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見上げた空のパラドックス
dream1
 
 一人になってふと気がつくと涙が滲んでいる。そんなことが多くなっていた。
 悲しいのだろうか。我ながらわからない。悲しいのだとしたら、瞼の裏に棲むうちのいったい誰が。それを考えるには遅すぎたのかもしれなかった。
 あと少しで世界は終わる。



 病室は今日も目が眩むほどに白い。陽が差し込むか、蛍光灯か、どれにせよ変わりない色彩が、此処だけ切り離して移ろわないことを確かめている。
 スライド式のドアは開閉音がしない。風だけが吹いたから、窓が開いているのだ、と気づく。
 今日は起きているらしい。

「おはよう。調子よさそうだな」
「おはよう。今日はあったかいね」
「うん。もう春だから」

 彼女は窓外からこちらに視線を移し微笑んだ。
 窓辺に置いた花が朝陽を吸ってまぶしい。

「何か食べた?」
「ううん」
「じゃあ、何か調達してこようか。手ぶらで来ちゃったし。起きてると思わなくて」
「ありがとう」
「行ってくる」

 ベッドに腰掛ける彼女の手を取って、甲に口付け、離し、きびすを返す。いってらっしゃい、と、一点の曇りもない澄んで朗らかな声に片手を振った。
 白の静寂がほどける。

(……、)

 初めて息ができたような心地になって朝方の病棟を抜けた。清潔なシャツの皺を伸ばしてナースステーションに会釈をする。エレベータに乗り込む。奥の鏡から茜の目が俺を見返した。
 確認する。俺は海間日暮だ。
 俺がここへ通うようになって一週間といったところだった。水底で彼女を見つけてからは五年になる。間は、俺は刑務所で過ごしていたし、彼女は病室で過ごしていたらしい。特段、病気があったわけではない。ただ、彼女はもう、滅多に目覚めないから。目覚めたところで認知も記憶も曖昧で、あまり話もできないですぐにまた眠ってしまうとのことだった。
 そのくせ俺のことだけ覚えている。
 理由なんて、わからないが。

「なあ。今、死にたい?」

 再会して最初、そう問うたとき、彼女はまばたきひとつ、まっさらに首を傾げて「どうして?」と言った。

「……じゃあ、生きたいか?」
「そんなこと、考えたこともないよ」

 だから今のところは様子を見ている。
 死にたいと言って泣いた、いつか死ねると言って笑った、生きてもいいと歌ってこの世を去ろうとした彼女は、青空は、もうどこにもいない。
 今の彼女は空っぽだった。

 売店で食糧を見繕いがてら、少しだけ外に出る。
 病院にずっといると白さに同調してふらふらしてくるのだ。少し前まで何もかもグレー一色の懲役生活をして全然平気だったのに、今はどうしてか周りに色がないと落ち着かなくなっている。
 空を仰ぐ。春霞にやわらかく染まったパステルカラーの雲が浮いている。安堵する。
 不安で仕方がなかった。
 あるいはとっくに、緩慢に、決定的に理解していた。
 青空は戻ってこない。
 判断に足る材料は明白だ。
 ――髪が伸びていた。
 ――色の抜けた、真っ白な髪が。

「時効だ」

 存在の融解が始まっている。
 止められるわけもないし、止める理由もない。エラーは消去される。今まで保っていたのが奇跡だったのだ。
 青空は、ちょっとスケールは肥大したが、当たり前に生きて死んだ。そう思えばなんのことはない。
 俺もそうする。
 それしかない。
 それはわかっている。わかっているからこそ。

「……どうして」

 俺だけがまだ願われて、青空はもう見放されつつある。
 どうして。どうして。
 白を目にするたびに問う。問うことをやめる日はない。
 だから病室に長くはいたくないのだ。思い詰めてしまうから。
 ビニール袋をガサガサ鳴らして湖畔に立つ。病院はあの湖のほとりに建っていた。春の湖面には傍らで散りかけた桜の花びらがしんとして泳いでいる。もう覚えていないけど、六年くらい前には俺がそこに浮いていたらしい。その頃にはまだここに病院が建ってはいなかった。
 時間が経って、何もかもが変わった、なんて普通の人には当たり前なのだろう。
 俺だけはまだ変わっていない。
 まだ。
 何とも言えない心地でいたずらに石を掴んだ。水平に放るとぱたぱたと水をはねて、少し先で沈む。水は春霞を映して薄いみどりをして、深く黒に溶けて揺らいだ。
 色がある。この世界はまだもう少し安全そうだった。

「うまいね」

 背後から声がかかって振り向く。
 驚いた。気配がなかった。
 清流のような澄んだ声だったから青空とも聴きまごう。

「え、っと、うまいですか」
「でもあたしのほうがうまいよ」
「水切り?」
「うん。あのね。こうやって」

 黒い服を着た女性だった。下された長い髪が鮮やかな水色をしていて目を引く。完全に初対面だ。ほっそりとした指が適当な石を拾い上げ、湖面に投じると、先ほど俺が投げたものよりずっと先まで跳ねていく。

「おお、すごい」
「でしょ」

 彼女がこちらに笑顔を向ける。その虹彩が真っ白だったことにいちばん驚いたが、失礼なので顔には出さない。
 色素異常。確実でもないが、強力な異能者である可能性は高い。

「きみ、海間日暮くんだよね」
「……どこから知りました?」
「やだなあ、スルッと警戒しないで。こわい。きみの友だちから聞いたの。えっと、このあと時間ある?」
「友だち……ですか。でも、すみません、いま待たせてる人がいて」
「お見舞いでしょ? あたしもだから。きみんとこのお見舞いが終わったらさ、3階のいちばん南の病室に来て。気が向いたらでいいから」

 じゃあと言って彼女がスカートをひるがえした。春の風は強くて水色の髪が長く尾を引いた。全体的に清流のような人。

「あ、待って、お名前」
「そうだった。あたしは二門澪。またね、日暮くん」

 フタカドミオ、と名乗ったその人が院内に消えてから、ゆるりと俺も病室に戻ることにした。青空が待っている。いや、待ってくれているだろうか。また眠っていたりすると今日の見舞いは早々に終いとなるが。
 白の静寂に飛び込むと、幸い彼女はまだベッドに身を起こして窓外を眺めていた。おかえり、と明るい声がする。まだ青い目がにこやかに細まる。所作ばかりはいつも魅入るほど美しかった。ここにいる彼女には、静寂を決して侵さない節度がある。

「ただいま。ゼリーで良かったか?」
「うん、ありがとう」

 売店で購入したゼリーを机にのせ、傍らに腰掛けて俺も自分用のパンを開ける。彼女は従順にプラスチックスプーンの包装を開けて、うすい桃色のそれを口元に運ぶ。

「……今日は、どこまで覚えてる?」
「んー?」
「貴女の名前は?」
「高瀬青空。ってタグに書いてあるからわかるよ」
「わかんない日もあるんだよたまに。じゃあ、俺は誰だと思う?」
「日暮」
「……で?」
「私のことが好きな人」
「おーい。恋人くらいは言ってくれよ」
「そうなの?」
「違うけど」

 互いにゆったりと軽食をとって、ゆったりと言葉を交わした。どうせ何か思い出させても一日後には忘れられて意味をなさないので、無理にいろいろ説明したりはしない。それでも毎回かならず名前だけは必要があれば教えることにしていた。名前があれば彼女は彼女でないものにはならないはずだからだ。

「病状の自覚はあるか? 青空」
「記憶はだいぶないね。でも記憶喪失で入院なんてしないでしょう? 私どうしてここにいるんだろ」
「貴女は今のところ日に数時間しか起きてないんだ。それと体温低下がある」
「そっか」
「記憶は、眠るたびになくなるみたいだ」
「日暮のことはわかるよ」
「うん」

 何度目かの問いを重ねながら安いパンを咀嚼した。
 彼女は俺や自らが不死であることすら知らないから治療を受けることには疑問を持たない。かと言って生者の自覚も薄いようだが。

「それじゃあ、日暮、辛くない?」
「うーん、昔から青空には忘れられてるのが常だからな。むしろ名前だけでも覚えてもらってて最近は毎日びっくりだよ」
「私もともと忘れっぽいんだね」
「かなりな。それに俺、青空に毎日会えるなんて最近が初めてなんだ。実はちょっとうれしいよ」
「明日には忘れちゃうのに?」
「いいよ別に、約束もしてないんだし」

 ――約束していない、は嘘だ。
 リボンはまだ俺の手にある。いつか返して。あの約束はまだ凍っている。今の彼女に返すべきなのか、まだ決めかねている。
 青空がゼリーカップをを空にするころ俺もパンを食べ終えて、ごみを片付ける。

「おいしかった」
「うん」
「甘いもの、好きかも」
「知ってるよ」

 彼女はそう積極的に過去を聞くことはしない。また忘れると割り切っているのか、忘れた過去の事柄になど意味を感じていないのか。話題はいつも現在のことに留まっている。だから物腰はずっとあっさりとして淡白だった。そして明朗として、何もないのに幸せそうに笑う。

「日暮はどんなものが好き?」
「食べ物はまあなんでも。けっこう料理するし」
「そうなんだ」
「今度なにか作ってこようか」
「いいね、喜ぶと思う、私」

 他人行儀な。
 笑顔はさらさらとしていた。
 それから彼女は一人、シャワーを浴びに出て、帰ってきて、疲れたと言って眠った。枕に広がる薄い色の髪から薬用シャンプーの香りがした。その肌はまだ健康的で、筋力もそう衰えてはいないが、彼女の眠気はどうも身体の疲労と関係が薄いようで、急速にその意識を攫っていく――体温の低下を伴って。

「おやすみ、さようなら、青空」
「……また、ね。日暮」

 彼女は入院してこの方、記録の上では能力を使っていない。だが、症状の一部は代償疲労と云われるものに酷似していた。
 病気ではないのだ。システムエラーであって。
 死んだように冷たくなった手を握り、祈って温みを戻して、俺は病室を立ち去る。廊下に出るといつも急に夢から醒めたような心地になる。現実に戻る。思い出す。そういえば見舞いが終わったら3階の南の病室に来いと言われていたのだったか。
 言われた通りにやってくると病室の並んだ先に開けたテラスがあって湖を展望できた。春の湖面は遠く臨んでも鮮やかで静かだ。
 そこに車椅子がひとつ停まっていた。押し手は澪だった。

「あ、来てくれた。日暮くん」
「お? おー! まわしてまわして!」

 幼い少年の声が耳を打つ。少し遅れて車椅子がこちらに回った。薄い入院着にパーカーを羽織った、髪の短い少年が声の主らしい。その双眸もまた蛍光灯より白かった。会った覚えはとりあえずない。

「――よう、幽霊! 久しぶり!」
「……どなたさま? 幽霊じゃないんだけど」
「はは、相変わらずじゃん。忘れちゃったか〜? 特諜一課の幽霊って呼ばれてたんだぜ、おまえ。他にも何回か会ってんだけどな、まあおまえはこのおれとは初めましてだろう。なんせこのおれは目覚めたばかりなんだよ」

 ぺらぺらと喋って、息を切らして、少年は少し黙った。春の嵐に車椅子がカタカタと鳴った。

「……おれは村塚隼。の本体だ。たぶんおれが全世界でいちばん進んでる神学者だぜ! 故郷に来てもらえるなんて光栄だよ、救世主!」


2020年11月11日 2021年2月26日

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