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見上げた空のパラドックス
dream4

 アラームが鳴らなくても夜明けと共に目覚めてしまう癖は一生治らないのだろうなと思う。いつ身についたのか覚えてはいないが、たぶん、生前から。
 ベッドからは出ないまま窓際に手を伸ばして、薄灯りを漏らすカーテンを数十センチだけ引く。まっすぐに差し込む朝陽に目を細め、明るくなった視界に彼女をたしかめる。体温はいつも低めで、長い髪からは同じシャンプーの香りがして、耳を澄ますとかすかに寝息がある。ここ数日は、このまま、朝陽が位置を高くするまで彼女の手を握って、あるいは髪を撫でて過ごしていた。

「……おはよう」

 小声でつぶやいておく。
 今日はあまりだらだらせず食事の準備でもしておこう。学校が始まるのだ。事情は通してあるようで、来られる時に保健室へ、ということになっているから、特別なにか焦って準備するわけでもないんだけど、気持ちの問題だ。
 顔を洗って歯を磨いて治らない寝癖と少しだけ格闘して、寝間着の上にエプロンをして米を研ぐ。炊けるのを待ちながら食材を鍋に放り込む。青空がどれだけ起きていられるか、起きても食事をしてくれるのかわからないから、俺ひとりでも食べ切れる量で。
 ぐつぐつ言う鍋を尻目に、もらったスマホでニュースを確認しておく。
 この五年で世界はすっかり異能者に寛容になった。
 異能は医療の対象とされた。これまでに原因不明の奇病で治療されていた中に少なからず異能者がいたためだ。専門の病院があちこちに開かれ、あるいは既存の病院に対応体制が敷かれ、異能者はそれぞれ診断を受け定期検診をすることが義務付けられた。青空が入院していたのもそうした病院のひとつだった。異能の判定と診断、必要なら訓練や助言指導もおこなう。管理組合の出資が大元にある。
 異能の使用に関しては管理組合と呼ばれる組織の管轄外では犯罪とされるようになった。トップは相変わらず栫井さんで、メディア露出も増えている。組合は異能の制御を教えるとともに適正な使用を前提とした職業の提供をしている。きな臭い噂が絶えることはないが、平和に暮らせる異能者が増えたことはとりあえず事実だという。
 俺は刑務所にいたので、この五年の世情の移ろいを詳しく知ったのは最近のことだが。
 目立ったニュースもなく、あくびを噛み殺す。スマホをエプロンのポケットに突っ込んで、手持ち無沙汰に青空の様子を見に寝室へ戻る。ダイニングキッチンと寝室とはふすまで分たれていて、ふすまは基本的に開けっ放しだ。寝室にいても吹きこぼれたりしたらすぐわかるので問題無し。
 床に腰を下ろしてベッドに頭をもたげ、彼女を見つめる。仰向けにじっと目を閉じる姿は寝息が聞こえなければ死体と紛うようだ。

「青空」

 手を伸ばした。温度感の低い頬に触れる。ちゃんとここにいる。確かめていないと落ち着かない。
 明るいばかりの朝、刹那に訪れた束の間、心にふと影がさす。
 祈る。
 死ぬときは一緒がいい。

「……青空」

 息を吐いて、立ち上がる。鍋の様子を見て火を止める。使った調理器具を洗い終えるあたりでちょうど炊飯器が調理の完了を告げる。エプロンを外してキッチンの横のハンガーにかけておく。
 そうして振り返ると、彼女と目が合った。

「……おはよう。青空。早起きだな」
「おはよ……いいにおいする」
「朝ごはん食べる?」
「たべる」

 ふにゃふにゃとあくびをしながら起き上がった彼女を洗面所に案内する。歯ブラシはこれ、洗顔料はここ、お湯は蛇口を左回し、と説明する。たぶんこれからルーティンになるやり取りだ。

「貴女の名前は高瀬青空。高い瀬にあおぞらって書く。この世界はそこそこ平和でここは日本、今は4月3日の午前6時半。俺のことは覚えてる?」
「ひぐれ……」
「よし。実は今日から学校なんだ。後で一緒に行こう」
「んー」
「ちょっとねぼけてる?」
「きいてる」
「貴女の名前は?」
「たかせそら」
「おっけ。ごはん盛っとくな」
「はーい」

 話のできる日が続いていて安堵する。目は合うのにかたくなに口を開かなかったり、字が読めない、話してもわからないといった症状が出ることもあるので。医師からは、急な体温低下に伴う気絶以外のそうした諸々は、記憶喪失への強い不安感からくる症状だろうと言われている。
 何をどれだけ忘れてもいいよ。そう伝え続けなくては。
 米と味噌汁、肉じゃがをよそってウッドカラーのダイニングテーブルに並べる。青空とこの食卓を囲むのは実はこれが初めてで、うれしい。
 洗顔を終えた彼女と向かい合わせに座る。二人で手を合わせ、食事をはじめる。

「おいしい」
「よかった」
「日暮、料理得意だよね。知ってる、それは」
「まじ? 俺のことどのくらい知ってる?」
「んー……私のことがすごく好きな人、で、料理が得意で、昔は喫茶店の店員さんで、それより昔は旅人だった。買い物は八百屋さんはしごして最安値に抑えるタイプ。炭酸飲めない。寝るとき丸くなって布団に潜るからいつも寝癖ついてる」
「え……? 俺より詳しいじゃん……俺炭酸飲めないの?」
「あ、そう、忘れっぽいんだよね。日暮も。えーと……日暮が覚えてなさそうなこと、あるかなあ。……銃がすごく得意だった、とか?」
「あー、もう撃てないだろうな」

 互いに咀嚼の間を挟みながら言葉を交わした。
 彼女がおいしそうに食べてくれるから見ているだけで満たされる思いがする。起きて喋っているうちは、やっぱり彼女は青空だった。

「日暮も私のこと、おしえて?」
「え。ごめん。正直ぜんぜん知らない。甘いものと可愛いものが好きってことくらいしか」
「それでどうして私が好きなの」
「まったく覚えてないな」
「えー」
「でも、うん。なんか、青空が元気そうだとすごくうれしい。元気なさそうでも正直うれしい」
「なにそれ」
「生きててくれたら、それがいいから」

 食事を終えても家を出るまで一時間ほど暇があった。入学式には出ないし、学校は私服登校でいいとのことなのでおのおの着たい服を着る。実は昨日、青空と二人で少しだけ服の買い出しに行ったのだ。俺は安いセーターを一着だけ、青空はワンピースを数着選んだ。その中の一着、パステルグリーンのロングワンピースに身を包んで青空は得意げだ。

「かわいい?」
「とても。お嬢さん、ちょっと座って?」
「なになに」

 彼女をソファに座らせ、後ろに回って髪を結う。女性の髪を結ったことなんてないけどなんとなくの思い付きだ。命の気配のしない髪を丁重に編み込む。たぶんできると思ったアレンジを完成させて鏡を見せると彼女はおおいに喜んだ。

「かわいー。日暮、器用なんだね。覚えておくね」
「……はは。忘れてたら教えてくれよ」
「気が向いたら」
「うん」

 指先が震えた。
 本当にもう青空には俺しかいないのだ、と悟った。好きでも嫌いでもない、命の他にはろくに接点のなかった他人の、俺しか。虚しくないのだろうか。虚しいからたまに言葉をもなくしてまで哀しんでしまうのか。
 俺に恋してくれたらな、と思う。ただし、健康に。
 彼女の時間が静止したままで崩壊しているのなら、今さら俺を好いてくれと言ったところでまったく無駄な話だ。永久保存された心は新たな恋を始めたりなど絶対にしない。が、もし、彼女の時間がその片鱗でも「動き出している」のなら。不可能ではないはずだった。しかしそれは彼女の不老不死の解消を意味するわけで、決して遠くない衰弱死を予感させた。
 それなら前者の方がいい。苦しみながらでも生きてくれた方が。
 彼女がどちらの状態にあるのか、俺にはまだわからない。

「日暮?」
「ん」

 ソファに並んで話しているうち、いつのまにか彼女が俺を覗き込んでいる。結い上げた白髪がさらさらと俺の膝にこぼれる。

「……あんまり無理しなくていいよ? 日暮のことは覚えてるし、私。怒ったり、泣いたりされても、なにこいつキモいとか思わないから」

 高く澄んだ声が、努めて暖かくしたような響きで耳を打つ。彼女の冷たい手が俺の手に重なって心臓が痛んだ。動揺が広がる。ちょっと待て。そんなに言わせるほど頼りないか、俺。そういえばほぼ毎日心配されているような気がする。俺のことに関してはかなりの精度で記憶している彼女だ。これはまずい。

「そんな。無理してるつもりはぜんぜん」
「はいはい、今から30分を弱音タイムとしましょう。私が聞き手ね。はいどうぞー」
「えっ、ちょっと待って」
「いまさらカッコつけなくていいよ。日暮、おもたくて繊細だもんね」
「挽回させてくれ、もうちょっといい評価に」
「多才で行動派でおもたくて繊細だよね」
「取り返しつかない感じ!?」

 手にかかる力が強まって思わず目を逸らした。毎晩一緒のベッドで寝ているくせに手を握られたくらいでドキドキしてしまうのも、やっぱりちょっと情けなくて俯きたくなった。

「日暮」
「……なにかいわなきゃだめ?」
「いいえ? 言葉がなければそのように。ちゃんと見てるし、聞いてるから。苦しいのひとりで呑み込まないでねって言ってるだけだよ」

 青の目がまっすぐに俺を見る。きっと俺よりも俺のことが見えている。海間日暮が誰か、を、もしかしたら彼女だけが知っているのかもしれない。そう思えばこの生活は、この俺たちは、笑えるほどに対等でお互い様だった。そうだ。俺たちは互いを通してしか互いの名前を保てない。
 二人でいるしかないんだよ。それは、わかってる。そこには愛も幸福も静けさも穏やかさもある。だけど。

「……青空」
「うん」
「青空、だよな?」
「……、あなたがそう呼ぶのなら」

 白の少女は揺れのない声で答えた。
 恐怖する。
 俺は青空のこと、ぜんぜん覚えてない。何も知らない。彼女がどんな思いを抱いてどんな旅路を歩いてきたのか知らない。ノートは読んだ、何度でも読み返すけど、でも、どれだけ言葉をなぞって知識を頭に入れても、どうしたって実感の伴った記憶には至らないだろう。そんな俺に、高瀬青空を、繋ぎ止めることができるのか。できているのか。もしかしたら彼女はとっくに彼女でないのではないか。不毛な疑いだ。悩んだってしょうがないのだ。でも。違和感がとれない。ただそれに尽きる。どれだけ彼女の名を呼んで、言葉や視線を返してもらって一喜一憂できても、違和感が完全にはとれていない。
 眠る彼女の姿が、ふと別人に見えることがあった。たびたび。
 知れず震えていた肩に彼女が触れる。青い目はじっとこちらを見つめたままだ。その目が開いているうちは大丈夫と思えるのに、閉じ切ってしまうと急に不安が俺を襲う。ずっと起きていてほしい。ずっと青空のままで生きてほしい。
 細い背に両腕を回し引き寄せる。伝わる心音に深く安堵をする。

「青空が、眠ると、次はないんじゃないかって思う」

 青空はこのままいつか青空ではない何かに飲み込まれていなくなってしまうのではないか。そんな無根拠の焦燥が燃えている。
 生きて。俺の隣でなくてもいい。世界のどこかに、いてくれ。青空。

「ずっとここにいるよ」

 腕の中で彼女が言う。

「あなたの隣にいる」

 気休めだ。
 そうとわかっていてもたまらなくなって、その唇を奪った。互いに目は閉じない。至近距離で見つめ合う。青。世界でいちばん不確かな色だ。温度を確かめたくてもう少し深く粘膜を擦った。大丈夫だ。彼女はここにいる。一瞬でもそう思えるならなんでもよかった。かすかに自分の料理の味がした。

「……行こうか、学校」
「自分でして自分で照れないで」
「記憶上のファーストキスなの! 勘弁してくれ」
「記憶上の」
「そこ復唱すんな」

 彼女の手を引く。


2021年6月14日

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