく。彼女は口を開かず、ベッドに身を横たえたままだった。

「……じゃー、俺もぐうたらするかあ」

 作り置きした食事は夕飯にしよう。うんと伸びをして、彼女の眠る傍らベッドに腰かける。春の昼下がり、強風に窓が小刻みに震え鳴っていた。
 俺は暇が苦にはならない方だから、こうして彼女の隣にただ座っているだけでもずいぶん満足に思う。何でもないままカーテンを開ききり、外の景色を眺める。桜並木を遠目に見下ろす。もう葉桜も目立ち始めている。適度に発展した町はビルと住宅が圧迫し合わない程度に寄り添って建ち並び、春風から桜をぎりぎり守っていた。

「春だよ、青空」

 窓の外に見えるものを、ゆるやかにひとつひとつ語り聞かせる。湖畔の町はほの青く霞んで、今日はうろこ雲が上空を覆っているから、たぶんもうすぐ雨になる。向こうに病院が見えている。建って間もないから建物は綺麗だ。
 俺には青空が何を美しいと思うかわからないから、なるべく俺に見えるものを余さないようすべて伝えた。何もわからず目覚めた不安を、そうして僅かにでも取り除けたらいい。青空が覚えていなくても世界はまだ光っている。
 小一時間ほどぽつりぽつりと言葉を吐いていた。彼女は時折こちらを見たり見なかったりする。青の目は虚ろを灯して、力ない表情を変えることもなく。
 ふと思い出した。彼女の口からずっとここにいると言われたこと。恋など抱けもしないひりひりとした渇いた諦念のこと。
 漠然と恐怖している。
 心をあきらめ目前の空白に触れるしかできない、彼女のいる世界を想像する。きっとそこは真っ白で、完成された静寂に満ちている。何がいけないの、と今の彼女は言うだろう。問わなくてもわかる。だからこそ。

「……青空? どうかしたか」

 視線が逸らされないから問う。彼女は表情のないままだ。

「俺のこと、わかる?」
「……」

 なんて。うっかり意味のないことを聞いてしまう。
 俺はただ彼女の目覚めを喜んで、眠りを哀しんで過ごすだけだ。
 青空はまたゆるりとまぶたを閉じて、そしてそのまなじりから透明な雫を滲ませた。俺は動揺するわけでもなく彼女の涙を黙って拭う。
 驚くことなんて何もなかった。最初からわかっている。俺が殺さなかったから青空は死んだ。
 彼女がまたすぐに眠ったから、俺は買い出しにでも行くことにした。よく言われる通り貧乏性なので何を買うにも地域最安値を狙っていく。別にお金に困ってはいないが、染み付いた癖は抜けない。いつどこで染み付いた癖なのかは知らない。
 歩き回って両手にエコバッグをぶら下げて、そろそろ帰ろうと思ったあたりで雨が降り出した。きっとこの雨で花はおしまいだろう、そんなことを思いながら傘を開いた。道中は公園で少し雨宿りをした。気まぐれに自販機でソーダを買って、やっぱり飲めなかった。
 俺は今のところ海間日暮のままらしい。
 雨に閉ざされた冷え切った公園で、ふと、青空のことが知りたい、と思った。知らなければ、俺が覚えておかなければ、これ以上は繋ぎ止められないだろうと、無性に思った。
 気がつけば、ソーダの缶を傍ら、スマホを耳に当てている。

「もしもし」
『あなたの方から電話なんて、この世界で初めてかも。ミスター』
「アルマ。いま忙しいか?」
『とっても。でも、あなたが最優先だから』
「ありがとう。要件なんだけど」
『そうね。ツリーチャイムに行ってみたらどうかな』

 買ったものを家に置いて、彼女がまた深く眠っているのを確認して、俺はその日のうちに電車に乗り込む。県境を超えて少し行ったところにその町がある。五年前には俺が住んでいたらしいが、やっぱり景色の一つも覚えていない。
 送ってもらった位置情報を頼りにアスファルトを踏んでいった。小さな神社の脇道を抜けて数分、教えられた施設が見えてくる。フェンスと植え込みで囲まれた敷地に二棟の一軒家が隣接して建っている、きっとあれだ。
 もう二十歩行けばインターホンが押せるあたりで足を止めた。青空のいつかいた場所を本当に目にしたのだという実感を掴もうと必死だった。淡いままの心地で。途方もなさばかりを感じる。
 そのとき傍らを学生鞄を背負った少年が通り過ぎた。真っ直ぐに目の前の施設へ向かっていく。

「あの」

 声をかけると彼はきょとんとして振り向いた。同世代くらいだからか怪しまれてはいないようで安堵する。

「そこに住んでるの?」
「……そう、だけど?」

 おっと、身構えられた。俺は誤魔化すように笑って、

「俺は海間日暮。そら、っていう女の子の話が聞きたくて来たんだ。5年前くらいにそこにいたっていうから。なにか知らないかな」
「きみ誰? どこの人?」
「えっと、恋人なんだ。青空の。でも彼女、異能の後遺症で記憶がなくなっちゃって。今は一緒に山向こうで暮らしてる」

 雨はまだ降っている。俺は丁重にプラスチックケースに仕舞われたままのノートを鞄から覗かせてみる。著者の名前がちゃんと直筆で書いてあるので、敵ではないと思われたいが。
 少年は目を見開いてまじまじと俺の顔を見た。そして言った。

「え!? きみってもしかして……!?」
「……知ってた?」
「ほんもの! すごい! ほんとにいたんだ!」
「ええっと」
「きみのことはみんな知ってるよ! えー! そっか、わかった、信じるよ!」

 少年がきゃっきゃと濡れた傘を回すので、ノートに被害が出ないようがっちりと鞄を閉めておく。冷たい雨にきらきらと幼いはしゃぎ声が吸われていく。
 彼はひとしきりはしゃぎまわってから、はたと何か思い出したように俺に向き合った。

「どうしてかげに連絡しないの? きみのためならすっ飛んでくるでしょ?」
「……しないよ」
「なんでなんで?」
「俺のことは、彼には内緒にしてくれ。絶対」

 ――そうだ。
 記録者に聞くのがいちばん早い。そんなことはわかっている。記録者は青空の言葉にいちばん近くで寄り添った最高の理解者だ、そんな明白なこと。だから、怖い。記録者に連絡したらたぶんマジですっ飛んでくるだろう。青空の理解者が今の彼女に会って、もし「彼女は違う」と言われたら。俺はどうすればいいんだろう。
 記録を広めてくれていることは理解した。それで十分だ。伝道師のことは。
 少年は数秒不思議そうに目をしばたたいた。

「……やっぱり何かたくらんでないよね?」
「今の青空のこと、知られたくないし、会わせたくないんだ。……そいつきっと青空のこと好きだろ?」
「え、独り占めしたいってこと?」
「そういう意味もある」
「うわー。うーん。そっかー」

 そのまま言ったほうが早そうだったから言った。少年は若干引いた顔をしたが、疑いが晴れたならいい。

「いいよ、わかった。きみ名前なんだっけ?」
「海間日暮」
「おっけ。ちょっと待ってて!」

 少年の姿が敷地内へ消える。俺は曇ったビニール傘の中に立って待つ。あと二十歩、近づけないまま、春雨に肩が震えた。根拠のない不安に人を巻き込んで何の意味があるのだろうといまさら考える。青空のことになると自らの脆弱さを思い知る。だから好きなんだけど。
 少年はすぐに戻ってきた。大人を連れていた。

「ちょっと庭入って!」

 言われるがまま敷地内に通してもらう。付き添いの大人は施設職員だと自己紹介してくれた。ノートを見せろと言われたからケース越しに表紙を見せると安堵したような顔をされる。やっぱり外部接触は疑われるなあ、このご時世じゃ。

「ちゅうもーく、日暮くん。ここにビニール傘があります」
「うん」
「2015年、2月2日、ドン」

 粒子が震えた。
 なるほど、管轄内にするために大人を呼んだのだ、とわかった。広げられたビニール傘にびっしりと付着する水滴ひとつひとつがあり得ない波長で発光する。それらはゆっくりと波紋を広げるように揺らいで、やがて像を結んだ。夜道に佇む三つの人影が見える。視点の位置が低くて、定期的に呼吸のような白いもやが見えて、これは少年自身の記憶の投影なのだとわかる。
 見えている三人のうち一人が青空だった。明るい栗色の短い髪。

「声かけたのが俺でよかったねえ、日暮くん。ま、珍しい力でもないけどさ、マインドプロジェクション」

 音は聞こえなかった。青空は桃色のニットにマフラーを巻いた姿で終始楽しげに笑んでいる。傍らの二人を信頼しているのが一目瞭然だった。あんな顔、見たことないな。

「すすめるよ」

 少年がつぶやくと視点が動き出した。彼女は夜道を歩いていく。大勢と臆することなく話して自然体でいる。真っ白な今の彼女よりよほど、生きている、と思った。俺は知れず服の袖を握りしめる。
 雪の積もった空き地で満天の星を見る。きらめきは無音の投影の向こうだけにまざまざとある。最後は真っ白に塗り潰されて終わる。

「音だせなくてごめん。練習はしてるんだけど、さすがに5年前の記憶じゃむりだよ」
「いや、ありがとう。まさか見せてもらえるなんて」
「いまのはそらがいなくなった最後の日。俺たちはすぐ帰されて、大人がみんな出て街中探して、みつからなかった。で、何日か探してたけど、すぐ職員さんみんな、誰もそらの話しなくなったんだ。探さないのって聞いたけど、もういいんだって。そういうことに決まったって」

 それは俺が見つけて栫井さんが彼女の入院手配をしてくれたからだろうな。

「そら、今どうしてるの?」

 少年はただの雨具に戻った傘を癖なのか回しながら俺を見る。見せてもらったからわかる。彼は年少の中ではいちばん青空とよく話していた。ずっと気がかりだったのなら、少しは俺の落ち度かもしれない。

「俺と暮らしてる」
「記憶がないって本当?」
「うん、本当」
「会えないの?」
「難しいだろうな。調子がよくないんだ。元気な日もあるけど」

 元気な日もある。なくはない。その程度だ。そして、元気な日でも、あんなふうに伸び伸びと笑ったりはしゃいだりはしない。できないのだ。彼女は俺を信頼できない。心配してくれるばかりで。
 今の生活に彼女の幸福は無い。
 まあ、そうだよな。

「なおらないの?」

 少年が問う。
 なおす。進行する存在の崩壊を? それは無理だ。彼女の幸福な日々を……?
 返せる言葉が思いつかなかった。俺は彼女を安心させてやれるわけでも殺してやれるわけでもない。彼女の望まない平穏のぬるま湯で、緩やかに、一緒に窒息していくことしか、今は考えられなかった。それでいいよと、あなたの好きにしなよと彼女は言うから。壊れつつある全身に絶望をにじませながらでも、彼女がそう言うから。

「できることはやるよ」

 苦し紛れに答える。できることしかできない。少年は何かを察したように表情を曇らせた。

「……うん、そっか。わかったよ、誰にも言わないでおくね。かげには特に」
「感謝する。巻き込んでごめんな」
「ねえ、一つ聞いていい?」
「うん」
「そら、まだ歌は歌ってる?」

 静止した。
 曇った傘の内側に雨音だけが飽和している。
 言葉も、思考もぴたりと途絶えた。何も考えなかったし、何も思わなかった。盲点だったのだ。咄嗟には思考がついていかなかった。
 少年は苦笑した。

「……ごめんね日暮くん、もう行きなよ。俺が言うのは変だけど、そらのこと、よろしくね。あのときホームにいたみんな、そらのことけっこう好きなんだ。だからその、少しでも、そらが元気でいられたらうれしいな」

 これだから青空のことをよく知る人には会いたくなかったのだ。迂闊なことをしたものだと思う。
 俺は彼女の歌を知らない。聴いたことがない。それは単なる事実で、だけど致命的に思えた。内心だけの無音が脳裏を侵食していく。無い、という事実への諦念が、俺にも確かにあることを、ただ深く理解していく。彼女の歌を、俺は記述のなかの無音の言葉でしか、知らない。

「……そうだな、青空のとこに行かなきゃ。今日は本当にありがとう、えっと」
「チカミ。樋田智守。俺の名前くらいさっさと忘れていいからね」
「はは、さよなら。智守くん」

 ありがとうございました、と付き添ってくれた職員の方に頭を下げて敷地を出た。雨が小降りになっている。智守くんが手を振ってくれる。振り返す。得たものは青空が弱っているという再認識、俺が青空にばかり不甲斐ない姿を見せているということ。
 とにかく、彼女のもとへ急いだ。


2021年12月10日

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