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見上げた空のパラドックス
クリスマス 忠+アルマ

「メリークリスマス」

 彼女はそう言って笑顔を見せた。
 今日って何日だったっけ、そう問われたから十二月の二十四日だと答えた、夕食時のことだった。いつもと変わらぬ簡素な食事を虫にとられる前にと気を張ってかきこむ間も、夏虫の声が止まずに聴こえている。そうかと思う。僕にとってのクリスマスは冬の印象が強すぎたから思い至らなかった。たしかに日付を見れば今日は聖夜なのだ。

「……ハッピーホリデー」僕は静かに食器を置いて彼女の目を見た。「さすがに知ってたか。クリスマス」
「毎年さわがしくなるから。挨拶だけはね」
「なるほど……じゃあ、今日はその話だな」

 食べ終えたらすぐに食器類を洗い乾かしておく。もっと動けたら僕もやるが、やはり体調がまだ芳しくなく、日暮も準備にだけ手伝いに現れ食事を始めるころにどこかへ行ったから、すべての作業を彼女に任せた。僕は薄い敷物に横たわって動き回る彼女に向かい言葉を紡ぐ。
 僕もそう詳しい話ではなかった。だいたい僕自身がクリスマスをまともに満喫した記憶がない。チキンを食べたり女性と過ごしたりはしたが、形だけの話で、本質を意識したことがない。だから聞きかじった知識を繋ぎあわせるだけになる。

「キリストの誕生日だと言われてる。違うって説もあるが。とにかく彼のための祭礼の日だ」
「キリストって?」
「ある人は信じていて、ある人は信じていない存在だから、真に受けるかどうかは慎重にならなくちゃいけない。僕はファンタジーと思っている話だが」

 キリストは人類を罪から救うために産み出された神の子で、人の罪をすべて肩代わりして罰を受け死ぬことで、他のあまねく者に赦しをもたらした。存在の概要と、それから逸話はいろいろありすぎて話しきれるものでもないが好きなものをかいつまんでおく。彼女は澄んだ興味の目でそれを聞いた。
 話し込むうちに日が沈んだ。灯りを無駄にはできないから、暗がりに佇むままで対話をおこなう。

「彼は苦しんで死んだんだ。果たしたくて果たした使命でもなかったのかもな、精神的にも相当まいったらしい。それはそうだ、苦しまなきゃ罰を受けたとは言えないからね……彼が人類の罪を負って死んだとき――世界は昼間なのにしばらく真っ暗になったって逸話がある。そして光を取り戻したとき、人々に天国への道が開けた」
「そう」彼女は壁際に手探りで鍋を据えながらつぶやくように答えた。納得したような、どこか達観したような穏やかさを秘めていた。「きっとよっぽど悲しいことがあったのね」
「それはどういう意味で?」
「神様。子どもを代わりに痛め付けないと何も赦せなかったなんて。昼を暗くするほどその死を悼むくせにね」

 人によっては聞いて怒り出す失言だろうが、あいにく信仰のない僕にはそうする理由がない。黙って彼女の影を見上げ考えている。彼女に聖書を読ませたところで、真っ先に共感を示すのが民でも救主でもなく神だということが、驚くまでもなく腑に落ちた。それは少々異質だがたぶん当然のことで。彼女らはいつかかならず世界をその胸に抱くのだろうから。
 彼女は短い作業を終わらせて床につく。ところがすぐまた起き出して、飛んでいた虫を外へ放ってやった。乾いた熱帯夜だった。

「そんな父でも、救いたかったのかな」

 屋根代わりの布一枚をめくると眩しいほどの星明かりが彼女のかたちを示した。ほどかれた赤い髪が夜風になびいていた。

「どうだろうな。そんなこと彼に考える余裕があったのか、微妙に思うが」
「うん。似たような人を、わたし知ってる」
「似たような人?」
「あなただよ」
「どうしてそう思う」
「だってあなたが救いたいのはわたしだから」

 言い切った。彼女の声には迷いどころか余計な自信も含まれず、ただ当然のことを言葉にしただけだというように。
 僕は押し黙ってしまった。まともに受け取って考えていた。そうなのだろうかと。僕は彼女を救いたいだろうか。そもそも救うってなんだ。少なくとも僕にこの歪な原状をどうこうするつもりは一切ない。それこそなにも考えずにただ言われたことをやっているはずだ。
 それに、もしも僕がキリストで君が父だと言うのなら、アルマ、君は。

「……今の話だと、君が実はわがままでどうしようもない存在で、俺は君にとんでもなく振り回されるってことになる」
「そうじゃないの? 実際」
「いや、おかしい。ごめん、こんな話がしたいわけじゃないな」
「あはは。確かに。ごめんなさい、意地悪なことを言ったよね」

 彼女は押し殺したように笑って星明かりを閉ざし、また身体を横たえた、気配がした。ああもう眠る時間だ、そう思うとふいに耳慣れた森のざわめきが熱に浮かされた脳に溶けて滲む。眠気が首をもたげてくる。少しばかり話しすぎたようだ。

「早く元気になってね。Sweet dream, my son」
「……Good night, Father」

 冗談半分の挨拶を交わしてまぶたを閉じる。疲弊した意識はたちまち深層へ引き込まれた――間際、また彼女の声が耳を掠めた気がしたが、なにも聞き取れはしなかった。

「あいしてるよ。ロイヤ」


2019年12月25日

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