見上げた空のパラドックス
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「青空!」

 届かなかった。
 嫌な汗が吹き出して、冷たくて、呼吸ばかりしづらくなる。簡単に視界がにじんでしまうから、生きているのだ、と率直に感じる。俺ばかりが生きている。彼女がそこにいただけで、名にすがらなくたって俺は俺のまま生きていけた。贅沢な話だ。
 どうして俺ばかりこんなに幸せになるんだ。

 公園から帰路を急ぐ子どもたちに青い目の少女を見なかったかと問うと、ついさっきばいばいしたよと帰ってきたから足を急かした。二月の夕は凍えそうなのに身体はどくどくと熱をもって張りつめていた。広場の向こう、さびついたフェンスに歪みがあった。水面へ続く足跡が新しかった。彼女の姿はどこにもなかった。波紋に薄氷がゆうゆうと泳いで夜のいろを吸っていた。
 一秒だって迷うものか。汗も拭わず飛び込むと途端に心臓が動きを止める。普通なら死ぬということだが俺には関係ない、構うものか。透いて藍を溜める水底に気泡を吐いて這いつくばった。生きたいと叫んだあの夢が脳裏にまたたく。予知夢、示唆だったとでも? 趣味が悪いな。
 もう夜がくる。
 光をまとって水底を駆ける。岩を水草を掴んで引いて蹴って必死でさがしている。見つかるのか。彼女が痕跡なんか残すのか。わからない。探すしかない。目尻が熱い。涙が止まっていない。
 かつてないほど、自分で驚くほど、俺はいまとても浮かれて、高揚して、絶望して、怒っている。
 なんなんだよ。
 なんで。
 託したくせに!
 お前だって託したくせに。他のすべてと同じように。だったら最後まで俺を救世主にしてみろ。それでよかったんじゃないのか。俺はそれでもよかったよ。青空が生きたいと思ってくれたのならそれだけでよかった。
 なぜ否定する?
 生きたいと、思ったことを。
 それともやっぱり俺では力不足だったか? 生きてもいいと信じるには足りなかったか。はなから他人だもんな、そんなのわかってる、でも、だったら託すなって。
 思考が空回る。
 旅路が空回っている。
 消えてほしいすべて、消えてほしくないすべてのことを、俺に託して自分は忘れてしまえば、軽くなった息で少しだけ笑っていられた、その一瞬を抱えて最後を迎えた、景色だけ美しければそれでよかった。いのちを懸けて生きたがった後になって彼らはかならず笑って、未来を目指したはずだ。
 青空が例に漏れなかったのなら。どうやら俺の積み重ねたらしい救済と呼ばれた旅が、青空の希死を解かすところまで届いたのなら。
 なにもかも恨めるものか。愛してるぜ神様がた。聞いてるか。
 いいや、だから、じゃあなんで死ぬんだよ。幾星霜かけてやっとようやく青空のいのちに俺の旅が届いたかも知れなかったのを、そこできっかりリセットをかけるだなんて、お前さあ! そこまでして死にたいか。そこまでして死にたいのなら、俺がその手を掴むまであとどれくらいかかるだろうか。その前に現存する世界ぜんぶ滅びるんじゃないか。やっぱりそっとしておけばよかったのではないか。俺が関わらない方が彼女は普通におだやかに生きていられたのでは。
 ああ、わからない、わかるように説明してくれ。もしくは彼女の声をきかせて。
 凍える水を掻き分ける。見つからなくて泣きそうになる。いやもうとっくに泣いている。心臓が止まっている。支離滅裂な身体をひきずって、たぶん俺は彼女をめざしてどこまでも往くのだろう。
 夜がくる。冷えていく。
 命とは熱だから、生きたいから、冷たくなるのは、いやだ。
 ぼろぼろと溢れてくる光に熱が混ざった。凍りの海に命を吐いている。
 生きてよ。
 生きてよ。
 青空。
 まだ間に合うかもしれない。引き戻せるかもしれない。どうか彼女が死ぬこと以外を考えられるうちに。もう行動を起こすまでいってしまったのだから無理だろうか。無理なら無理で、また繰り返すだけだ。終わらない終末が終わる日まで、俺はいつまでもつきあうよ。つきあわせてよ。生きていたい。

 だいぶ長く潜って泳いで、最奥あたりに来たとき、俺はふと青い光を見た。
 俺も同じものをまとっていたが、俺の発したものではなかったし、反射でもなかった。視えているからわかるのだ。

「……?」

 まとっていた光をすべて消した。
 暗闇が訪れる。夜の静寂は耳に痛くて重たい。冷たさはとっくに感じなくなっていた。
 光は、俺でなければどんな生物もほとんど知覚できないだろうほど弱くて、水底のなにも照らさない。風前の灯のようにたよりなく揺らいでいた。揺らいでいるが、徐々に強くなっているようにも見える。
 俺はそれをどこかで知っている。
 黙って記憶をたどる。
 たどるまでもなかった。
 ああ、これは――
 生物の死が発する蛍光だ――

(青空)

 土を掘った。
 あたりの水草と土をすべて退けると、やがてずっしりとしたコンクリートの棺が姿をあらわす。光はそこから漏れ出ているのだった。
 安堵にうずくまり、俺はただ死を含んだ水で呼吸をする。

 見つけた。


2020年9月30日

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