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見上げた空のパラドックス
実験アルファ 晶×青空

 久本晶は考えていた。

「おまえ、やはり心臓はすぐに止まるな……」

 窓の塞がれた六畳の一室。殺風景なそこにあるものと言えば隅に転がった毛布、それだけだ。その部屋の壁際で、晶は武骨な戦闘用ナイフを見つめていた。正確に言うと、少女の胸に突き立てられたそれの柄の部分を。
 高瀬青空はナイフを生やしながら床に伏せ、不規則に呼吸を繰り返していた。死にはしないし痛みもないが、被虐には生理的な不快感を伴うのだと同じ口が以前に言っていた。彼女の言葉は嘘偽りなく、そのこめかみに冷や汗が伝っている。濁った青の目が晶を見上げる。責めるような目だ、と晶はおぼろげに思うが、意に介するほどのことでもないのだった。のんびりと口を開く。

「意識はあるか」
「……はい」
「一昨日の日付は」
「八月八日」
「OK。自分の心臓が動いていないの、わかるか」
「はい」
「その状態で何時まで耐えられる?」
「……たぶんずっと。……大丈夫です」
「変化があれば小さなことでも教えろ」

 青空は最低限の言葉を息と共に吐いた。握られた拳は真っ白だが、言葉ににじむ理性の色もまた確かだった。晶は彼女から一歩離れると手持ち無沙汰にメモを取る。
 八月九日午前。検体の心停止を確認。意識は明瞭。
 タイマーを千八百秒に設定し、彼女のいる対角線上に腰を降ろす。室内ではもっとも遠い距離感、そこが彼の彼女を観察する際の定位置である。万一、彼女が発作を起こせば、……対処できる可能性はそもそも低いのだが、少しでもリスクは減らしておきたいがためだった。
 時計の存在しないこの部屋ではおのおの体感のみが推移する。高瀬青空の様子は晶から見て非常にわかりやすかった。最初の頃はいかにも気分が悪いといったようにもがいていたのが、やがてぴくりとも動かなくなり、こちらを見ていた目が興味を失ったように焦点を拡散する。晶は定期的に彼女に声をかける。理性がどこまではっきりしているか。
 結論から言って、心停止状態の彼女は多少の不調があるにしてもほぼ平静である。
 タイマーが控えめに声をあげると、ぼんやりしていた彼女がはっと晶を振り向いた。

「あ、の」
「変化はなかった?」
「はい」
「……体温も下がってないな」

 晶はペン先を紙面に滑らせる。30分経過、変化なし。推察。心停止しても血液循環自体は何事もなく行われている。――しばらく自らの綴った文字を眺め思案すると、メモ帳をポケットに突っ込み、同じ場所から二本目のナイフを取りだす。

「無理そうだったら教えろ。やめるから」

 それだけ告げて、切っ先を少女の喉元に降り下ろした。その奥からひゅ、と空気の通る音がして、それきり音を失う。

「話せるか? ……わかった。耐えられなければ床を叩いてくれ。意識が朦朧としてきても教えろ。いいな? よし」

 六百秒。晶は最初の一分ほどは彼女の隣にいた。彼女にとってこれが先程と比にならない苦痛であり、よって自らの身の危険が増していることもわかっていた。だからこその安全確認のためだった。
 心肺停止を確認、とメモに付け足して、彼女から離れる。
 変化はすぐに訪れた。彼女の始終強く握られていた手が弛み、生理的な涙が頬を流れ落ちる。晶は黙って警戒を強めるが、それ以降はなんの変化もなくタイマーが鳴いた。彼女の目が震えながらゆっくりと晶をとらえる。
 ペンを握り直す。10分経過、苦痛は増したようだが、意識明瞭。
 晶はおもむろに青空の喉元に突き刺さったナイフを引き抜く。軽く咳き込んで、何かが決壊したかのように彼女はぼろぼろと涙を落とした。

「思考は可能か」
「っ、……はい」

 晶は表面上は顔色を変えず、しかし内心は行き詰まりに眉をひそめて文言を付け足した。――やはり呼吸が止まっても酸素は巡っている。

「おかしい……」

 つい呟くと、青空は片手間に涙を拭いながら、

「ええと、何が……?」
「おまえ、これと、これの感覚は同じなんだよな」

 これ、と言う度に少女の体内に金属の刃が侵入した。腹部と、右肩の付け根。三本の凶器を突き立てられた青空は、床に磔にでもなったかのように仰向けて濁った目をするばかりだ。うめくように唇を動かし、彼女は静かに訴える。

「量で、増幅はっ……するんですから、ね……っ?」
「それはいい。普通だ。妙なのは……呼吸機能の停止だけなんだ。おまえがエラーの蓄積以外の理由で苦しむのは」

 磔になった彼女からナイフを抜き取りながら、ぽつりぽつりと晶が語った。青空はそのポケットに収まったちいさなメモ帳を恨めしく睨み、ようやくの解放に息をついた。その吐き出された空気の塊を、あるいは吐き出した気管支や肺胞のひとつひとつを見極めるように晶が視線を当てていた。

「身体機能の辻褄はぜんぶでたらめだ。おまえの血液循環はどう塞き止めても止まらない。あるいは、そもそも血が通っていないのか。……そういうでたらめさは、呼吸器にも例外なくある。変わらない、はずだ。だが、おまえは、息ができないと苦しんで泣く。ひとつだけ正常ということだ。……心当たりは?」
「わかりません。ただ、……世界から追い出されるときにも、息ができなくなりますね。同一人物に会ったとき」

 彼女の言葉をそのまま書き取って、晶はナイフを仕舞い直す。銀の刃には曇りひとつなく、彼の暗くよどんだ青を映してきらめいた。
 彼にとって、不死はきわめて面白い研究対象に違いなかった。だから思う――素材が足りない。曖昧な仮説を立てては行き詰まりの繰り返しだ。
 心持ちだるそうにメモ帳を閉じて、晶は青空と向き直った。

「これは仮説だ。……いや、妄想の域を出ない」
「聞かせてください」
「生前、おまえが不死になる前、おまえにとって最も身近な不調が、呼吸困難だった」

 青空は開きかけた口を閉じて追憶した。昔のことはだいぶ薄れているのだが、はたして彼の言うことは正しいだろうか。……そうかもしれない。決して近くない墓地と家と学校の間を、過呼吸寸前まで走り詰める生活をしていた、ような。走るという行為は魔性だった。なにも考えなくて済む、それだけがその頃の青空にとって救いだったのだから。
 おかげで戦闘訓練にぎりぎりの最低水準でついていける体力を手にしたのだから、いま思えばあの生活は必要だったが。当時は毎日が地獄だった。好んで自らを痛め付けている自覚はあって、それがどこか吐き気がするほど嫌だった。
 追憶に沈む青空をよそに、晶はぺらぺらと言葉を続ける。

「代償疲労と同じ理屈だ。あれには体温低下って共通項もあるが……稀に、自分の代償が痛みだ、とか、強い吐き気だ、とか言う人がいる。何が症状に出るかは、当人にとって身近な不調はなにか、に依存している。かもしれない。……大抵の人間にとって最も身近な不調は疲労感だろうから、代償疲労と呼ばれるわけだが」

 そのかつてない饒舌さに驚き気圧され、追憶をやめた青空が、ふっと呆れたように表情をゆるませる。なんて、ひどく些細な偶然の産物だが、青空には晶がまた自分を救ったかのように思えてしまう。

「あなたって……説明の時だけ、やけに喋りますね」
「変か?」
「いえ……」

 ゆるやかに首を振った青空の目元にもう涙はなかった。

「たぶん、そうかも。息苦しさは、かなり身近だったかも」
「曖昧だな」
「だって……もう昔のことはあんまり覚えていなくて」

 ぼんやりとした言葉が晶の耳元で霧散する。彼は、その結論にそろそろ辟易しつつある。覚えていないからわからない。そんな曖昧な言い分への苛立ちがなかったとは、言えない。
 晶は一度部屋を出ると、廊下じゅうに張り巡らされた薬品棚の一角から薬を抜き出して戻る。その手元を目にした青空が、観念したように目を閉じた。

「お手柔らかにお願いします」
「それはこっちの台詞だ。とち狂って殺すなよ、私を」
「とち狂ったらあなたのせいですけど。……善処します」

 湿った布を口許に、青空は大きく息を吸い込んだ。

「思い出せたら――私の知らないことを教えてくれよ」


2018年8月15日

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