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見上げた空のパラドックス
Winter67 ―side Kagehiro―

 そのときふとめまいがした。電撃のように脳裏でとどろく思考があった。もしも――このまま落ちたら、俺は死ねるのだろうか。

(え?)

「あ」

 ほんの一瞬の混乱があった。だからなのか、寝不足で不注意だったからなのか、段を踏み外してしまった。あっけなく体が傾く。やばい、と、偏頭痛に似た警笛が鳴る。いいや冷静になれ、ただ着地の際に地面を弱化すればいいだけのことだ、焦る必要など。

「っ――」
「間に合った」

 落下が止まる。
 下から誰かに抱き止められていた。
 能力の使用が間に合うかどうかあやしかったから、素直にありがたいと思う。

「……あか」
「おはよー、かげ。階段、気を付けてね」
「お前だったのか……」
「うん? 私だよ?」

 体勢を直し呼ぶと、明里がにこにことして言った。今日も見かけはばっちり決まっているが、カラコンをしていない。

「おはよ……なんでここに」
「私きょうランチ当番でね、食堂でたら佐久野さんが、かげが出掛けたーって言ってたから。足跡たどってきたんだ」
「え、当番は?」
「青空に任せてきた。だいじょぶでしょ、青空のご飯おいしいし」
「あ、そ……」

 道中で感じた視線は明里のものということらしい。いやいるなら普通に出てこいよ。
 いっそう慎重になって階段を下りきると、なにかどっと疲れた気がして重い息を吐く。明里は普段となにも変わらぬようすで俺に笑顔を向けていた。

「いや、でも……なんで来た。今まで、俺が出掛けても追ってきたことなんかないだろ」
「んー? 死んじゃうかと思って」
「……、」
「踏み外したの、わざとだった?」
「な、……わけないだろ」
「よかったあ」

 どきりとする。
 ほんとうに、わざとではなかったか? わからない程度には強烈に残ってしまった。思考が、感覚が。こうすれば死ねるかもしれないなあ、なんて。そんなこと、これまで考えたことがなかったのに。
 にじりよる冷たさがある。
 息が乱れている。

「かげ、ずっと調子悪そうで、目あわないし。急に友達作り始めるし、愛想よくなるし。変っていうか、必死っていうかさ、つらそう? そんな感じだったから」
「……」
「あんまりひとりにしないようにって、見てたんだよ、青空と」
「ストーカーじゃん」
「嫌ならやめるよ」

 言いながら、明里が俺の手を握った。込められた力の強さと柔らかさに、たまらずうつむく。
 心配、かけてたんだ。それが思ったよりも鋭利に胸をえぐって息がしづらくなった。ちゃんとしなきゃって、あるいはもう誰にも離れてほしくないから、態度もできるだけよくして、友達も作ったのに。それがむしろ変だ、なんて。

「かげ、死にたくなったら言ってよ。私が殺すから。それ以外の死に方はしないで。勝手に死ぬくらいなら、私にぜんぶ転嫁して恨んで」
「……すぐそういうこと簡単に言う……」

 はあ、嫌いだなあ。と、聞こえるようにぼやく。
 雪に埋まったじぶんの爪先ばかり見ている。どんどん冷えていって痛む。
 そもそも別に死にたいなんて言ってないだろ。ただ、生きる理由のなかで大きかったいくつかが、立て続けに終わってしまって、少し虚脱しているだけだ。

「うん」
「うんじゃない、笑うな」
「かげの言う嫌い、私は好きだから」

 やめろその目を。
 思わず手を振りほどきそうになってぎゅうと握り直される。硬質にかがやく紫の目がきょとんとしてまたたく。いつ見ても強い色だ。
 重くなってくる。気分や、頭や、息が。

「しんどい? 少し休む?」
「いい……寒いから歩く」
「そっか」

 朝陽がじわじわと気温をあげているのが雪の柔らかさでわかった。さくりさくりと踏んでゆく。リズムだけは崩さないよう、足が止まってしまわないよう。

「……あか」
「うん?」

 俺たちは手を繋いだままゆっくりと帰途をたどっている。

「もしもだ、仮定のはなし、もし俺が死んだら、ノート、青と白い表紙のがあるんだけど、それを、できるだけみんなに」

 痛む頭にむちうって明里の目を見る。彼女は一瞬またまっさらに表情を消して微笑み、うなづいた。それから苦笑して、繋いだ手をおどけたように振る。

「なんか、みんな私に託してくのが好きだねえ」
「……、」

 白の紙面と薄青の罫線、ペン先の炭素のにおいが脳裏によぎった。

「あなたが先に死んだらね。死んだら! 私そんなに長生きしないと思うけどなあ」
「なんで?」
「力が強いから」
「たしかに……」

 異能は存在を歪ませ消耗させる。組織のなかで言えば、原因不明の奇病が死因のトップに来るような、稀に死体も残らず体細胞ごと拡散して戻らなくなるような世界だ。組織内の平均寿命は一般のそれより20年ほど早い。でも、それもまだまだ先の話だし、そもそもいつ誰が死ぬかなんてわかるものではない。

「そっかお前、順当にいけば先に死ぬんだよな」
「さみしい?」
「……」

 明里がマフラーをずれないよう押さえながら首をかしげる。なにもわかっていない、どこまでも無知な、無理解な問いだった。
 いまなら言える。とわかった。この虚脱のなかでなら。

「置いてかれるのは、御免だな」

 そっか、とつぶやいて明里が足を止める。

「あのさ」
「んだよ」
「進学しようと思ってるんだ、語学やりに。だから、二年くらい、ひとりにしちゃうんだけど」
「いや俺さすがにあかがいないだけでひとりになるほど依存してない……二年くらいってことは戻ってくんの?」
「うん、旅に出る」
「は」
「私の力が、傷つけるんじゃなくて、生きるのに必要なところへ行く。国内外どこへでも。だからさ」

 歩みはすぐに再開された。手を引かれている。

「かげも連れてく」
「……なんで?」
「伝えたいことがあるなら、語りにいけばいいじゃん」
「あー」
「かげが卒業するタイミングで私も卒業する。そしたら拾ってくから」
「いやなんで決定してるふうなんだ」
「嫌なの?」
「俺なんも役にたたないぞ」
「かげはすぐ色々できるようになるよ、負けず嫌いだもん。なんもできない人ひとりいても困らないくらいには給料いいし」
「ヒモじゃんそれ」
「ヒモが嫌なら働けばいい。かげの力ならどこ行っても重宝するよ」
「そうだけど」

 道の先にホームが見えてくる。二棟の民家が身を寄せあったようなすがたをして、繋ぐ渡り廊下の周辺が庭になっているがこの時期は雪しかない。まだ点いている街灯のオレンジが白の上に散っていた。
 将来の話なんてほとんど考えたことがなかった。それどころではない問題が現在にありすぎたからだ。それに、このまま未来が順当に来るのかといったら、たぶんそうではないから。壊れるのが一年後か数十年後かはわからないが、世界はかならず近いうちに終わる。それまでは好きに生きろと言う話だ。好きに生きるってなんだ?
 俺の願いはいまのところあの記述たちにしか宿っていない。
 残すこと。
 でも、それは。

(俺が居なくても同じだ)

「……考えとく。まだ、他にやりたいことあるかもしんないし」
「うん、見つけたらそっちに行きなよ。それがいい」

 朗らかに笑って、明里が離した手を振った。

「じゃ、あとでね」
「おー」

 それぞれの棟に戻る。


2020年8月26日

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