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見上げた空のパラドックス
truth2

「お、お、終わったあああ……!」

 深く息を吸う。無駄に広大な大学の敷地には豊かに木々が植わっていて空気の美味しさなら格別だ。よく晴れた初夏だったが、暑さを不快に感じるほどにはじめじめしていない。普段なら目もくれないそんな事柄も思考に登ってくるほど今の私には余裕があった。
 終わった。
 入学して初の試験期間が。ついに。
 地獄のような日々だった。面白くないと言えば嘘にはなるけど、それにしたって一体どうしてこんな単純な暗記や単調な計算のために睡眠時間を削らねばならぬと、形式ばって発展性のないレポートを散々まとめ直さねばならぬと幾度思ったことか。いや、わかるよ理屈は、基礎の繰り返しは大切だって、理屈はわかるんだけども、寝不足でイラつきながら机に齧りついてて文句が出てこないわけないじゃん!
 ともあれそれも今しがた終わった。成績には自信があるし、もうこの胸には不安も後悔もイラつきもなかった。
 遊びに行こう。甘いものを食べて帰ろう。でもまだ時間が有り余っている。どうしようかなと思う。せっかくこんなに浮かれた気持ちでいるのだから、あんまり歩いたことのないこの広すぎる敷地内を散歩でもしてみようか。そうしよう。
 自販機でジュースを買い、片手にぶら下げながら、鼻歌混じりにレンガ張りの遊歩道を行く。いちばんに解き終わって出てきたのでまだ他に試験を終えて出てきた同学部生の姿はなく、人目を気にせずうろうろできた。

「かわいい」

 見事なマーガレットの花壇の傍でフルーツジュースを口に含む。いい風が吹いている。
 夏休みが始まるなあ、とぼんやり考える。一年生だからまだゼミは忙しくないし、サークルにも入っていないから、やることと言ったらまあバイトか。私は院進前提で大学に来ているのでお金はけっこう必要だ。しかし前期の間はなんだかんだと忙殺されていてバイトが見つからなかった。今日は遊ぶけど明日にでも探そう。決意してまたゆるりと歩き出す。
 大学の敷地内なのか外なのかよくわからないところに森が広がっている。むしろどちらかというと森を切り出して大学を建てたって感じだ。環境学部の人たちはよくフィールドワークに出かけるらしいけど、駅から遠ざかる方にあるから他学科だとほとんど行かない。
 木々がざわめくと風が髪を揺らした。かろうじて整備されている土の細道を確かめるように踏んでゆく。虫が気にはなったが森の涼しさはなお私を誘った。木々と共に風に吹かれているだけで疲れが癒される気がする。
 ジュースをちまちま減らしながら誰もいない森を進んだ。
 なんだか秘密の探検のつもりだったから、その先に人を見つけた時は思わず引き返しそうになった。この静謐に自分は場違いな気がして。

「……こんにちは」

 やわらかな声がした。
 森の奥。少しだけ開けた、自然の花の群生地の片隅で、その人は木漏れ日に目を細めて笑った。手に画板を持っていた。
 外見からも声からもすぐには性別がわからなかった。肩まで伸びたキャラメルブロンドの髪を一つに括った髪型、都会的でお洒落なのに森にいても違和感のない服装、ほっそりとしてはいるが背筋の伸びて健康そうな体躯、そして、まっすぐな若草色の目。
 どうしよう、と思う。
 美しいな、と。

「同じ色だね」

 とその人が言う。

「え」
「目。みどりいろ」

 珍しいね、と笑った中性的な声が続ける。

「そこの学生さん? 調べ物にきたの? ごめんね、邪魔だったかな」
「あ、……ううん。ただのお散歩だから大丈夫」
「そっか、よかった。ここにいるとたまにフィールドワークの人と鉢合わせることがあってね、その時は邪魔になるから退散するんだけど」

 どこか幼い響きと落ち着きを併せ持った、包括すれば少年っぽい声だ。たぶん、男の子、かな、と思いながら、逃げ帰るのも失礼だから彼の方に向かってみる。花を踏まないよう気を使った。さっき見た整えられた花壇とはまた違う、無作為に咲いた白のマーガレット。
 彼の抱える画板の上にも描きかけのそれがある。伸び放題の茎、いきいきと茂る葉に落ちる木漏れ日と、それでも慎ましやかに咲く花々。私が絵に目を留めると彼は少し気恥ずかしそうに微笑んで筆を置いた。

「わ、すごい。きれい」
「そう? ありがとう」
「続き描かないの?」

 問うと彼は何かを言い淀む。強すぎる印象は与えないのに、抵抗なく心臓の奥まで届く、そんな視線が私を射抜く。

「この絵はこれで完成だよ」
「え」

 みたび彼の手元を見る。画板の上に敷かれた画用紙はまだ三割ほどが空白で、明らかに未完成だった。

「手が止まったのも、記録になるから」
「記録に?」
「この絵をさ、たとえば十年後にぼくが見返して、なんで白く残したんだっけって考えたら、きみのことを思い出すかもしれない。だからね、もう、ここにはきみのことが描いてあるんだよ」
「なる、ほど?」

 不思議なことを言うなあと思った。でも、そうも穏やかな確信を伴って言い切られると、なるほど確かに、と納得もしてしまう。視線も、言葉も、すべてが柔らかく穏やかなのに、どこか鋭利な。
 彼は丁重な手つきで画用紙を傍らの鞄に仕舞い込む。
 何もかも思いもよらなくて、でも大袈裟に驚く理由もなくて、私はただなんとなく木漏れ日を見上げて佇んでいた。世界からぽっかり切り取られたように、特別に明るくて涼しい場所だから、夢を見ている気分になる。

「……よく来てるの? ここ」
「たまにね。静かで集中できるから、お気に入りの場所のひとつなんだ」
「うちの学生じゃ、ないんだよね」
「うん、しがないフリーターです。この近くに住んでるんだ。森を反対側に抜けた方」
「へー……」
「きみは? 生態学コースの人じゃないんでしょう」
「私? ……数理学科の一年生なの。この森入ったのも初めて」
「ふふ、そっか。たまたま出逢えて光栄だな」

 ぽつり、ぽつりと言葉を交わした。彼は辿々しい私の返答にも嫌な顔ひとつせず楽しそうにしてくれる。こんな綺麗な場所にいていいのかな、なんて不安はとっくに鳴りを潜めていた。見た目の印象よりも彼は気さくでお喋りだった。

「それにしても、どうして急に散歩に? 暑いだろ、今日」
「さっきね、試験期間が終わったの。それで、えーと、気晴らしっていうか」
「おお、試験かあ。お疲れ様。どうだった?」
「きつかったあ。内容は簡単だけどね。毎日やること多くて」
「大変そう。学生さんすごいなあ。帰って眠らなくてもいいの?」
「うーん、寝たいっていうか、今は遊びたい気分で」
「あはは、なるほど」

 軽快に相槌を打ちながら画板と鞄とを担いだ彼がゆるりと歩き始める。足取りは迷いがないのにまったく花を踏まず鮮やかだった。この森の一部だとでもいうように、彼の紡ぐすべての瞬間がなんだか調和していて、景色に映えて見えた。
 刹那に見惚れてしまう。

「探検、もしよかったら案内しようか。ここね、他にもいろいろ綺麗な場所があるんだよ」
「え、っと、いいの?」
「うん。こっち」
「わ、待って待って」

 私は草花を傷つけない軌道を慎重に見極めながら不恰好に進んだ。数歩先で彼がくすりと笑う。その細い腕が伸びる。当惑に揺れる私の手を握る。適度に暖かい。心臓が跳ねる。そのまま緩やかに森の奥へ引かれてゆく。彼の軌道に従うと草木は直ちにうやうやしく道を開けてくれた。魔法みたいだ。

「失礼。なんか困ってそうだったから」
「あ、う、ううん。たすかります」
「そう? よかった」

 落ち着いて話すのに鈴が跳ねるように軽やかに笑む。そこに胡散臭さや酷薄さはとてもではないが感じ取れなかった。幼稚さや拙さすらも。慄くほどに清らかで洗練された。それこそ完成された絵画のような。
 こんな、ひとが。いるのか。
 心地よい安心と緊張と言い知れぬ衝撃とがせめぎ合って鼓動が高鳴っていた。握る手の温度も話しぶりもいたってありふれたものなのに、命の海をさらさらと泳ぐ彼はどうしようもなく特別だった。
 彼は私が通れないような険しい場所は避けながらも伸び放題の草木をすいすい掻き分け、人の手が一切入っていない澄んだ小川や、いちばん大きな木のたもとなどに連れていってくれた。そう広い森ではないからツアー自体はすぐに終了する。短い時間。そのはずなのに、一瞬一瞬はまざまざとして永かった。彼は私にはそう違いのわからない自然の景色を止めどなく愛おしげに語る。そうかと聞いて見れば、葉の切れ間から降る光は確かに彼の言葉に応えて魅せた。
 震えがくる。
 言い知れぬ衝撃がじわじわと広がって私を満たす。
 そろそろ森を出ようかとまた草を踏み分けてしばらく、久方ぶりに人の手の入った小道へ出たところで、私ははたと立ち止まる。握られたままの手に知らず力が入っている。

「……ごめん、疲れた?」
「ううん、だいじょうぶ、」

 大丈夫と口に出しながらも何か気まずくて俯いてしまった。
 感じることは多くあった。たのしい、うれしい、まぶしい、きれい。しかしそれらのうちの一つも言葉にし得ないほどの何かが喉の奥で熱を持っている。足元にばかり目を落としてまた木漏れ日の揺らぎを見た。
 深呼吸。濃い緑のにおいがする。

「……あ、の」
「うん?」

 彼は訝るでも戸惑うでもなく私が言葉を紡げるまで待ってくれていた。

「きみの名前をおしえて?」

 正体のわからない衝動をどうにかこうにか言葉にしようと、息を吸って吐いてやっと出てきたのはそれだった。そういえば名前を聞いていなかったことに、自分で言ってから気がつく。

「ぼくはルーモ」

 ペンネームだけどね、と彼はまた軽やかに笑った。


2021年6月9日

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