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見上げた空のパラドックス
Winter66 ―side Kagehiro―

 書き終えた。
 深く息をする。
 シャーペンを置いた。痛む右手首を押さえ、天井を見上げる。閉めたカーテンの隙間からかすかに漏れた陽光が曖昧に模様を作っている。

「あー……また徹夜しちまった……」

 頭が重いのに冴えていて気分が悪い。自業自得だ。でも、だから、こんなことはこれきりにする。明日からは絶対ちゃんと寝てやるんだ、マジで。
 ノートと筆記用具をスクールバッグに押し込み、腕が攣らないようゆっくりと伸びをする。
 彼女の語った恋も怨嗟も自責も諦念も憧憬も俺にはわからない。だからこそ丁寧に聞いて丁寧に書き記したつもりだ。せめて語られた言葉だけは意地でもすべて拾って汲んだ。齟齬が出るのは百も承知だが出さない努力ならできるだけしたと思う。
 聖書みたいなものだ。同じ出来事を記すにも書き手によって記述はよりけりで、だから本当は俺だけではなくもっと他の誰かにも書いてもらえたらいいのだが、まあ、それはしかたがない。俺にできる最大のことはした。これ以上は、もう、さすがに、いいだろう。

「おわっ、たあ……」

 長い伸びを終えて両手を下ろす。時計を見ると、身支度を始めなければならない時間まで40分といったところだった。寝ておくには短いし、スマホで暇を潰すにも長すぎる。
 カーテンを開く。雪灯りに目を細める。散歩でもして頭の疲れを紛らそう、と決めた。
 いつものスクールコートとネオンイエローのマフラーを身に付け、スマホとハンカチだけポケットに押し込み、帽子を片手に部屋を出る。足音がしないよう廊下を抜け、ロビーに降りると、職員がストーブに灯油を注いでいた。

「あれ。おはようかげくん。出掛けるの?」
「目冴えちゃって。そのへん歩いてきます。朝飯までには戻るんで」
「道、すべらないように、気を付けてね」
「はい」

 会釈をして玄関へ。朝方に喫茶店へ通った頃はもっと早い時間に出掛けていたから職員に出くわすことはなく、今回がはじめてだった。びびったけど怒られなかったのでまあいいのだろう。
 冬の朝は凍るように冷たいというか凍っている。ざくざくと雪に足を埋めながら歩き出すと、すぐ頬が痛くなってきて帽子を押し付けた。寝不足に気温差ときて頭が痛むが、だるさはとれたような気がする。
 寒いが、ここ数日は一月にしてはやけに気温の高い日が続いてもいる。昼には雪が溶けてべしゃべしゃになるのだ。

(異常気象……までは、いかないか)

 こうして、じわじわと天気がおかしくなったり災害が増えたり異能者が増えたりしていって、いつか世界は終わるらしい。前兆はまだ、とても小さなものしかない。
 帽子をかぶりがてら仰ぐと、空は薄い群青をしていた。
 さてどこに行こう。迷うのも面倒だから、雪面がきれいなほうを踏んでいこうと決める。ひたすら無心で雪に穴を開けていくのは小気味が良いので。
 雪面を見る。まぶしい。
 まぶしいものを見ると青空を思い出す。だいたいなんにでもまぶしいと言い出す彼女の、ちっぽけで切実な初恋の話を聞いたのは一週間ほど前だった。した殺人やされた強姦のことを隠さなかった彼女が、長いこと言えずにいた記憶だ。

「その、景広、と倖貴を、重ねて見ることは……あったよ。けっこうある」
「どのへん似てんの」
「……人間不信で臆病で感情が不器用だけどどっかまっすぐで、壊れやすいけど壊れるほど強くなるタイプで、あとは面倒見がよくて年下に好かれる、とか」
「最後以外、何がいいんだ……?」
「ひっくるめてかっこいいから」
「恋は盲目……」
「あ、景広はかっこわるいよ、よく泣くし」
「うーるせー、自分のこと話せよ」

 色々言い合ったその日は門限寸前に慌ただしく帰宅して、それから俺はずっとペンを執っていた。
 海間とは一年、青空とは二月、ほんとうにたくさんのことを聞いた。もう叩いても埃も出ないくらいには聞いた。だから、それらを、一度すべてを精査してから、みたび書き記してみたかったのだ。
 彼らの心は忘れ去られていいものじゃない。ちがう。俺が、忘れたくない。
 そんな切望だけでペン先を動かしていた。
 そして終わった。記録と呼ぶには俺の勝手がすぎるのだろういびつで長大な文章が、ノートの束になって机に積み上がっていた。クリスマスプレゼントにもらった筆記具のセットを使いきった。
 後悔はない。
 世界が終わったら記録だってもちろん消えるし、彼らが別の世界へ旅立つのに記録を持っていけるわけでもなく、意味があるのかと言ったらないとも言えるのだろうが、それでも書かなければならない衝動は確かにあって、それが叶ったのだ。

「……、……?」

 ふと進めていた足を止める。つい背後を見た。
 視線を感じた。ような。
 いやいや。大人しくするぞ俺は。もう学んだのだ。ポケットから手を出しておきはするが、それ以上のアクションはしない。猫かもしれないし。最悪、敵だったとしても、監視だけならどうぞご自由にだ。
 気にしないことにして、みたび足を進める。
 それからはもう、妙な予感にさらされることはなかったから、気のせいだと思うことにした。

「……お」

 黙々と雪のきれいな方へと足を進めると、こぢんまりした佇まいの神社が行く手にすがたを見せた。俺が勝手に戦って明里を巻き込んで敵が死んだ場所だ。
 とくになにか考えたわけではなく、徒然と石段に足をかけた。滑らないよう慎重に踏みしめ、のぼっていく。
 どうせだから神様に言いたいことを言おうと思った。宗教が違う気もしないでもないが、まあ他力本願ならホーム付属の教会に行くよりこっちの方が適切だろう。詳しくないが。たぶん。
 のぼりきって、奥へ進んで、淡々と無人の神前に手を合わせた。財布は持ってきていないから賽銭もない。黙って拝むだけだ。

 どうか彼らの葛藤に安らかな解答が得られますよう。

 誰にも解決しえないことなら、祈るしかない。
 すぐにきびすを返す。そろそろホームへ帰ろう、寒いし、空腹も気になるし、なによりここに長居はしたくない。
 片足で足場の雪を払い、一歩、石段を降りた。下を、見る。


2020年8月23日

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