見上げた空のパラドックス
Winter60 ―side Kagehiro―

 ざわざわと苛立った喧騒に起こされ、機嫌悪く身を起こしてみればそのとおりの人混みに出迎えられ目を疑った。意識の落ちる前から感覚が連続していたから、視線はきょろきょろと海間を探す。見つからない。人がひしめいている。夢かと思って目を擦るが変わらない。信じられない人口密度に気分が悪くなって縮こまる。なにやら器械体操に使うようなマットの上だった。朦朧と視線を振ると天井にも見覚えがある。学校の体育館だ、と気づいた。

「……何だこれ……」
「あ、起きた?」

 ぼやくと、耳慣れた柔く明朗な声が降ってきて顔をあげる。目があった明里は結われていない長髪をかきあげながらきょとんと首をかしげた。だぼついたロングトレーナーはあまり見掛けない服で、たぶんパジャマなのだろう。他の人を見回しても、寝間着だろうと思われる服装が多い。

「かげ寝てたから何が起きたのか知らないよね?」
「……ちっとも」
「なんか町の人が一斉に集まっちゃったんだよ、明け方。ここに。一瞬で、身一つでさ」
「ああなるほど……」

 寝起きの頭にその情報は過度にすんなりと入ってきた。疑問を抱く思考が働かないまま、そうかオーナーが住民を避難させたんだ、と刹那のうちに理解をした。

「…………え? やべーな」

 理解をしてからたっぷり数秒の時間を要して疑念が浮かんだ。そんなでかい規模で能力を使ってオーナーの身体は大丈夫なのか、というよりなにより一般人を巻き込みすぎているが誤魔化しはきくのだろうか。きかなかったらどうなるのだろう。そこまで考えてようやく事の異常さに思い至って一気に目が醒めてくる。

「やばいよねえ」
「おっ前少しは動揺を覚えろ……他のちびは?」
「おばさんたちと格技場のほうにいるよ。私、ひとりでかげを探しに出ちゃったんだ。ごめんね?」
「体育施設はフル活用なのか……」
「渡り廊下は通れるからね、でもしばらくは閉じ込められるみたい、電波も通じないし、外に出るドアとか窓とか開かないの。もう落ち着いてきたけど、みんなパニックですごいうるさかったんだよ。よく寝てたねえ、疲れてたんだね」

 にこにことしてそんなことを言う明里に、なんだか動揺する気が削がれてしまい、脱力に任せてマットに身を沈めた。だいぶ埃臭いことを除けば、寝心地は良くもないが悪くもなかった。

「そんなB級パニック映画みたいな展開でいいのかよ……。ひとつの町の住民が集団的に突然音信不通の消息不明って社会影響が大きすぎるんじゃ……」
「どうする気なんだろねえ。何とかする気はありそうだけど」
「お前、のんきだな……」
「公開しちゃうのかもしれないよ、裏のこと全部この機会に。もう、パーッとワールドワイドに」
「……」
「先に公開して先に注目浴びて社会に名乗り上げた方がエラー管理の派遣をとる。のかもね?」
「嫌な想像だ……」
「大丈夫だよ。別に誰も死なないし」

 強いコバルトヴァイオレットの目がまっさらに人垣を見る。まだ体育館の扉の回りで怒鳴り散らしている人、言い合う人、泣き出す人がいて、それらから距離をとって途方にくれたように蹲る人がいて、寄せ固めて敷かれたマットのうえには俺のほかにも寝ている人がちらほらといて。どうとも言い難い異様な空間だった。

「学校の先生とかがね。いちおう指揮とって、寝てる人をここに集めたり喧嘩を止めたりしてくれてたんだけど、だんだん収拾つかなくなってきてるよ。みんなおなか減ってるし」
「緊急時用の備蓄食料は?」
「あるんだけど倉庫が外なんだって。毛布とかもそっち。だから避難所の体制もとれない」
「やーば。怪我人でても治療できないじゃん……喧嘩禁物だな」
「夜には収まるよ。みんな空腹で動かなくなるはず」
「シンプルに恐ろしいんだが。そんなに長くかかるのかなあ……」
「……聞いてもいい?」
「この避難の理由?」
「うん」

 俺の傍らに膝を抱えた彼女の髪がさらりと揺れて、マットの埃臭さに甘い香りが混ざった。彼女はやっぱり奇妙なくらいに落ち着き払っていて、ここだけいっそ日常を錯覚しそうになる。
 こんな手も足も出しようのない状況では、のんびり構えてじっと動かずいたほうが腹も減らなくて賢いわけだ。実際、じっとしていようと結論付けたらしく座り込んで黙っている人がこの体育館のなかでは多数派に見えた。
 しかし問題もとうぜん起きていて、たとえば薬が切れた病人なんかもここにはいるわけで。
 阿鼻叫喚と言ってしまっても構わないのだろう状況だった。原因がひとりの少女の希死ないしはひとりの少年の恋だとは思いもよらない。

「……はーあ」

 さすがに眠りの余韻も抜けきった体を緩慢に起こした。動かないのが最良とはわかっているし現に空腹も気になるし水も飲みたいがしょうがない。だって俺はどうしても見届けなくちゃいけないので。

「でかい痴話喧嘩、だろうな、たぶん」
「ああ。青空と、王子様ね」
「死んでないといいけど。……じゃ俺、見てくるから」
「どうやって?」
「ぶっ壊して。……放送室あたりからこっそり出るよ。あかはみんなんとこ戻ってろ」
「むう。私は行っちゃだめ?」
「王子様はお前に会うと消えちゃうんだ、同一だから」
「なるほどね、そういうこと」

 了解、とのんきに言って明里が笑顔を見せた。
 俺はこそこそと御手洗へ行くふりをして舞台用の放送室へ侵入し、窓ガラスに手のひらを当てる。雪の温度に壊れてくれと念じるとぐにゃりとガラスが溶け落ちていって、きんと冴えた冷気が滑り込んでくる。コートもマフラーもない俺は躊躇をしたが、結局引き返すわけにもいかず窓枠を乗り越えた。二階だが、飛び降りてもまあ平気だ。祈れば怪我はしない。
 ひょいと雪の上に着地しつつ地面を柔く加工して衝撃を逃がした。身を切る寒さにだけはどうしようもなく震えて、自らの肩を抱く。

「俺の隔絶を抜け出そうなんて感心しないよ、正義中毒患者くん」

 声がして振り向いて、誰もいなくて前を向いた。ひとりだけ優雅に防寒具を身に付けた二門藍がこちらを見ていた。

「なんだそのユニークな呼び方……」
「だってそうだろ?」
「さみいから付き合わねえよ。出させてくれてどうもありがとうフタカドセンパイ。俺は行く」
「その前に事情が聞きたい。俺も急に上の命令で叩き起こされてやってんだよ。何が起きてんの? さっき、街がでたらめに光ったんだけど」

 不機嫌そうにネックウォーマーの襟元を片手で弄びながら二門が言った。
 海間、派手にやってんな、とだけ思う。

「……なんで俺が事情知ってる前提なわけ?」
「水野景広は例外的に自由にしろってお触れが出てる」
「意味わかんないんだけど」
「俺が訊いてんだけど」
「……その命令だしたの誰。教えてくれたら答えられるかもしれない」

 俺、というか明里の家族やオーナーは、二門とは所属する機関が別だ。対立していると言ってもいい。この住民避難はオーナーがさせたものだとして、避難所の封鎖は二門がやっているというのは、どういうわけだろう。これもある種の抗争なのかはたまた協力なのか。しかも、二門の側に俺に関する命令が出るとなるとあきらかに奇妙だ。捕らえろならまだしも逃がせというのは。

「普通にいつもの上司がだよ。その上がどこかなんて俺には知らされない」
「……まあ、だよな」
「教えてくれないのか?」
「教えてどうなるもんでもねーよ……異能者同士の個人的大喧嘩。それ以上でも以下でもないと思うぞ」
「はあ?」
「じゃ、あともよろしく」

 寒さに耐えかねてそそくさと雪道を駆け出した。寝起きでしかも冷えきった間接がぎしぎしと鳴って痛むが、止まったら寒くてたまらないので動き続ける。吐く息の白さのむこうにぼんやりと無人の町並みを見て、迷わず喫茶店まで。
 校門を出てすぐ光の揺らぎをみて彼らがそこにいるとわかった。方角は変わらない。喫茶店のほうだ。そこへ向かって、雪煙を立てて駆けてゆく。風を切る手足が凍るようなのに数分で全身が汗ばんできて、ああ止まったら凍死するな、と直感で悟った。髪に結露が凍る環境で汗が凍らないわけはない。文字通り必死になって彼らのもとへ、辿り着くまでにもういちど光の揺らぎを見た。色がうつろい、認識が歪み、すべて青に変わっていく。規模は円形に少しずつ広がる。
 何が起きているのか。
 憶えていられるのが俺だけならば。
 走るしかないだろう。

「海間……っ!」

 俺はさ。お前の感情が見たいよ。残したいのは事実じゃなくて心だって、わかってくれただろうか、あのノートで。
 どうか残しうるすべてを記せるまでは、生きて。


2020年6月14日

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