見上げた空のパラドックス
dream9 ―side Mio―
「好きな人ができた」と高校生になった藍が打ち明けてきたとき、あたしは心から祝福をした。がんばってね、って。言うと彼は笑って答えた。ありがとう、がんばるって。確かに送り出したと思った。やっと離れられるなあ、とも。
でも、その年の暮れに消沈した様子で失恋したと言われたときも、あたしは同じくらいに安堵をした。そっか、残念だったね。その日は一緒にお気に入りのお店へ行って、彼のやけ食いに付き合った。あたしもすっごく食べた。帰って二人で徹夜でゲームもした。どうしても意識の外に追いやらなければならない類の安堵だった。
二門澪は藍の姉だからだ。
夜半、軽く作った夕食を一人もそもそと食べているとき、ふとスマホが鳴って、藍が数時間後の帰宅を知らせた。ご飯作っておくねと返信して、自分のを食べ終えてから今度はしっかりと気合を入れてキッチンに立つ。美味しいもの作るぞ。スマホで好きなゲームの戦闘曲をリピート再生にして調理器具を洗い直した。ありあわせの食材で大したものは作れないけど、丁寧に切って丁寧に味付けするだけでもだいぶ変わるものである。そうして藍のために親子丼と野菜炒めを作っておいて、出来に満足してガッツポーズをひとつ。あとはいつも通りにシャワーを浴びて寝るまではゲームをするのだ。
ヘアオイルの塗り込みまで終え、大きなあくびを漏らしながら自室に上がる。ベッドに腰掛けスマホを構えて電子の世界へ。育成途中のカードを愛でながらミッションをこなしていく。
……と、ゲームを始めてしまえば時間など瞬きと同じ速度で過ぎ、玄関の開く音がして、あたしは直ちにスマホを放り投げる。
「藍! おかえり!」
パタパタと階段を降りたあたしに、茶髪の青年が靴を脱ぎながら笑いかけた。
「ねえさん。ただいま、久しぶりー」
「四日ぶり。無事でよかったあ」
焦げ茶の髪に名前どおりの青みがかった目。あちこち駆り出されては危険な仕事をこなし続けてすっかり大人びたまなざし。無個性を貫こうとする流行りに乗った身だしなみ。名を二門藍という。
あたしの、おとうと。だ。
「ご飯あっためるね」
「さんきゅー、遅くまで。寝ててもよかったんだぞ」
「ぜんぜん、いつもまだまだ起きてるもん」
「明日も学校だろ? 朝早いんじゃ?」
「朝までゲームしててもバスで寝れば保つから」
「おおい。髪バサバサんなるぞ」
学校の話を出されるとこのあいだ隼の言ったことが頭によぎる。辞めちゃえば。遊んで暮らそう。それができないわけでは決してなかった。藍のおかげで収入は安定している。でも、やっぱり言い出すには忍びない。不登校だったことはこれまでにもけっこうあるのだけど、その度に藍は余計なことを聞かず、ただ信じて待っていてくれた。
行きたくないだけで、行けないわけじゃない。だったら、行けばいい。
食事を電子レンジに突っ込む。温まるのを待つ間に藍が手洗いと着替えを済ませてくる。
「藍、次の休みいつ?」
「いつ……だろうなあ。なんかあったか?」
「お見舞い一緒に行ってくれない?」
電子レンジが調理の完了を知らせる。藍が目をぱちくりさせた。
「……なんで?」
「隼が会いたいって」
「い、イヤな予感〜……」
ぼやくように言いながらも藍は嫌がる素振りを見せなかった。隼が少し前から“帰ってきている”ことは伝えていたし、なかなか顔を見に行けないことを気に病んでもいたらしかった。藍は立場上あの病院に頻繁に通うようなことはできないのだ。隼のいるあの場所は、管理者たちの傘下にあるから。
「わかった、なんとかして半日空けるわー。休みできたら連絡する」
「ごめんね、忙しいのに」
「悪いのは組織の連中だよ、また仕事増えたんだ。まったくさあ」
「……よく帰ってこれたね?」
「帰りたいもん!」
「おつかれぇ……」
藍が食事を取るかたわら、ゆったりお茶を嗜みながら過ごすこととする。
カップに目を落とすと、半透明の茶色い水面にも最高明度のあたしの目ははっきりと映った。おとうととはかけ離れた色だ、なんて改めて思うのは、このまえ押しつけられた組合員募集のチラシのせいだ。保健室ではもうあきらめがついたのか勧誘されることは無くなっているけど、たまに一歩教室に入ったらあれだよ。本当、最悪だ。懲りずに数日イライラ引きずっているあたしも大概だけど。
だって、嫌だもの。
あたしは藍の家族であると見做されていないってことだから。管理者から。
「……藍、」
「んー?」
「またオファー来ちゃった」
「あー」
徒に愚痴をこぼすと、藍は面倒そうに声を落とした。思い詰めるというわけでもなく、コバエでも目にしたくらいの素振りで。
「懲りねえなあ、みなさまがた」
「うん」
「嫌がらせだよなー。断られんの向こうだってわかってんだろうに」
「関わり続けたいんでしょう。『孤独な野良』は放っておいちゃいけないから」
「んー」
彼が箸を置く。もう食べ終わったらしい。早い。
「……、ねえさん」
彼が食器を持って立ち上がり、あたしを呼ぶ。軽いままだった声のトーンが少しだけ硬さを増したからあたしはカップから視線を上げる。空の皿を流しに押し込みながら、藍が続ける。
「そのことで、ずっと考えてたことがあってさ。管理者にとやかく言われないようにもなるし、いろいろ安定するっていうか」
「……なに?」
あたしはにわかに身構えて聞き返した。ゆるゆると開いていた心の扉がいくつも一斉に閉まったのがわかる。違法組織で働くおとうとに守られながらも管理者の傘下に暮らして、ずっと不安定な立場でいるからこういう話には敏感だ。彼は「そんな悪い話じゃなくて」と前置き、さっと食器を洗い終えてから、座ったままでいるあたしに歩み寄る。
「びっくりしないでほしいんだけど」
「なに」
「そろそろ籍入れない?」
視線がぶつかる。逸らされないまま数秒した。夜よりも深く澄んだ濃紺の虹彩。沈黙にただ交わされる視線は少しずつ閉ざした扉の内側に入り込んだ。
ため息ひとつ。
「……。びっくりは、しないよ」
あたしはそう返した。びっくりはしない。ちょっと急なだけで。カップを掴む手に少し力が入ったくらい。その程度の衝撃で済む。
だって妥当だ。まだそうしていなかったのが不思議なくらいに、その方が都合のいいことがたくさんある。だからあたしはこう続ける。それしかないでしょ。
「わかった。必要ならそうして」
端的に応じると彼はたっぷり数秒かけて苦笑した。なにその反応うざ。仮にもプロポーズするならもうちょっとカッコよくできないの。
「うー……ん。ねえさん。お気持ちは聞いてもいい?」
「世知辛いなーって」
「あー、そうね。世知辛いよな。もっとこう、色んなゴタゴタを収めるためにじゃなくて、お互い好きだからで結婚できたらいいよな。俺はそのつもりなんだけどな」
みたび息をつく。目を逸らす。その話には乗れない。
冷め始めているお茶を口に含んだ。いつも変わらない安物の味に少し落ち着く。ささやかなまますべてが変わらなければいいと、願っている。だけだ。
さすがの私でも察する。隼が帰ってきたこと、学校を辞めればと言われたこと、藍にいよいよ結婚を切り出されたこと、一度に何かが変わろうとしている――そのすべてが無関係ではないのだろうと。
「……。どうして必要になったの。何かあるの、これから」
「戦争になると思うから」
まずは彼が恋の話題を無理に続けようとしなかったことに安堵して、それから内容に眉をひそめた。
戦争なんていつもしてるじゃん、と思うけれど、わざわざ改めて言ったということはきっと、予測できるそれは違うのだ。ひょっとしたら、これまでのように内々で処理できる規模に収まらず、表の世界にあらわれるほどの。
恐怖を隠す。
「……戦前に結婚なんて。死亡フラグにしては古すぎだよ」
「簡単に死ねるほど弱くないって。俺もねえさんも。……だからこそ、まあ、野良で、どこでどう狙われて利用されるかわかんないよりは、こっち側に来てもらう方がまだましかなって」
あたしがここにいるだけで危険なのは重々わかっている。
力が強すぎる。あたしが望んだわけではないけれど、とっくにあたし自身の全てから切り離せなくなってしまった力だ。多重な曖昧さに富んだこの世界を、分ける、ということ。使いようでは創世にさえ近いおこないだ。この力を、あたしの存在を、ある者は欲しがり、ある者は消し去ろうとする。
それでもあたしは戦いたくない。
藍に甘えてずっと守ってもらっている。
「てなわけで、ねえさんは『俺の予備』になる」
「……」
「貴重な力の、予備だ。俺が死んだら代わりに駆り出される。あなたをこっち側に呼ぶなら、そういう立場に定まる」
ごめん、と彼は続けた。
藍が謝ることではなかった。藍が戦っていること自体が、あたしのせいなのだから。
「世知辛いね」
「うん」
彼の手が伸びる。そっと抱き寄せられてからあれ、と思う。少し冷たい手が後頭部に差し込まれて髪を混ぜる。子をあやすよりは愛撫に近い手つきだ。胸を占めていた恐怖が戸惑いに塗り替わる。
「ちょっと、藍。空気読んで」
「いいムードつくったらねえさん逃げるだろ」
「あたしたちはきょうだいだよ」
「そうだな」
「離して」
「隼のことは今度、本人と話そう。あなたを俺の妻にしちゃうと、隼を病院に置いておけなくなると思う」
「……」
「隼には苦労をかけるよ。でもねえさんをこれ以上あやうい立場にしておけない」
冷たい、緊張を示す手があたしの髪を撫でている。本当に空気が読めない弟だ。あるいはあたしがそうさせた。
冷めたお茶がカップの底に残っている。深夜の寒々しい春だ。
「……隼には、幸せでいてほしいな」
「わかってる。できることはするよ」
「わがままばっかり、ごめん」
「身内の幸運を祈るのはいいことじゃん」
「でも苦労するのは藍だよ」
「全部なんなくこなしてる俺、かっこいいだろ?」
抱擁を解いて、彼は陰りのない顔で笑った。これだもの。何があってもぜんぜん余裕、と、彼は態度で行動で証明し続けてくる。あたしはその優しさと強さに逃げ込んだままでいる。
「うん。かっこいいよ。あたしには、もったいない」
「もっとかっこ悪い方が好み?」
「好きにしなよ。どうせ一緒になるんだから」
「あーあ、ガード堅えー」
冷たくなったお茶を飲み干した。
日々、最悪だ。
あたしたち姉弟の結婚は、こうやって決まった。
2021年7月14日 2022年1月14日
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