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見上げた空のパラドックス
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 潮風を割いたボートからは錆の匂いがした。不安定な駆動音を立てて海原を進む船の先端に、少年はぼうと立っていた。
 いつも通りゴーストタウンを歩いて幾月、海沿いを歩いてまた幾日、打ち棄てられたボートに乗り込んでからは半日が経過していた。操縦もできないがスイッチを押したら進みだしてしまったから致し方なく波に揺られ、エンジン切れを半分は心配して半分は期待して、星空も魚の影もない青いだけの空間を彼はいたずらに突き進む。どんなことだってどこかにあるだろう、そのうちひとつと今の自分がたまたまかち合ったのだろう、なんていつだってふんわりとした心地で、海上に晴天を見た、もうずっと雲も鳥も無い空だった。旅路は長かった。だから、一面の青の向こうにかすかな影を見たとき最初は目の疲れだろうと思ってほとんど存在を信じなかった。近づいてきてやっとはっきりと知覚した。あれは島だ。
 ボートは島の岩場にどんと体をぶつけ、エンジンを数回震わせて静かになる。少年は完全に役目を終えた船を乗り棄て、目前の林をもうひと越えして向こう――そこで驚いて足を止める。なんの変哲もなく、それこそが彼にとっては変哲であるのだが、目前には整備された村があり人の賑わいがあったのだ。
 ああ此処は天国か。そう思った。
「また、外の人だ!」
 あちこちから驚嘆の声がした。これほど大勢の声を耳にするのが彼にとっていったい何時ぶりのことなのか誰にもわからなかった。それでも、その時の少年は呆けたり感激したりなどに割くいとまがなく、ただ、わらわらと集まってきた人びとに向けて背筋を正し、問うた。
「また、って、前にも外の人がここへ来たのですか? ――その人はまだここにいますか?」

 旅が、終わろうとしていた。

 閉じた島だった。社会に弾かれた異能者のための隔たれた楽園であり監獄だった。島民は余計な争いを避けるためにもうずっと外との交流を絶って細々と生き繋いできたのだと言う。島の外にもう誰もいないことは、つい最近知ったのだと――人に教えられたから。
 その人と言うのが村外れの小屋にいるよと聞いたから、少年は場所だけ口頭で確認して、驚く島民たちをかえりみる間もなく息を切らして走っていった。畑や家並みの豊かさに懐かしいなと思うことさえ後回しにして、その時だけは死ぬつもりで走ろうと思って、土の均された畑道をぎりぎり転ばないくらいの勢いで、必死で息を吸って吐いて進むのだ。
 けれども長くは続かない。聞いた場所に辿り着くと彼はぴたりと足を止め、つんのめって、そのまま地べたに蹲ってしまう。どうしてか、どうしてだろう、疲れてしまったわけでもないのだけど、それ以上はどうにも動けなかった。耳の奥でどくどくと鳴る、急な運動に悲鳴をあげる脈拍だけがせわしなく、うつむいた視線の先の土に手のひらをつく。潮風は潮風といっても無味無臭で、温度さえ持たない奇妙な質感で額の汗をさらってゆく。
 その前方、まばらな木々の陰に、簡素な物置小屋がひとつと、もっと向こうに境目のわからない海と空とがあった。ただ青いだけの命のない空間とこの島との、彼岸か海岸線か、ちらほらと白い花の咲いた、そこに少女が立っていた。
 歌声が響いていた。
 少年は物陰に蹲ったままでそれを聴いた。高くやわらかな、澄んだ声だった。少しも聞き漏らさぬように息さえ殺して、遠い青に融けてゆくその歌声だけを意識する。そうしていると苦しくなったばかりの息がすっと和らいで、凪ぎの心地で立ち上がることができるようになった。
「……誰?」彼女が振り返る。
 少年は思うよりずっと軽い足をできるだけ遅く動かして歩み寄る。彼女は小柄な背に広大な青を背負って首を傾げた。
「見ないかたですね。外からいらしたんですか?」
「うん、ついさっき来た」
「まだ外に生きてる人がいたんだ。驚きました」
「俺も。この島にはびっくりしたよ」
 二人、海際に立つと、微かな波が足元の砂をさらった。水は濁りない透明で、さらわれていった砂の粒が沖へ流れる様までもがよく見えた。不思議に思うのだ、こんなにも透明なものが、果てしなければこんなにも青く見えるというのが――科学的な理屈は解っていても納得はできないのだ。目前、水底へ白砂が跡形もなく融けてゆく。次々と。彼女の歌は消えゆくそれらへの弔いのように聴こえた。
 少年はふと泣きそうになって、慌てて微笑をかたどる。
「なあ。覚えてない?」
「……何をですか?」
 彼女が不思議そうに聞き返す。
 水と同じ色の風が過った。
「なんで空は青いんだっけ」
「ああ、そんなこと。確か、なんか光が拡散するから」
「太陽、もう無いのにな。じゃあ何が光ってるんだろう。この世界で」
「それは」彼女は彼から空に目を移した。「記憶、でしょう」
「記憶?」
 すへて同じ。何も無いから青いのだ。空も海も彼女も光も、目にも見えて手も届くのに、不確かで不可解なままで揺らいでいる、いつでもいつまでもそうだった。
 彼女は在りもしないが在るかも知れない光のまぶしさに青い色の目を細める。少年は話をする振りだけをして、本当はからっぽの心地でただ彼女を眺めていた。思っていたよりも心象の揺らがない自分に対して、何を思うこともできず呆然と彼岸に立ち竦んでいた、それだけだった。
 探し物は見つけた、けれど彼女は何も覚えていない。
 だったらどうする、どうもしない。だって彼女はまだ生きている。
 透明になる。この旅の意味も。
「空はそこにあって、青くて光るんだって思っているから、その景色をまだ覚えているから、それが見えるんです。本当は真っ暗でも、空なんて無くても」
「太陽のことは忘れちゃったってこと?」
「そう、忘れちゃったってことです。忘れたから消えてしまうし、考えないから壊れてしまう」
 彼女が何を言っているのか正直なところ理解はしていなかったが、それでも言葉を交わせることは少年にとっていくぶんうれしいことにたがいなかった。少しずつ無理をして作った笑顔が本物になって、ただ穏やかに風に吹かれた。
 そうだよ、生きてるんだから。役目は果たした。信念は守った。それでいいよ、と言えるくらいには永い永い旅をしたんだ。ひとり荒野を歩く間も、誰に笑顔を向ける間も、飽いて退屈に微睡む間にも、今もその後の悠久も、彼は彼女の命を望むのだ。忘れ去るほど昔にそう決めた。決めたことだけは忘れなかった。
 覚えている唯一のこと。だからこれが彼の世界だ。
「此処は、世界の形を信じる誰かから見放されたんです。あるいは忘れ去られた。誰にって、それは、私やあなたかも知れないし、消えていった外の人たちかも知れないし、神様かも知れないけど」
 語るうち、彼女がふと彼岸を越えて歩き出した。白砂をとらえた素足が波を切って、波紋が純白の花々を揺らして少年はどきりとする。沖へゆく砂のあとは無だった、それならそちらに向かう彼女に待つのはいったい何だ。考える前に身体が動く。彼女の手を取る。必死なのだ。
「待って、」意識を介さずに言葉を叫んだ。「待って、死なないで!」
 彼女は初めて驚いたという顔をして、掴まれた自らの手と彼の顔とをまじまじと見た。無の水に膝まで浸かった脚はまだ消えないが、彼は不安でならず、その手を強く握って引いた。彼女は呆気なく従い波打ち際に戻ってくる。
「大丈夫……死にませんよ。私。死ねませんから……」呟くように言い訳をした声が絶望を含んでいた。
「だからって、わざわざそっちへ行かなくたって。全部の世界が終わるまで、どこにいたって一緒だろ。ましてや此処はまだ生きてるのに」
 急に早口になって、少年はぼろぼろと言葉を落とす。
「なんで死のうとするんだよ。向こうに何があるんだ。わかんないよ。ここにだってまだいてもいいんだ。駄目なら勝手に世界が弾くんだから。記憶の見せる幻だって、こんなに綺麗なんだから、まだ、消えないでよ、やっと逢えたのに」
「あなたは……」青の目が揺れる。「あなたも、死ねないの? 私たち、前にも逢った?」
 それは初めての問いだったかも知れないし幾度もこうして繰り返されたのかも知れない。彼も信念のことの他はもう忘れてしまったからわからない。確かなのは、何回目でもきっと自分はこう答えたのだろうという憶測ひとつだ。
「ずっと、また逢いたいって、思ってた」
 悠久の旅を巡る。二人は互いの顔も声もすぐに忘れて、違う世界の違う空にどこか遠い終末を見る。けれどもたぶんまたすべて忘れるほどの未来に逢って同じことを言う。少年が彼女の生を願って、彼女が自身の死に焦がれるかぎりは、世界の全部が終わる日までは変わらない。
 彼女はまばたきをして、そっか、と答えた。逢いたかったなどと言われても実感が湧かないのだろう、記憶にもないのだから当たり前のことだ。
「私ね、死ぬ方法をさがしてるんだ。ずっと、今も死にたいって思ってるよ。その間、あなたは同じだけ私をさがしてるんだね」
「うん……そうだよ」
「次また逢う日は来ないといいなあ。その前に、早く、死にたいから」
 はっきりとそう言って彼女が笑った。少年は、その一瞬の笑顔だけで、次の日を待てると、もう一度あの永い旅ができると確信した。
 そのまま二人で島民へ挨拶に行った。終わる世界に残されたかすかな時間を、生きた人びとの賑わいと、お互いと共に過ごしてみることにした。それは不確かで不可解で透明で大切な無に包まれて、青い、ただ青い日々だった。きっと。
 もう彼等も覚えていない、誰も知らない話だ。だからこれは憶測かあるいは妄想にすぎない。彼等の存在だって信じなければ無いのと同じだ。信じたって忘れてしまえばすべからく消えゆくものだ。だから、


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