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見上げた空のパラドックス
Winter61 ―side Higure―

 二人。絶望を確認しあっただけの青い光の底にて。
 彼女はひとしきり星雲を見上げてからふとこちらを見て、ちょっといい、と言って俺の肩に触れた。冷や汗に湿ったシャツがめくられてどきりとする。指先が動脈を探った。何、と思うや否や触れられた場所だけひときわ大きく脈が跳ねる。そうしてすぐに手は離れた。

「え……いま、なにした?」
「血。ちょっともらった」
「へ、えっ、うん? なんで?」
「ほしくなっちゃった」
「全然わかんないんだけど、意図が」
「話するより細胞もらうほうが早いから。嫌なら返すよ」
「え……? ……え……? いいけどさ、別に、O型だし」
「そこなの?」
「いや、だって……なんかその……いいのか? っていうか。俺にはくれないの?」
「安全には無理、だね、」

 直後、持ち上がっていた彼女の身体がみたび落ちてくる。さすがに限界か。俺は慌てて温度にはたらきかけ、彼女の背をさする。

「……ひぐれ」
「い、いい加減寝ろ……?」
「寝たら、逃げるでしょ」
「逃げるよ。殺したくないし、青空、俺といるとこういう無茶するし」
「だって。死にたい、から」
「……おやすみ」
「リボン、」
「うん?」
「持っていって。ぜったい……かえしに、きて……やくそく」

 落ちた。
 細い寝息が耳にふれている。
 恐る恐る彼女の身体を隣に落として、俺はようやく布団から抜け出る。拍子に触れられた箇所の脈がひとつ跳ねた。なんていうか。魂を取り込まれるよりも血をもらわれる方が重たい感じがする。大丈夫か。これ以上、俺の何かが彼女に悪影響を及ぼすのも本意ではないのだが。医学的にはたぶん大丈夫なはずだが。なぜほしいなんて。
 言われた意味を考える。リボンを持っていって、返しにきて。リボンというといま彼女の髪に飾られている青色のそれなのだろうけど、いいのだろうか。彼女はそれを生前から肌身離さずだったと記憶している。ふとした時に触る癖があった。大切なもののはずだ。俺に託すというのか。そしてまた逢おうというのか。
 俺たち、そんなに深くつながってしまっていいのか。
 数秒だけ立ち尽くしてから、そっと眠る彼女の髪に触れる。丁寧にリボンをほどいて、小さく畳んで、ポケットに押し込む。呼吸を整え、涙の残滓をぬぐう。
 行こう。

(よかった。殺さなかった)

 最後に彼女の寝顔を一秒だけ眺めて、きびすを返す。
 さあ、いよいよ逃走劇だ――
 と意気込んだのに、玄関を出たところで全身に力が入らなくなった。かくん、と、呆気なく膝が落ちて顔から雪道に倒れ伏す。なるほどそうか。薬を盛られた、と気づくのに時間はかからず、冷えていく全身にただ黙った。リボンの約束と多段構えとは、あちらもマジで逃がす気がないわけだ。たぶん弱めの筋弛緩剤だろうか。冷えるのに震えもしない四肢から感覚が薄れてゆくのを、ふわふわと意識していた。
 雪道に沈む身体はどんどんわからなくなって、思案する意識だけがぼうと浮かんで感じられた。考える。俺は遠くに行かなくてはならない。彼女をうっかり手にかけてしまう可能性が捨てられないなら逃げるしかない。どうすれば、動けるか。浮かばない。
 考え続ける頭に、ふと足音が飛び込んでくる。雪を踏み、払い、駆けているリズムの。近づいてくる。

「海間! だいじょぶか」
「……み、?」
「うぁ、生きてる。よかった……!」

 白の静寂を切り裂いた足音が俺のとなりで止まった。曇った知覚にかすかな揺れが走ったから起こされたのかなと思う。薄目を開くと焦ったような水野の顔が間近にあって、汗だくで白い息をしていた。よかった、とまず思う。無事だったんだな。

「動けないのか?」
「……へ、き。死には、しない」
「麻酔か。青空は?」
「き、……うしな、って。……おれの、へや」
「そっか」

 困ったような安堵したような曖昧な笑みを口許に、水野は俺の髪から丁寧に雪を払う。

「ぼろぼろだな、お前ら」

 でも、そうでなくちゃ怒ってた。そんなことを言って笑う彼も彼で、俺を支える腕をすっかり震わせ、疲弊しきった表情をしている。早く室内に入れよ、汗が凍ったらショックで心停止だぞ。
 なんて、水野を心配する余裕は、残念ながら今の俺にはないのだ。

「はや、く……に、げ、なきゃ。おれ。遠くへ」
「俺は証人だから手は貸さない。お前を雪んなかに放置するほど冷たくもねえ、けど!」

 抱え込まれ、浮遊感、熱と振動、周囲を包んでいた冷気がほのかな暖かさに代わった。すぐ店内のソファに下ろされる。だいぶ狭苦しくて落ちそうになるが、雪の上よりはよっぽどましだった。水野はひとまずカウンター席に放置されていた自分のコートを羽織りながら、

「解毒、青空にしかできないんだろ? そこで寝てろ、それしかねえよ」

 言って、カウンターの向こうへ、たぶん青空の方へ足を向けた。
 その背に、手を伸ばす。うまく動かせない身体がソファから無様に落下して、彼が振り返る。
 なりふりかまってられるか。

「み、……みなの、」
「どうした」
「か、せよ、手。……たすけて。俺を。……なあ」

 淡い視界のなかでまた抱き起こしてくれた水野が目を見張った。震える瞳が俺を見て、何か言いたげな口許が動いて止まって、やがて深いため息をつく。温度差に真っ赤になった手で顔を覆ってうつむいた、その指の隙間から滴が落ちた。水野はほんとうによく泣く。涙の意味が俺にわかることは、少ない。

「はー……あ。はは、お前、虫がいいんじゃねえの。一度だって、俺を頼ろうなんて、思ったことないだろ、ちっとも対等に見てくれなかった。ずっと距離とって、上にいて、青空のことになったときだけしおらしくなってさあ、ほんと、俺のことなんか心底どうでもいいんだよな」
「ご、め、ん」

 俺はただ謝るしかなかった。すがるしかなかった、青空を生かすためには、今の俺だけでは動けもしなくて、ここに来たのが彼だったから。理由はそれだけだった。水野の言う通り。友愛だとか信頼だとか、そんなのはほんとうにどこにもなくて、ただ偶然の巡り合わせだけが、俺の眼に彼をうつしている。
 友愛があったとて結果は変わらなかったろう。なかったとてこの眼は彼を見ているのに。呼び寄せて、手を伸ばしているのに。それだけではいけないのか。わからない。

「み、なの、たのむ……おま、えしか」
「青空を生かすために?」
「……うん」
「それであいつがどんだけ傷つくかわかってるのか」
「わかっ、てる」
「暴力だろ、それはさ」
「わかってる」
「でも殺したくないって?」
「うん」
「お前のエゴ100%だぞ。なんで俺がそんなことに加勢すると思うわけ」

 声音は刺々しさを増していく。理由は残念ながらわかっている。
 だって。

「だ、って、水野、は……」

 いったん口を閉ざす。睨まれている。傷つけるのは百も承知、だが俺だって言葉を選ぶ余裕はない。

「水野、俺が、好きだろ……?」
「――っ、」

 わかりやすく彼の顔が歪んだ。こわばった頬をいくつも雫が伝っていく。怒りにわなわなと、肩で息をしている、彼は、言葉を紡ぐのもやっとなくらいに震えた声をして、絞り出す。

「……たった今――、死ぬほど嫌いになったけど……?」
「うん」
「うんじゃなくて。そうじゃ、なくてさ」
「ごめん。お、ねがい、たす、けて」

 手を伸ばし続ける。
 水野がいやいやと首を振って退く。

「お前……、お前らの……、そういうところ……、だいっきらいだ」
「うん」
「うんじゃない。上から受け入れんな。ムカつく」
「ご、めん、な」
「ともだちになってよ」
「ごめん」
「なんだよそれ」

 濡れた声は怒りよりも鮮烈に幼いままの響きをした。

「受け入れんな。謝んな。もっとちゃんと言ってよ、もっとさ、お前の。海間の」
「わかんない、んだよ」
「……」
「俺、のこと。もう、わかんない、から」

 俺の言葉がどれなのか。俺の願いはどれなのか。いつからかわからなくなった。託され続けた、目の前で命とともに消え続けた願いを、いとおしむほどにわからなくなっていった。だから、言えることなんてありすぎてとても少ないのだ。世界がいつか終わること。俺に託され続けた膨大な想いがあったこと。消えた景色があったこと。そのくらいしか、確かではない。そして、それらはもう、水野には言ったはずだ。
 水野は涙でぐちゃぐちゃの顔を隠しもせず、なかば崩れるように床に膝をついた。かすかに嗚咽が聞こえる。椅子に寝ている俺を、近づいた黒い目がにらむ。揺らぐ。

「はー……そうかよ。わかんないのか……」
「うん。わかん、ない」

 それが今の俺の言葉だ。

「……海間、」

 涙に濡れた手が頬に触れた。
 触れた箇所がかっと熱くなったような気がして、じわじわと体内組織の作り替えられる感触がする。知覚がぐるりと揺らぐ。体内で数式が躍り散ってどことなく気分が悪い。変革はたっぷり10秒ほどかかって、終わる頃には水野が床に伏せって震えていた。せっかく着込んだコートがろくに役立っていない青白い顔で。
 今度は俺が彼の肩を支える。首筋に指を触れるとぞっとするほど冷たい。

「相手は毒だから……、免疫……強化……あぶねーけど。効くんだな、よかった」
「悪い水野、ほんとありがとう、助かった。借りは必ず」

 俺のいたソファに彼を座らせ、自分の体調をたしかめる。まだ全身の動きは少し鈍いが、喋れるし、なんとか歩けもする。水野の能力は知らなかったが免疫を強化したということらしい。じゅうぶんに有り難い。

「いらねーよ貸しなんか。ばかじゃねえの……まだわかんないのかよ……ほんと、嫌い、そういうとこ、」

 大嫌いだ。彼は寒さにうずくまってうわごとのように繰り返した。俺の記憶と、感情と、意志と、懇願を、すべて余さず受け取ってくれたらしいその心で泣いていた。
 そっか、とだけ思う。お前が泣いてくれるなら、たぶんそれで、俺はさっさと進んでしまってもいいのだろう。冷酷なままでいても。水野が泣いていてくれる。
 何を言っても彼は傷つく。傷ついて、怒って泣いて、許さずにいてくれる。それでいて自ら幸福に生きていてもくれる。だから、俺はどんな言葉も彼には渡せた。
 進もう。

「……ノートのこと死ぬまで忘れないよ。約束する」

 最後に伝えるべきことはこのくらいか。

「ああもうっ、うざい、お前、早く行けよ。逃げなきゃいけないんだろ!」
「うん、それじゃあ」 

 置き土産に彼の体温を戻してやってから、俺は財布を引っ掴んで店を飛び出した。どこでもいいから、青空のいない、たどり着けない場所へ行こう。どこまででも逃げよう。彼女の命を懸けたこのゲームを、まだ終わらせないために。


2020年7月3日 8月13日

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