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見上げた空のパラドックス
dream2

 桜がなかなか咲かない。つぼみは付いているのだけど、ここしばらく寒い日が続いたせいか、花はうずうずと固まったままだ。
 ぼんやりと湖畔を歩く。甘い香りを含んだ風は今日も冷たい。春はきたけど、冬はいつ終わるんだろう。

「ハロー、ミスター。久しぶりなんだけど、もう覚えてないよね。わたしはアルマ。栫井忠の伴侶で、この世界の神さまです」
「……久しぶり。会った記憶はないけど、貴女のことは知ってる」
「うん。いろいろ面倒をかけてごめんね」

 出所してすぐ青空の見舞いを終えた俺に、神さまが開口一番謝罪をした。
 落ち着きのある佇まいの女性だった。浅黒い肌に大きなアクアグリーンの目はどこかエキゾチックだが、長い黒髪をラフに流し、デスクワーク用のメガネをかけた姿は親しみやすくもある。見覚えは残念ながらまったくないが、初めて会った気も当然しなかった。旧友だから。
 いや。もう少し厳密に言おう。
 ――俺の半身たる冰千年の、同位体。

「たくさん助けてもらったんだもの。割りは合わせるわ。何かあれば言って、なんでもするから」
「なんでもする、なんて、神様には言われたくない台詞だな」
「だって、ミスター、あなたの方が“上”だ」
「恐ろしいこと言うなよ」

 不定形の呼ばれ方。頑なに名前を呼ばれない理由には嫌な心当たりがあった。彼女は、海間日暮ではなくて、俺、に用があるというわけだ。
 そんな馬鹿げたことも自然に受け入れてしまえるほど、心に持ち物が減ったのだと、悟ってただ微笑む。
 青空はもういない。それなら俺は何になればいいのだろう。

「……、少し。腹を決める時間をくれ。もう海間日暮が必要ないなら、たぶん俺、お前たちといるのが正解なんだと思うけど。……今は少し苦しい」
「優しいなあ。大丈夫だよミスター。この世界だってそう広くも永くもないのだから、あなたが苦しんでまで犠牲になることはない」

 神はやんわりと俺を突き放した。そうかと思った。お前ももう俺の助けはいらない、それなら俺は、ああ、生まれて初めて自由なのだ。海間日暮がいのちごと抱いた願いすら、青空の死によって失せたのだから。
 幾多の世界の棄てられた断片を、膨大な塵の山を、抱えて、抱えて、いつしか抱える両腕までもが塵に侵され、腐食して、その身体までも塵の一部になった。
 何を願っていたんだっけ。

(……生きなきゃ)

 咲かない桜並木を遠目にして俯いていた。
 時が過ぎてゆくのだなあと、それだけ思っている。
 神や運命や世界を恨むには、今の俺はあまりにもそれらに近い。

「ただね……」
「ただ?」
「あなたが彼女よりも世界を選ぶ日が来るのなら、その時は我々もついていく」
「……」

 ほら、これだもの。
 俺は黙って苦笑を返した。好きにすればいい。どうせ世界の好きにされるためだけに、かろうじて形を保っている身だ。

「ねえミスター、思い出そう? 少し、普通の人間のことをさあ。誰も救わなくていい、みんなが役割なんて持たない、身勝手で無軌道で、だから楽しくて、美しい世界のことを」
「また無責任なことを」
「ロイヤが入学の手配をしてくれてるの。お姫様も一緒に」
「は」
「入学に合わせて退院させる手筈だよ。彼女も病室にいるよりはあなたといた方が、存在を保ちやすいからね。住まいも、一応。二人でいたいかなと思って」
「……」
「ごめんね、勝手に先回りして。出所後からだと準備が間に合わなかったの。嫌なら断ってくれたらいいから」
「感謝する」
「よかった」

 アルマは俺に真新しいスマホと家の鍵を渡すと、だいたいの情報とお金はその中だから、と言いつけて去っていった。俺は慣れない機器に苦戦しながら、自宅とされた物件へ足を運び、初めての帰宅をした。
 病院から歩いて数分のところに建つ分譲マンションの一室だった。簡素でゆったりとした1DK。家電は既に揃っているが家具の類はまだなくて、買い物に行かなきゃ、と思う。
 脳裏に青空のすがたがよぎった。真っ白に色の抜けた髪の隙間からのぞく明るい花色の目を想った。白の空間の中、圧倒的な秩序と静寂をもってたたずむその息遣いと無垢な笑みが、まだたった一度しか見ていないのにまぶたに焼き付いていた。病室にひとり、何も知らず微笑む彼女。その景色はあまりにも――正しかった。適切だった。合致していた。何と?
 引き離した方がいい気がする。
 白、から。彼女を。
 なぜだかそう思ったから、アルマの配慮は本当にありがたかった。
 適当に食事だけとり1日して、また見舞いに行って、青空の目覚めを待って。取り止めもない流れのまま、好きな色とか、デザインの好みとか、そういうのを聞き出した。それからすぐに家具を揃えた。意図して白を避けた。柔らかいウッドカラーの机と棚を購入した。少し迷って、ベッドはひとつにした。カーテン、テーブルクロス、食器類はカラフルなものを。うん、たぶんけっこう青空の好きそうなかわいい住まいができたと思う。
 そうしてまだ青空のいないまま淡く暮らして一週間、やっと桜が咲いた、いつもの病院で、俺は神学者を名乗る少年と出逢った。

「おれのことはジュンでいいよ、幽霊!」
「生きてるってば。隼。俺は海間日暮」
「知ってる、知ってる。あーあ、おまえが来てくれるなんてなー。身体、使える程度に取っといてよかったわー」

 澪に車椅子を押されながら隼が軽快に笑う。彼の病室はバルコニーの直近だった。スライド式のドアを開けてやると澪がありがとうと言った。車椅子患者用の病室は少し広い。隼はよたつきながらも自力でベッドへ移動し、切れた息を整える。

「……それで、どういうことなんだ」
「おれ、世界をさあ、あちこち飛び回って遊んでんだよ。んー、まあ、幽体離脱、ってやつ? だからおまえとも何度か会ったことあるんだ。別の器でだけど」
「そうなのか。ごめん。覚えてなくて」
「わかってるって。いつも覚えてないもんな。探求者どもに選ばれてからのおまえは。同情するぜ、不死だからってバグを押し付けてもいいと思われてるんだから。壊れないわけじゃないのにな」
「……」
「はは! 何かわかんないことあったら聞きにきなよ。少しはいい相談ができると思うぜ」

 用件はそれだけ! おやすみ! と言って彼はシーツに身を沈めた。体力にそぐわない語りをしたからか顔色が悪く、確かに誰が見てももう寝た方が良さそうだった。傍らで澪がやれやれと息をつく。行こっか、と声がかかったから、慌ただしくもまたドアを開ける。

「ごめんね日暮くん、隼、変な子だけど、悪い子じゃない……と思うんだけどね」

 廊下に出てから、小さな声で澪が切り出す。

「澪さんは、彼の言うことは」
「あんまりわかってないな。あの子が眠っている間のことは、ほとんど話したことないの。ていうか、ぜんぜん目覚めて……帰ってきてくれないしね。一週間くらい前にね、一ヶ月ぶりに目を覚まして。最近はずっとリハビリで忙しかったんだけど、今日になって、近くに友だちが来てるから、会ってみたいって言い出して」
「その友だちっていうのが、俺だったと」
「日暮くんのことはね。前から知ってたの」
「え?」
「あたし、――、兄がいるんだけど。5年前にね、兄がきみと一度会ってて。……警戒しろって言われてた」

 警戒。
 5年前。
 今の俺はもう刑期よりも前のことはほとんど覚えていない。5年前に大きな事件とひと悶着があったという知識はあるけど、そこで俺が実際に何を感じていたのかはすっかり朧げで。実感がまだ伴うのは、雪景色と、ノート、青空に借り受けたリボンのことだけだ。
 やりにくくて口をつぐんだ。
 こつん、こつん、二人分の足音が清潔な廊下に響く。面会時間も終わりだ、もう帰らなくてはならない。
 押し黙っていると、澪は真っ白な虹彩に影を落として苦笑する。

「かすんで、とけて、バラバラで、だけどかろうじてまとまってそこにいる、そういう子を見かけたら、深く“ひらいて”はいけないよって」
「えっと……?」
「見えるんだよね。あたし、境界線。消したり引いたりもできるの。やらないけど……。きみってさ、なんかすごいよね。いるのかいないのかわかんない。線が、ぐちゃぐちゃで、たくさんあるのに、ないんだ。ほんとは幽霊だったりする?」

 真っ直ぐに向けられた視線に、思わずこちらが目を逸らす。
 俺、そんなに人ならざるものに見えるかな。嫌というか気恥ずかしいというか、丸見えというのはあまりいい気分ではなかった。そりゃあ気味が悪いだろう、だってこれは、もう滅んだ世界の記憶で建てられた壊れかけの塔だ。

「これでも生きた人間のつもりですよ」
「ま、警戒しろって言われてるんだからそんなじろじろ見ないけどさあ。隼が友だちだって言うなら、まったく関わんないわけにもいかないから」

 病院のエントランスをくぐった。寒風が吹き付け、思わず自らの肩を抱く。澪も、さむ、と一言呟いて鞄からカーディガンを取り出している。

「あの、隼と澪さんは、どういう?」
「親戚。あの子、勝手に遊びまわって自分の身体の面倒みないもんだから、家族からも見捨てられちゃって。あたしが面倒みてるの。って言っても、ほとんど病院任せだけど」
「そうなんですね」
「こんなに長くあの子がこの世界に留まってくれるの、なかなかないよ。これって、日暮くんがいるからなんだよね。……ありがとう」

 彼女は薄いグレーのカーディガンの裾を直しながら言って笑った。
 ああ、隼のこと、心底大切に思っているのだなと、俺はそれだけ察して軽く会釈をした。

「じゃあ、あたしバスだから」
「ええ、また」

 今日も数分だけの帰路につく。湖畔の町の夕刻、風に花が薫っている。
 花の散るくらいになったらこの道を青空と歩けるだろうか、と考えて並木を見ていた。俺たちみたいな異端でも、通りを行き交う人びとのありふれた一部みたいに、なれるだろうか。


2021年6月6日

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