見上げた空のパラドックス truth3 夏休みになっても大学に通うことになるとは思わなかった。というのも、見つけたバイトというのが近郊の市民病院での事務だったからだ。休憩時に割安な学内の売店で食事を買うのが習慣になっていた。 「お先に失礼しまーす」 「お疲れ様です」 「お疲れ様ですー」 大学と隣接しているその病院はやはりあの森に食い込むようにして建っていて、敷地内は街から隔絶されたように涼しかった。夕刻となるとなおさらで、ブラウス一枚では肌寒いくらいに思いながら退勤する。ただし、街の方ではなく、森の方へ足を向ける。 あのマーガレットの群生地はこの数週間で少し背丈を増して、生い茂る雑草の合間に花が埋もれそうになっている。私はそこを慎重に掻き分けて奥へ進む。教えられた道の通りに一つ一つ木の根を踏み越えると、やがてまた少し開けた場所に出る。 「あ」 巨樹のたもとだった。この森でいちばん大きな樹。栄養が持っていかれるのか樹の周りにはさほど植物が生えず、背の低い雑草がそよぐばかりだ。点々と木漏れ日のそそぐ、ここは彼のとっておきの場所なのだと聞いた。心を静めたいとき、考えたいことがある時、たまに来るのだと。 だから通っていた。 「ルーモ」 やわらかなキャラメルブロンドの頭が目に入って名を呼ぶ。彼は大きなトートバッグを敷いた上に座り込んで画板を抱えていた。会うのはこれで2回目だ。やっと会えた、と、嬉しさと緊張から涼しさに反して汗が滲む。 草を丁重に踏み分けて行く。私は彼のように滑らかな軌道では歩けないけれど、細かいところに気を使うのは得意な方だから、間違って花を踏み潰してしまうことはあまりない。そっと歩いて、気づく。 彼は画板を抱えたまま眠っていた。 帰るのも起こすのも気が引けたから、少し離れた隣に身を落ち着ける。私も鞄を置いて座る。森の中で浴びる木漏れ日はどうしようもなく幻想的で、逸る鼓動を快いものにしてくれるから、暇な時間がいくらあろうといい。立派な幹に背を預け、ぼうと緑の天幕を見上げる。たまに、失礼にならないくらいに隣を見る。目を閉じて俯く横顔が薄く光る髪の隙間から覗く。初めて見たときから変わらない美しさをゆっくりと心臓まで落として、また緑に目を向ける。少しずつ満たされてゆく心地がした。 ふと、みたび彼の方を見たとき、その服の裾を蟻が登っていて目を留めた。種類は知らないけど噛んだりしたら大変だし、払ってあげた方がいいのかな、と迷って立ち上がる。 「……ん」 蟻が肩口に到達した辺りで寝息が声を含んだ。瞼が震え、持ち上がる。透き通った若草色が持ち上がって私を見た。 「あれ……おはよう」 「あ、の。蟻が」 「ん? ……お、こんにちはー」 彼は肩口の虫に気がつくと陽気に挨拶を口ずさみながらそっと摘んで足元に下ろした。下ろされた蟻はすぐ草むらへ姿を消す。私は立ち尽くしたままじっと見送る。 「きみも来てたんだね」 切り出され、忘れられていないことに知れず安堵した。 「うん、実は。あれからけっこう来てるの」 「そっか、ここ気に入ってくれたんだ。光栄だな」 柔和に微笑んで、彼がうんと伸びをする。家だとでも言い出しそうなくつろぎように口元が緩む。穏やかで力が抜けていていつもなんだか楽しそうな独特の雰囲気に、改めて再会を喜んだ。きみに会いたくて来ていたと言うかどうかはまだ迷っていた。 「そういえばきみはもう夏休みだっけ?」 「うん、そこの病院でバイトしてるからどっちみち来るんだけど」 「ああ、バイト帰り。お疲れ様」 「ありがと」 話す傍ら、彼は抱えていた画板に目を落とす。白紙がセットされていたが、それらはすぐ丁重にトートバッグに仕舞われた。 「描かないの?」 「今日は無理そうだから、いいや」 「そっかあ……」 「描けなくて寝ちゃってたあ。ごめんね、気い使っただろ」 「ううん! 静かなの好きだから。大丈夫」 「よかった」 描けなくてもさして思い詰めるということはないようで、彼は終始にこにことしていた。 そろそろ虫が活発になるから出たほうがいいよ、と言われて、私はまた彼とふたりで森を出る。森そのものに愛される彼の鮮やかな歩調を目になんとかついていく。やっぱり彼は一瞬一瞬のどこを切り取っても涼やかで気持ちのいい絵になった。見つめているとこっちまで呼吸が澄んでしまいそうになる。 少し隣でのんびりして、少し言葉を交わして、少し一緒に歩いただけで、自分で驚くくらい満たされた思いがする。自然と笑顔が増えた。 「ルーモ、あの」 「うん?」 「このあと時間、ある?」 街道に出たところで思い切った。満たされたとて貪欲な私は、せっかく数週間越しに会えたのにすぐ別れてしまうのはやっぱりつらいと思ってしまった。さすがに緊張してちょっと声が震える。 彼はひとつまばたきをした。 「うん、暇だけど」 「あの、お茶とか……ごはんとか……」 「ありがとう。でも、ごめん。お金を持ってきてなくて」 「あ、そうなんだ……」 「……ぼくのアトリエに来る?」 「へ」 彼は至って自然体のまま、ゆるやかに駅の方角へ足を進める。 「きみがよければだけどね」 彼は、自分がデザイナーであること、作業に使わせてもらっている部屋が駅のほうにあること、今日はもともとそちらで食事を取る予定だったことを説明した。家のよりキッチンが綺麗だからよく使うんだ、とか。 「来てくれるなら夕飯、軽くご馳走するよ」 「え、っと」 い、いいの? 交差点をいくつか過ぎる。彼は相変わらず急かすということがなくて、のんびりした足取りで隣を歩いている。夕陽を吸った街路樹をまぶしげにする横顔を見やると、やっぱりもう少し話がしたいと心臓が言う。 「……ご、ご負担じゃなければ、……ぜひ」 どうにかそう返すことに成功する。彼が目を輝かせる。 「ありがとう。せっかくぼくに会いに来てくれたんだもの、歓迎するよ」 「えっ」 「きっと何日も探させちゃったろ? ごめんね、また会うときはアトリエに来てくれれば、夕方以降ならだいたいいるから」 「ま、いや、あの、まって」 「うん?」 「どうしてそんなによくしてくれるの?」 「どうしてって」 まるいみどりの目がこちらを見てまたたく。思わず逸らした。着実に、彼の負う善性と天恵の途方もなさに気がついてゆく。 「きみが会いに来てくれたから」 「……そ、っか」 彼は景色を綺麗と語るのと同じ態度で私の誘いを尊重した。どんな顔をすればいいか、わからないまま私はうなづく。 こんな人が、いるのか。二度目の衝撃。まだ慣れない。やっぱり私が彼のまとう絶対的な静謐と美に触れる余地はないのではないか。そう思うのに、離れたくないとも思う。美しいものを見つけてしまったら、もう逃れることはできなかった。 「……アトリエ持ってるって、すごいね」 「知人に割安で貸してもらってるんだ。本業とバイトとでなんとかって感じ」 「そっか。いろいろ大変なんだ……。えっと、年齢って聞いてもいい?」 「16歳」 西日に目を細めながら彼はあっけらかんと答えた。16歳、16歳かあ。風貌から推測できる年齢とそう違わなかったが、落ち着いた佇まいや話しぶりは私よりよほど大人びていたから、数字を聞くとちょっとびっくりしてしまう。 「すごいね、若いのに」 「ありがとう。そろそろつくよ」 そこは駅前の表通りから数本路地を入った一角にひっそりと建った雑居ビルの上階だった。古い建物のようでエレベータがついておらず、薄汚れた階段を息が上がるまで登らなくてはならなかった。彼の方はけろっとしていたけど。 立て付けの悪い鉄製の扉をくぐると、彼が小さな声でようこそ、と言った。 「お邪魔しまーす……」 彼がカーテンを開ける。夕陽が真っ直ぐに入ってくる。 ビルの外観からはあまり想像できない一室だった。壁際に立ち並んだ棚の最も見やすい位置には写真集や画集が表紙の見えるように並べられ、他には画材や資材や本が整然と詰め込まれて、布や紙やインクの独特のにおいが染み付いている。奥の空間はミシンの乗ったカウンターテーブルで仕切られており、片方には衣服の並んだハンガーラックがみっしりとあり、もう片方ではトルソーが数体並んで、シートの敷かれた上に布が広げられている。それらより手前の空間は広々と空いて、折り畳み式の丸テーブルに花が飾られている。 どっちを向いても色とりどりなのに、景色はどこか整っていた。 紛れもなく彼のアトリエだ。と思う。 「ちょっと散らかっててごめんね」 「ぜんぜん。……服を作ってるの? 絵描きなんだと思ってた」 「両方だよ。ファッションは資金源。絵は、趣味」 「そうなんだ……」 「って言っても、生活はだいたいバイトでまかなってるんだ。服、売れたらけっこう入るんだけど、手作りだから、たくさん、しょっちゅう出せるわけじゃなくてさ」 「そこにあるのは?」 「奥のは在庫、手前のはボツ。たまに再利用するから没ったのもいちおう取ってあるんだ」 「み、……見てもいい?」 「あはは。手前のならご自由に。ぼくはご飯作ってるね」 「ありがとう!」 許しを得たので部屋の左奥、ハンガーラックが並ぶ方へ向かう。布には触れないよう丁重に、一着一着を拝見してみる。 「かわいい……」 どれも上等なものばかりだった。ドレスやワンピース、コートなんかの長い服が多い。奇抜なものよりはシンプルなものが多い。私はファッションには疎い方だけれど、ありそうでなさそうでやっぱりありそうな洋服たちを見ているとちょっとわくわくしてくる。 と、特に目を引く一着があった。変哲のない白無地のフレアワンピースだ。膨らんだ袖口とスカートの裾にフリルがあしらわれ、適度にフェミニンでかわいらしい雰囲気があった。生地は庶民の私ではそうそう見たことのない滑らかさで思わず手を引っ込める。他の服の間に半分だけ挟まったそれを私はこわごわと見つめた。 「着てみる?」 「ひゃ」 背後のキッチンでごそごそやっていた彼がいつの間にか背後にいたので驚く。 「それね、襟周りの装飾が思いつかないまま作って。ほっといちゃってるやつなんだ」 言われて見やる。たしかに何も特別な装飾はない丸襟だ。 「かわいいよ、これで」 「うん。このままでもかわいいんだ。でももうちょっと何か付け足したほうが、高く売れると思うだろう? 迷ってるうちにお蔵入り」 「なるほど……?」 「ね、もし興味あったら着てみてくれる? イメージ固まるかもしれないし」 言いながら彼はキッチンに戻り、鍋の様子を覗いていた。私はじっとハンガーラックからはみ出たワンピースを見つめる。やっぱりかわいいなあと思う。 「私でよければ」 「ふふ。うれしい」 おそるおそるハンガーからワンピースをとり、彼に言われるがままトイレで着替えをする。ワンピースの着替えなんてかぶるだけだからすぐに終わるんだけど、初めてこんないいものを身につけたから落ち着かなくて何度も髪型を直した。 意を決してドアを開く。歩むとふわりとしたスカートが足を撫でてゆく。 「き、着てみたよ」 自分の姿のことで緊張している時だっていうのに、西日のさすアトリエに佇む彼の後ろ姿を目にすると魅入ってしまうから参ったものだった。彼が火を止めて振り返る。細やかな動作のすべてがいつ見ても繊細で澱みない。 目が合う。奇跡的に同じ色をしている。 沈黙があった。鼓動が、思考が巡った。その吸い込まれそうな視線の奥で、デザインのことを考えているんだろうか。私、似合ってないかな。大丈夫かな。 「……うん。きみは白が似合うね」 永遠に思えたごく短い沈黙の後、彼が笑った。いつもの顔だ。 「そ、うかな」 「そうだよ。うん、やっぱりそのくらいシンプルなのもいいよなあ……あ、姿見は向こう」 こっち、と彼が車輪付きのハンガーラックを重たげに動かして部屋の奥に招く。布を被された大きな姿見が壁際の棚の内側にはめ込むようにして置かれていた。彼は丁寧な手つきで布を取る。 鏡に私の姿が映った。 みどりの双眸に、白の髪、同じ色のワンピース。 「いいなあ」 思わずこぼす。服に対してだ。袖口の細やかなフリルも広がるフレアスカートも、派手すぎないのに絶妙におしゃれだった。装飾は確かに少ないが質素にも見えない。 「そうだね」 彼が短く同意した。 「ねえ、きみを描いてもいい?」 「……私を?」 「綺麗だから」 しっかりと目を合わせて言われた。私はたじろいでいいのか分からなくなって若草色を見返す。照れるには彼の態度は真摯が過ぎて、ここで目を逸らしたら、ましてや卑下や謙遜の言葉なんて吐こうものなら失礼に当たるような気がした。 まっすぐで迷いも濁りもない、一息で心臓まで届くのにやわらかさを損なわない、視線を受ける。それが紛れもない慈しみであることにはずっと心が気がついている。 私が彼のことを美しいと思ってこんなところまで押しかけたのに。彼もまた私に美しさを見つけてくれるのか。 「バイト帰りとか、気が向いたらでいいから。たまにここに来てくれないかな。モデルをお願いしたい」 彼が続ける。私は目ばかり逸らせないままでいる。 「……、ルーモ」 「うん」 「うれしい」 彼にはこう言った方が伝わるのだろう。 気持ちのままで言った方が。 「また来るね。また会いたい」 「……よかった」 安堵に吐かれた息の残響と共に夕日が沈んだ。 2021年7月11日 ▲ ▼ [戻る] |