見上げた空のパラドックス
truth1
「――起きた? フュー」
瞼を開く。
白の静寂の中にいる。
「おはよう。きみの名前はフューレ。ぼくの大切な友達だよ。ぼくのことは、わかる?」
「……ルーモ」
「ふふ。よかった」
こめかみをいくつも水滴が流れていく。
穏和な笑みを浮かべたきみの温かな指がそれを拭ったから、なおさら何かが苦しくなって涙が溢れた。淡い若草色のきみの目が少しだけたじろいで、困ったように細まる。そのすべてがたまらなく美しかった。
「悲しい夢でも見た?」
「……、」
夢。
夢なんて見ただろうか。
そもそも私は眠っていたのか。どれくらい?
わからないことが多すぎて考える気にもならない。ただ白く病室の蛍光灯が私たちを照らしていた。これまでに何があってなぜ病室にいるのか、なぜ私は泣いているのか、なぜきみがそうも優しくしてくれるのか、何もかも知らないままでいた。
私は。
「ごめんね……なにも、わからなくて」
「いいんだよ」
あっけなく許しを吐いた唇が綻ぶ。
「きみはね、ちょっと病気で、いろんなことが思い出せないみたいなんだ。でも、ほら、ぼくのことは覚えてくれている。すごくうれしいよ。だから大丈夫」
そんな言葉できみが笑うから、本当に大丈夫なような気がして涙が引っ込んだ。私が落ち着くまで髪を撫でていてくれたきみは、濡れた指でふと窓を開け放つ。暖かくて強い、春の風が舞い込んで香った。窓辺に置かれた花が揺れる。まぶしい純白の。
静寂に春風が色づく。世界がまだ生きていると気づく。淡い金の髪を風に揺らしたきみが振り向く。ああでもやっぱりずいぶん色が抜けたね。私の知っているきみの髪はもっと豊かで鮮やかなキャラメルブロンドだった。
きみのことなら、ちゃんと覚えてる。
「今日はあったかいよ。すっかり冬も終わりだ」
「お花、咲いてるかな」
「うん、咲き出してる。見に行こうか、一緒に」
「いいの?」
「もちろん。でもその前に何か食べないと。ごはん作ってくるから待ってて」
「……」
「ふっ。あはは、そんな顔しないでくれよ。ちゃんと戻ってくるから」
変声期を過ぎてもやわらかさの消えない少年のような声が明るく響く。風はびょおと吹くけれど病室は静かで、扉の外にさえ誰の気配もない。
この世界はふたりだけだから、きみさえ笑っていてくれたらぜんぶが幸せだった。
「ぼくはずっときみの隣にいる」
温度の低い私の手に、甘い言葉を吐いた唇がそっと押し当てられた。照れもしないで行ってくると告げたきみが傍らの椅子からカーディガンを引っ掴んで病室を出る。開いたままの窓からは絶えず春の香りがしていた。
胸がずきずきと痛んだ。
幸福な痛みに俯いてきみを待つ。思い出さなくたって今ここに恋があるなら、彼の言う通り大丈夫なのかもしれないと思う。そんなわけがないな、とも、同時に。
長い髪が俯く手元に溜まっていく。死んだように温度のない、死体を燃やした残骸のように輝きのない、淡い白をした。
私の色はなんだったっけ? わからないけれど少なくともこんなに白くはなかったのではないか。
緩やかに考える。
窓外の青がまだ鮮やかでよかった。でも。
世界が終わっていく。
「白、ぼくは好きだよ」
果実を籠に抱えて戻ってきたきみに私の昔の色を問うと、きみは目をぱちくりとして、「きみはもともとホワイトブロンドだよ」と答えた。
「いつかお揃いになるだろうか」
「笑えない冗談やめて」
「ごめん」
色彩の消失。
その進行は、おおむね、意味の消失の後、存在の消失の前、くらいの段階で起きる滅亡現象だ。
と、きみが前に教えてくれた。
「でも、ぼく、このくらいでも似合うだろう?」
「何、その自信」
「きみが前にそう言ってくれたんだよ。だから自慢」
「そっか」
「消えないよ。ぼくは。フューより先には」
果実をもぐもぐと咀嚼しながらそんなことを言うからつい目を見るが、読み取れる感情はない。
私は大人しく弱り細った手でスプーンを握り、やわらかく調理された食事を口元に運んだ。確かに、医者もいないこんな時代で病室にいる私の方が、遥かに早く死にそうな気はした。
「それじゃあルーモ、寂しくない?」
「寂しいよ」
「……」
「だから後悔だけはしないようにしているつもりだ。ぼくがフューにできることはぜんぶやるし、言いたいことは言う」
「言いたいことって?」
疲れてしまってスプーンを置いた。見かねたきみが食べさせようとしてくれたけれど首を横に振る。ちょっと休む、と言うときみはそっかと答えて手を引っ込める。笑顔が消えていたから焦燥に駆られた。
大丈夫だなんてきみのようには言えなかった。何がどう危ないのかすらわからない私に、安全を説く余地などあるはずもない。
どこまでも、無知。
「愛してる、かな」
「……知ってる」
「ほんとにぼくのことは知ってくれてるね、フュー」
笑顔が戻ってくる。まぶしいなと思う。肌にやさしい温度の春が吹き抜ける。甘く命のにおいがする。
そのみどりの目ばかり見ていた。やわらかいのに視線は強くて、胸のいちばん奥まで届く。
「私が、ルーモのこと、忘れちゃったらどうする?」
「変わらない。何を忘れても、きみはきみだ」
何を忘れても私はきみが好きだろう。
そう、鼓動が云った。
すぐに息が切れて、身体が重くなる。恋にだって体力が要るのだから困ったものだった。そうか私はこのまま弱って恋すらできなくなっていくのだ。そんなことをふと悟って、ただきみを見る。目にうつす。最後まできみを観測する。そこにいるきみのすべてを繋ぎ止める。
彼の手が私を支える。嘘みたいに安堵するのに、身体はずっしりと重くなったままみるみる冷えていく。耐えがたく意識が揺らぐ。
「もう眠る? 食事、とれないかな」
「……ごめん、ね」
「悲しまないで」
「私の台詞」
「フュー」
「大丈夫……ルーモ。私も、」
私もずっときみの隣にいる。
ああ、違うな。いるのは無理だ。だからこれは夢なのだ。願望と書いて夢と読む方の。
私はずっときみの隣にいたい。
きみを観測したい。
世界が終わらないように。明日が来るように。春風を吸って吐いて、咲いた花に笑むことができるように。ただ生きるために。きみという私の観測者が壊れないように。
「おやすみ、さようなら、フュー」
「……また、ね。ルーモ」
明日は花を見に行こうね。
約束なんて忘れてしまうかもしれないけれど――
2021年2月28日
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