見上げた空のパラドックス dream3 今日も彼女は眠っている。眩しい白の蛍光灯のもと、同じ色の髪を枕に広げて目を閉じている。 「青空」 名を呼ぶ自分の声が虚白に溶けて消える。乱されない静寂に目を伏せる。彼女の手首に巻かれた入院患者タグに印字された高瀬青空の文字を指先でなぞる。 本当に彼女は彼女だろうか。色も記憶も不死も希死念慮も失った彼女は、誰なのだろうか。そんなことをいつまでも考えている。俺だってとっくの昔に青空を求める以外の俺のすべてを見失ったくせに、彼女のことになるとそれは遥かに重たく思考を蝕んだ。 今の彼女には何が残っている? 「青空」 小さな声で呼びかけ続ける。 やがてその瞼が震えた。 「……起きた? おはよう、青空」 「ん……ん? 日暮。おはよう」 握った手が緩く握り返され、青い目が俺に焦点を合わせる。その口元がふにゃと緩んで笑みをかたどる。気を許しきった表情で。 それだけで満たされそうになる自分を律して、俺は彼女に淡々と用件を告げる。今日はのんびりと雑談するわけにもいかないのだ。 「貴女は高瀬青空。ここ5年くらい入院してたんだけど、今日、退院することになってるんだ。目覚めてくれてよかった。身支度してくれるか?」 「んぇ……。せわしないなあ」 彼女が目をこすりながら身を起こす。俺はその膝に畳んだ着替え一式を乗せて一時撤退、カーテンレールを引く。オフホワイトのカーテンの向こうで布ずれの音がする。 「退院って、どうするの?」 「明後日から学校がはじまるんだ。たぶん、保健室登校になるだろうけど」 「日暮も一緒?」 「うん」 「私、何か病気なの?」 「そうだな。目覚めるたびに記憶がない」 「それで学校はむりじゃない?」 「勉強しに行くわけじゃないんだ。ずっと入院してても体に良くないから生活しようって。だからまあ、大丈夫だろ」 「そっか……はい、着替えたよ」 カーテンを開く。黄色のブラウスにデニム生地のスカート姿の彼女がいる。雑な組み合わせだけど彼女が着るとしっかり似合った。長く眠り続けても体を衰えさせてはいない彼女は顔を洗うからと病棟共用の洗面所へ危なげなく向かう。見送る。俺は荷物をまとめておく。とはいえ彼女の病室に置かれた私物というのは消耗品以外は例のくたびれたノートが一冊だけだ。プラスチックケースにしっかりと保護されたそれを新品のスクールバッグへ丁重に仕舞う。手続きの類は栫井さんがもう済ませてくれたので、あとはこのまま彼女を連れて退散すればいい。 たった十日ほど通っただけの白い病室は、繰り返す長い夢のように印象ばかりを脳裏に貼り付けていた。 やっと夢から覚める、と思う。 窓辺に降る光を睨んだ。 「ただいまー」 「ん。もう行ける?」 「うん。ねえ、私、どこへかえるの?」 「そうだった。青空、」 俺はそっと彼女の手を取り、こうべを垂れる。一応ちゃんとする、何気ない流れのまま決まったことではあるけど、たぶんこれはプロポーズだから。青空の時間はきっともう永遠ではないのだ。それを俺がもらおうとするのなら、形だけでもお伺いくらい立てておかなくては。 「私と暮らしてくださいますか?」 姿勢を低くして彼女を見上げる。青い目は揺らぎもせずに視線を返してくる。 「その方がよさそうだね。あなたのことしか覚えてられないんだもんな」 「ちょっとお。今のは心で答えてくれよ。Will you marry me? って言ったんだけど」 「……この状態の私と?」 「何をどれだけ忘れてもいいよ。何回でも教える。貴女が死ぬまで、貴女の名前を、俺が教える。……ゆるしてくれる?」 彼女には胡乱な話だろう。自分のことなんて何一つ知らないのに、愛を唱えられても実感など湧かないだろう。高瀬青空を繋ぎ止めたいのはあくまでも俺だった。青空を青空のままで死なせてやりたいのは。彼女にはもうそんな願いは無いのに。 見上げた先、冬空のいろをした目がただ不思議そうにまたたいた。 「断る理由はないけど、うなづく理由もないよ」 「……はは。うん。そうだな」 「日暮のことは好きだけど」 「え」 「だって他に知ってるものがない」 「……」 「あなたしかいないだけ。これは愛じゃないよ」 「俺もそうだ」 即座に返した。 彼女はかすかに目を見張って、そして微笑む。誰にも穢されなかった無垢はその瞬間に生まれたてのあきらめと絶望を秘めた。胸が高鳴る。ああ、よかった。青空だ。 その澄んだ目が世界をみて、正しく哀しんでくれるのなら、俺はそれだけで永遠を懸けられるよ。 「……そう。それじゃあ、一緒にいようか」 握った手に彼女の冷たい手のひらが被さった。 俺は「ありがとう」とつぶやいて立ち上がり、片手に荷物を担ぎながらそのまま彼女の手を引く。歩き慣れた病院の廊下を抜け、ナースステーションに挨拶をして、エレベータに乗り込む。いつも通りの手順で、白の静寂から一歩ずつ着実に遠ざかる。彼女は大人しくついてきた。眠いと言われたらどうしようかとも思ったが、家にたどり着くまでの数分、特に問題は起きず、散りかけの桜並木のたもとを二人で歩いた。 「春だ」 「うん」 「湖、まぶしい」 「よく晴れたな」 「世界が生きてる」 「……、死んだ世界のこと、覚えてるのか?」 「ううん。でも、生きてるんだなって」 「そっか」 「死んだの?」 「たくさんな」 「へえ。見たの?」 「見た」 「……苦しくない?」 どうしていつも俺の心配をしてくるんだろう。 自分のことに思考を回せるほど自分について知らないから、か。 「苦しくないよ」 俺は決まってそう答えた。彼女に問いをかけられ考えるたび、苦しかったはずのことが苦しくなくなっている。問いを紡げるほどに彼女がそれを哀しんでくれたのだと思うと、もう俺が苦しむ必要はないような気がしてしまうから。都合のいい感情転嫁。 彼女は遠く湖面のきらめきを負ってにこにことしていた。「よかった」、とやわらかな声が言った。すべてが淡い。 そうしてマンションの一室に辿り着く。 「ただいま」 「……ただいま。かわいい部屋だね」 「よかった。貴女に趣味を聞いたんだ」 「うわ、律儀」 「欲しいものがあったら言ってくれ。学用品は一応、もうだいたい揃ってる」 荷物を下ろして手を洗って彼女を部屋に通す。買っておいたものを逐一見てもらう。また忘れるのだろうけど、気にいるかどうかくらいは判断してもらって損はない。彼女が与えられた物々に文句をつけることは結果的についぞなかったが。 日没。家にあるものの説明と紹介をだいたい終えて、シャワーを浴びたいと言われたので案内して、そろそろ食事でも作ろうかと思ったあたりで、まだ濡れ髪の彼女が発作を起こす。 「ねむくなってきた」 「ん。寒いか?」 「……さむい」 「体温だけ戻しとくから少し耐えてくれ。ドライヤーだけしよう。座って」 「うん」 彼女の白く長い髪に丁重に温風を当てた。ぞっとするのだけど、細やかな髪は灰のように脆くて、刺激を与えるとぼろぼろと切れて落ちる。あまりにも、生気が、ない。思わず唇を噛んだ。 「日暮」 「んー?」 「明日の私にはなんて言うの?」 「起きたら、おはようって。で、学校の準備して、ご飯食べて、寝ればいいだろ」 「明後日は?」 「一緒に学校行こうって。……記憶がなくても、生活はできるぞ。俺もすげえ忘れっぽいんだけど、その都度なにをやればいいかだけわかれば、とりあえずどこでもなんとかなるし」 長いのでなかなか乾かない髪と苦戦しながら、顔色を悪くした彼女と言葉を交わした。大丈夫かな。あまり無理をさせると死期が早まったりしないのだろうか。あとで神さまに聞いてみるか。 髪を乾かし終えて、彼女をベッドに連れていく。寝室にはセミダブルが一つだけある。突っ込まれなかったのが逆にちょっと恥ずかしい。彼女は至って静かに布団に入り、壁際に身を寄せる。 「……日暮」 「うん?」 「おやすみ」 「うん。おやすみ、さようなら。青空」 別れの言葉を耳に苦く笑った彼女が目を閉じる。 大丈夫だ、と思った。ここでなら、彼女はもうこれ以上彼女でないものにはならないはずだ。 2021年6月8日 ▲ ▼ [戻る] |