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見上げた空のパラドックス
dream5

 学校というものに触れるのがいつぶりで何度目なのか俺にはわからないが、始業を相談室で祝われるのはおそらく初めてだろうと思う。保健室と扉を隔てて隣接する相談室は日当たりがよく、丸いテーブルを一人がけのソファが取り囲んでいる。俺たちは小さな室内でコンポで校歌を聴いて、生徒証と何枚かのプリント、時間割を受け取る。

「ご入学おめでとうございます。僕はこの学校に毎週こさせていただいてます、組合員の田牧です」
「はじめまして。海間日暮です」
「高瀬青空です」

 初日。一般の入学生は式やら部活動紹介やらで体育館に詰め込まれているが、こっちは至ってあっさりとして淡白だ。養護教諭と学校担当の組合員に顔を通しておく。これからのことを情報共有しておく。俺たち特例生徒の今日はもっぱらそのために用いられる。

「お話は主治医のほうからうかがっています。が、もう一度お二人のことを聞かせていただいても大丈夫ですか? 学校の先生方にも共有したいので」
「はい、よろしくお願いします」
「まず高瀬さんの病状についてお話しいただけますか」
「わかりました。青空、いいか?」
「おまかせー」
「ありがとう。勝手に貴女の話をするから、嫌だと思ったらすぐ言ってくれ」
「うん」

 養護教諭が開きっぱの扉の向こうの保健室から俺たちを少し怪訝そうに見ている。たぶん、俺の振る舞いが子どもらしくないから。青空のほうは退屈そうに丸テーブルに肘をついた。俺もそうするのが正解なのかもなあ、などと思いながら話を進める。

「じゃあ、改めて……。彼女の症状は主に過眠、発作的な眠気と体温の低下、それと健忘、言語障害、見当識障害です。診断は重症うつですけど、異能のオーバーワークにかなり近いって言われてます」
「なるほど……。今は元気そうですか?」
「青空、ねむくない?」
「へーき。暇だけど」
「だそうですよ」
「あはは、退屈でごめんなさいね。でも大切なお話ですから。体調の振り幅が大きいとうかがってます。今日は元気な顔が見られてよかった」

 田牧さんは手元のメモパッドに話を記録しながらよく笑って話を聞いた。

「高瀬さんの過眠っていうのは具体的にどのくらいですか?」
「一日に起きてる時間が、長ければ半日、短ければ数分です」
「数分。毎日登校は難しそうですね……」
「彼女の調子がいいときだけ、ってことになると思います。起きられても元気とは限らないので……頻度としては週一……くらいは行けるかなと」
「海間くんが一人で来ることはない?」
「青空を置いて長時間の外出はあまりしたくないです」
「うーん……学校としてはね、やっぱり毎日のお勉強がありますから。そうですね、相談室登校の子たちには基本的に全授業を課題提示型にしてもらってるので、登校できなかった日は宿題だけお渡しする感じになると思います。夕方に一瞬宿題を取りに来てもらうことってできますか?」
「それなら」
「じゃ、そういう体制にできるよう先生方にお話しておきますね」
「ありがとうございます。あまり登校できないとは思いますけど、いただいた宿題はちゃんとやっておきますから」
「はい。我々も初めてのケースなのでバタバタするかもしれませんけど、なるべくお二人のやりやすい形で学業の継続をご支援しますので。特例対応のことで何か問題があれば私にお電話してください」
「お世話になります」

 俺が田牧さんの名詞を受け取る傍ら、青空は退屈そうに壁際の装飾を眺めている。相談室の壁際には申し訳程度のにぎやかしに絵や紙の花が飾られている。
 ごめん、もっと楽しい話ができればいいが、今ばかりはそうもいかない。俺たちは暮らそうとしているのだ。きっと普通ではありえないような困難を、多くの人に支えてもらいながら。

「失礼ですが、記憶障害についてもお伺いできますか? 学業に影響すると思いますので」
「はい……。端的に言えば、青空は、眠ると記憶を失います」
「毎日?」
「ええ」
「記憶を失うっていうのはどの程度ですか? 一般常識や、駅の使い方とか、そういうことも忘れますか?」
「青空、どう?」
「切符は買えると思うよ」
「日本の首都は?」
「東京?」
「今日は何日?」
「4月3日、ってけさ日暮が教えてくれました」
「こんな感じです」
「なるほど……」

 しばらくメモパッドに記録の書き込まれるさらさらという音だけが小さな相談室を満たした。青空の病状とつきあっていくことは、確かに学校からすれば難解だろうと思う。比較的忘却に慣れと理解のあるだろう俺がどうにか橋渡しできたらいいが。
 保健室の方からノックが聞こえた。養護教諭は相談室と繋がる扉を閉ざしてから対応に向かっていく。扉を隔てて調子を崩した生徒と養護教諭のやり取りがかすかに聞こえている。
 田牧さんが声を落として次の話に移る。

「担当医の見解とだいたい相違ないみたいですね。学校のお勉強ができるかどうかは、とにかくやってみましょう」
「はい」
「海間くんの方はなにか心配なことはありますか?」
「俺は、青空が受け入れてもらえるなら、大丈夫です。青空はなにかあるか?」
「私がけっきょく勉強ができないってなったらどうするんですか?」
「なるべくそのまま通えるよう対応します。安心してください。ここはけっこう融通が利く場所ですので」

 保健室での対応を終えた養護教諭がふたたび相談室への扉を開き顔を見せる。毎朝保健室に電話してその日の青空の体調と登校の可否を伝えるようにとだけ言ってすぐまたどこかへ去っていく。かなり忙しそうだった。聞けば、新入生で異能の診断を受けている子ども全員と面談をしていて、教師陣との調整も一手に担っているという。

「この学校は異能の対応に強いんですよ。公式発表よりも前からけっこう難しい子が通っていましたから。保健室は組合と直接つながっているわけではないですけど、学校のことでは頼りになると思います」
「心強いです」
「それと、今日はこっちには来ていないんですが、お二人にはクラスメイトがいます。同じ特例の、異能のある子です。そのうち会うと思いますので、よろしくお願いしますね」
「あ、わかりました……。俺たちのこと、変に思われないですかね」
「大丈夫だと思いますよ。物わかりのいいおとなしい子ですから」
「そうですか……」

 田牧さんがメモパッドを閉じ、お疲れさまでしたと笑った。ソファの背もたれにへばりついていた青空がやっと終わったかとばかりに身を起こす。

「終わった? ねえ、学校って探検してもいいの?」
「あ、いいですよ。僕これから校内を回るので、案内しましょうか」
「行こう日暮!」
「うん」

 青空が活動的でいてくれるのはうれしい。俺たちはぞろぞろと相談室を出て校内を回った。ちょうど式の終わった時間らしく新入生と思われる幼い顔ぶれが廊下を固まって歩いている。田牧さんが子どもの輪をまわってあいさつや雑談を繰り広げていくのを少しだけ遠目に、特段の変哲はないリノリウムの廊下を青空はまぶしげにして歩いた。真っ白な髪は好奇の目を引いたが彼女に気にする様子はなく、知らない景色をひとつひとつその碧眼に収めていく。

「ほんとうに学校だ。日暮は行ったことある?」
「わかんない。たぶんあるよ」
「そうだよね、私も」

 なつかしいね。何も知らないけど。そう続ける彼女を何人かの生徒が避けて歩いた。
 いびつで不完全な学校生活が始まる。


2022年2月17日

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