見上げた空のパラドックス dream8 青い光を前にすると幻想に誘われるような心地になる。ゆらり、ゆらりとうつろう光陰の下にたたずむ彼女はガラスの向こうに舞うミズクラゲと同じ色をしている。休日の夕刻、そこそこのにぎわいのさなか、ぼんやりと水槽を見上げる彼女の周囲にはなぜか人が寄り付かない。 どうしてここにいるんだっけ。最寄りからしばらく電車に揺られた先にこぢんまりとした水族館がある。今日の昼過ぎくらいにスマホで検索して知った。検索ワードは『近場 デートスポット』だ。 「青空、遊びに行こう」 最初の休日、青空が目を開き「ひぐれ、おはよう」と言った直後に俺はそう返した。入学初日以来、数日ぶりに彼女が言葉を発したからだ。青空が言葉のわかる状態で目を覚ましてくれる休日などきっと多くない。何もしないで過ごすなんてあり得ないと思った。 「……うん、いこう」 「まだ何も決まってないんだけど」 「おっけー……」 「眠いか?」 「おきる」 青空は自分で起きて俺にあれこれ聞き、身支度を整えた。今日の彼女はかなり元気に動けそうだと安堵する。彼女の体調の振れ幅は大きい。 作り置きしていた朝食を温め直し、食事と着替えを終えると時刻は昼過ぎだった。 「どうしようか。行きたい場所とかやりたいこととか、もしもあったら言ってほしい」 「なかったらどうするの?」 「とりあえず駅の方に出るかな。この辺りは病院しかないから」 「じゃあ、そうしよう」 「うん」 そういうわけで、出かける日はいつもおしゃれな彼女はオーバーオールに薄手の上着を羽織った姿で桜並木を歩いた。バスで湖畔をぐるっと行って駅前近くの公園で、少し休憩がてら何をしようかと話した。 「ね、日暮。私って日暮の恋人?」 「え、……うん」 「じゃあこれは、デート?」 「そうかも」 「あはは、歯切れ悪。ほんとは違うの?」 「違わないとは、思うんだけど、あらかじめデートだと思って出掛けたことなかったから」 「そう? じゃあ今からそういうことにしよう」 つまりは、そういうわけだ。 彼女の提案は素直にうれしかった。動ける日を無駄にしてはいけないとだけ考えていたのが、楽しく過ごそう、に変わった。遠出は心配ではあるが、いざとなったらタクシーで帰ればいい。それよりも彼女の楽しみの方がずっと優先だった。 「クラゲって種類によっては死なないんだって。さっき壁に書いてあった」 「へえ……、見てなかった」 「繁殖を終えたら幼体に戻って、何回も繰り返し成長し直すって。すごいね」 彼女はそう語って水槽から目を外し、俺の手を引いて歩き出す。小さな水族館だ、揺らぐ青い光を抜けるのには小一時間もかからなかった。青空はけっこう飽きっぽくて、説明を読んで生き物の姿や動きを十秒も見るとすぐ次へ進みたがった。ただクラゲの水槽だけは数分くらい眺めていた気がする。 熱帯魚の描かれたカップをペアで買って館をあとにした。夕飯には少し早いくらいの時間だった。 「楽しかったか?」 「うん。日暮は?」 「……緊張した」 「正直だなあ」 彼女の方しか見ていなかった。言わなくても伝わっているようだった。 「これからどうする?」 「デートっぽくするなら、外食して帰る、かな」 「……がい、しょく……したことないな」 「あー、任せて。これでも手続き記憶はある方だから」 「なんか俺がリードされている気がする」 「覚えたら次の私をリードできるよ」 「……そうだな」 彼女はこともなげに笑った。今日は説明していなかったが、自分が毎日記憶を失っていることにはもう気がついているらしい。次の私、なんて言い方には苦笑するしかなかったが。 「じゃ、お店探しがてら、暇つぶしがてら、駅ビル入ろ」 「ついていきます」 行ったことのない街の駅ビルはいかにもきらびやかな服飾チェーンやカフェ、食器店などがせせこましく身を寄せ合っている。俺には馴染みの薄い雰囲気だが青空の足取りは軽く、心なしか目を輝かせてきょろきょろとしていた。そうだ、彼女はかわいいものが好きなのだ。 「気に入るものがあったら言ってくれ」 「……いろいろ見ていい?」 「もちろん」 本当にこんな機会は滅多にない。彼女に意思があること自体が当たり前ではない日々だ。希望があればなんでも叶えてやりたい気持ちだった。金は俺のものとは言い難いが。 青空はあちらこちらの服飾店や小物店を見回ってはあれかわいいこれかわいいと言ってはしゃいだ。かわいいはほしいとイコールではないらしく、しばらく眺めてはしゃぐと彼女はすぐ次に向かった。俺は彼女の好みを学ぼうとじっと隣でつきあった。記憶がなくても趣向は継続するのだ、きっとこれからの参考になる。もちろん、できれば、彼女のものを選ぶ機があるなら俺よりも彼女の目で選んでほしいけれど。 それから。 「あ、そうだ。パジャマがほしいかも。かわいいのが」 彼女は寝具の小店の前を通りかかったときふとそう言った。俺は、確かにな、と同意する。彼女は今も入院時の寝間着をそのまま使っている。別にダサいわけじゃないけど簡素なデザインの。彼女ならもっと洒落たものを欲しがるのも頷けた。 ファンシーな雰囲気の寝具店を見て回った。春だから夏に向けた薄手のものが多く並んでいる。 そうして彼女はある商品に辿り着き、これまででいちばん目を輝かせた。 「これ!」 ネグリジェだった。袖口にフリルのあしらわれた繊細な作りで、清楚で可愛らしく、確かに申し分のない、かわいいパジャマ。 俺は一秒だけ渋った。そして渋る気持ちを即座に捨てて、じゃあ買おう、と返した。真っ白なネグリジェをレジに持っていって会計をする。彼女はにこにことしてご満悦だった。 「ごめんね、日暮はお買い物、楽しくないでしょう」 「慣れてないだけだよ。貴女が慣らしてくれたらいい」 「うん、また出かけてあげて」 「外食できるようにならなきゃなあ」 「難しくないよ。頼んで食べてお金払うだけ」 「そうなんだろうけど」 夕食は俺でも名前だけは聞いたことがあるくらいのチェーンレストランに入って、二人していちばん安いものを頼んだ。俺は贅沢に抵抗感があるからで、青空は迷ったらそうするのが無難だかららしい。こういうところが雑なの、青空だなあと思う。 「まだ眠くないか?」 「大丈夫」 「すごいな」 「そうなの?」 少し、病室にこもっていた頃より彼女の病状が良くなってきている気がした。週のうちに二度も長時間の外出ができるなんて以前は考えられなかった。思ったより学校にも行けるかもしれないなあ、と一瞬だけ楽観視してみて、やっぱりやめる。まだ初週だ、まぐれかもしれない。 ただ、アルマが言っていた。俺といた方が彼女は存在を保ちやすい、と。その意味がかすかに気にかかった。 「ねえ、日暮はさ」 注文を待つ間、青空が何気ないふうに口を開く。 「うん」 「どうして外食したこと、ないの?」 「忘れてるんだろうな。少し前まで5年くらい外に出ることがなかったから」 「そういう意味なら私もないよ。でも、日暮は、なんだろうな。習慣がついてない。記憶が抜け落ちてるんじゃなくて、回路ができてないでしょう。外食だけじゃないよ、そうだなあ、最低限以上の、お金を使うこと全般がそう」 途中に運ばれてきたハンバーグにナイフを通しながら青空が続ける。 「日暮は、どう育ったんだろうね」 「……もしかして、また俺のこと心配してくれてる?」 「また? そっかごめん、そうだね、繰り返してるよね。飽きた?」 「飽きるとかはないけど。なんか、いつも心配される。大丈夫だよ、俺。できないことは、これからできるようにすればいいし」 「……そう」 豚箱のごはんより美味しいな、と失礼なことを考えながら俺も手を進める。話題のわりに空気は沈むことなくただ流れている。青空がふと「日暮の作ったほうがおいしいな」、とぼやく。俺は明日の献立をハンバーグに決める。 不思議だった。 俺は、自分のことを幸せな方だと思う。甘やかされているとも思う。アルマからは生活資金にしては多すぎる程度の金を受け取っているし、栫井さんは俺たちのため学校に話をつけてくれた。教師たちは夕刻になって課題だけ受け取りに来る俺に何も聞きはしないでいてくれる。青空と一緒に生活ができている。今、彼女と二人でいる。 不安は、彼女の起きている間は、ほとんど感じない。 「ねえ、こんどさ、もっとおいしいお店に行ってみてよ。日暮のとどっちがおいしいか比べてみたい」 「なにそれ」 「楽しそうでしょ」 「じゃあ、やってみるか」 「うん」 そんな話をして家に帰る、すんでのところで彼女は発作を起こした。家路は夜桜が月光を吸ってきれいだった。急速に意識を落とした彼女を背負って数分の帰路を行くあいだ、背が、息を吸った喉の奥が、ひどく冷たいと思った。 2022年2月18日 ▲ ▼ [戻る] |