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見上げた空のパラドックス
Winter58 ―side Higure―

 ひゅうと風を切ったのは声と少女の脚と刃で、俺はとっさに転がりながら斬新な挨拶の主を見る。驚く暇も感動する暇も与えてくれないから、雪を散らして駆けずりながらノートだけは死守しなければと抱え込んだ。この白い紙の束は彼女だから。いやまあ、本物が目の前にいるわけだが、耐久年数で言ったらノートの方が上なので、手放しにするわけにもいくまい。
 息を吸う。逃げ回る。光ならずっと掻き乱している。おかしいな。彼女は見えていないはずだが動きに迷いがない。ええと、彼女の力は物質操作だっけ。ならば原子配列を波ではなく性質で視ることができるわけか。光も音もすべてがでたらめに掻き乱された滅びのなか、目も耳も塞いで異能だけを頼りに俺を探したというのか。これまたなんて気の狂いそうなことを平然とやってのけるのだろう。彼女は以前からそういう奴だったけど。人間の限界を越えすぎている。また自分に麻薬を盛っているのだろうか、できればやめてほしいが。覚悟の大きさだ、彼女の凶行は。
 それと、すごく大切でどうでもいい文句を言わせてもらえるのなら、ミニスカートで戦闘すんな!
 口に出す余裕が無い。黙って切り裂かれる静寂に耳を澄ませ、右へ左へ上へ下へと動き回る。無謀の先に立ってとっくに限界のはずの彼女の方が俺よりキレよく動くのは、過集中の類いか薬の加護かはたまた想いの差だろうか。なんだっていいが死ぬわけにいかないし殺すわけにいかないので、俺の、すべきことは。

(逃げ切る!)

 再びの創世に町がぐるぐる揺れて、あらゆる知覚は光に浚われ、さすがの彼女もかすかに足取りを迷わせた。異能で視ている以上は俺を見失うことはないだろう、だがわずかな隙さえできれば御の字だ。
 肉薄する。青の目は俺の身体の中心をにらんでいて視線が交わらない。

「……っ?」

 白いノートをその手に押し付けて全速力、あるいは一目散といった方がいいだろうか。振り返らず逃げ走る。彼女は当然追ってきて、高く、炎の壁が行く手を塞いだ。蒸発した雪で一時、辺りは物理的に真っ白になる。俺が光を乱しているからうまく見えたものではないだろうが。俺とて背中に致命傷を負った身だ、焔にいい思い出はない。それでも、飛び込むか否か? 迷う余地がない! 一拍とて止まらず駆ける。大丈夫、たぶん大丈夫、信じよう。青空はきっと俺を殺さない。俺が青空を殺すその瞬間まではきっと。
 ちりり、と火花の熱さを肌に感じた瞬間に焔が消えた。ありがとう、やっぱり気を付けてくれているんだ。でも、それじゃあ、やっぱり俺を捕まえられはしないんじゃないかな。
 焔はゆらゆらと立ち上っては消えていく。あるいは強風が、あるいは無酸素が道を阻んでは、俺が不調に陥る前にほどけてなくなってしまう。笑みがこぼれる。やる気、ある? 殺せよ、ちゃんと。自分の救いを絶ちたければいつでもこの心臓を貫いてくれ。俺はそうしたら晴れて正当にお前を恨めるだろう、それはひとつの答えであって救いになるのだろう。なんて、そんな邪念は迷いのない斬撃がたちどころに断ち切ってくれた。彼女は本気で、たぶん、殺されるためという以前に、俺との対話のために刃をとっているのだ。本当に生かす覚悟があるのか、そこに綻びはないのか、命まるごとで問い質すために戦っている。はたして俺はというと彼女の斬撃を黙ってかわし続けているのだ。
 ずっとそういう俺達だった。
 彼女の振りかざすまっすぐな絶望に、俺はずっと向き合えていない。
 だから何だ。生きろ。
 良いことがなくても、神も救いもなくても、世界に見放され取り残されても、幸せになれなくても、幸せになる自分がどうしても許せなくても、後ろ暗い罪にさいなまれても、苦しみ続けるとしても、諦めて空っぽに笑うしかできなくなっても、永久に孤独な存在だとしても、世界が無くなっても生きろよ。俺はそこにいなくてもいいから。いても、いいから。
 自分の呼吸がうるさくて白い。もうどのくらい息つく間もなく走っているのだろう、わからない。青空は大丈夫なのか、彼女の能力は燃費が悪い方で身体にかなり負荷がかかったものと思うが。早く終わりにしないと過労で死ぬんじゃないか、俺のとなりでならなくはなさそうでちょっと怖い。だから俺も覚悟をして波を取る。殺さない程度の苦痛なら一秒で味わい尽くさせてやれる。対人にとる策として最悪なのは百も承知だが。

「あ、うぁッ……」

 雪道にナイフとノートが落ちて、彼女がぺしゃんと転んだ。何を見せ、聴かせたかは言うに忍びないからご想像にお任せしよう。そうして俺は彼女に背を向けひた走るのだ。逃げ切るしかない、彼女のいのちのためにはこうするしかなかった。そんなの言い訳だ、本当にいいのか、浮かんでは消える後味の悪さを飲み干して雪を蹴る。納得などするものか、しなくていい、それでも彼女は今、まだ、生きている! その事実ひとつで俺はなんだって捨てる。
 撒いたと思っても気を抜かない方がいいと学んでしまったから、気が遠退くまでは無彩色に極彩色の光を引き連れて駆けることにする。どうせ死なないのだからこんなときこそ無理をしよう。そこまで思って、ああと気がつく。俺だって彼女と同じくらいには人間を辞めて戦えている。素直にうれしいような、踏み外してしまったような、判別がつかないからすぐに思考を投げた。
 息を、吸って、吐く。身体はまだまだ動くのだけど、平衡感覚がやられてきてくらくらする。どこか胸が苦しい。うずくまって泣けたら気分がよくなりそうだった。
 青空。青空。名前だけが脳裏を飽和してまわる。
 元気そうで良かった。
 もう、いい。彼女のいのちを脅かしうる俺などは早急に居なくなればいい。くすぶる殺意は自分の居場所と意義に向けよう。殺せ殺せ。青空を生かさない俺など要らない。

「っ、」

 めまいがひどい。自分で光を揺らしているわけもあるが、それ以上に体調面で目がちかちかする。心が、痛い。あ、と思うや否やぜんまいがきれたように脚が止まった。倒れ込む、雪上。光がほどけた。世界が急速にあるべきかたちを取り戻す。雪灯り、横殴りの朝陽に焼かれて視界がにじんだ。
 あーあ。内心で自分に吐き捨てる。泣いてしまったな。
 誰もいない真っ白な空間で。
 ああ。よく知ってる。

「う、う……」

 あふれてくる。
 殺したい。
 彼女の絶望の終わりを見たい。ほんとうの幸福を贈ってやりたい。俺にしか届かない彼女のすべてを見たい。笑顔を見たい。血を暴きたい。鼓動の止まる瞬間に触れてみたい。
 どうしてこんなに焦がれなければならない?
 悠久に焦らされた恋は複雑に屈折して戻らない。
 目が眩む。いいや、立て。逃げなければ。離れなければ。こんな感情を消せないのなら走るしかない。生きて。生きてくれ。この願いだってうそじゃないんだ。
 意識して息を整えた。ばらばらになったじぶんの欠片を、丁寧に、拾い集めていく。俺は誰だ。俺は誰だ。海間日暮だ。見失うな!

(ぜんぶ忘れたって覚えてた)

(この恋が、痛みが、俺だ)

 そうだろ旧友?
 ゆっくりと、たしかめるように膝を立て、手をつき、体を持ち上げる。めまいは収まっている。体調は? 大丈夫。立ち上がれた。心は? 大丈夫。とっくに失えないものしか持っていない。
 まばゆい朝陽に背を向けた。伸びる影は――

 ふたつ。

「日暮」
「……、」

 間に合わなかった。

「やっと、見えた」

 声が、真っ白な無音を貫く。
 振り返る。
 青。
 なにより決定的だったのは、彼女が光を背に笑ったこと。
 力が抜ける。吐く息も触れた雪も思考回路も白いばかりだ。俺はなにも言えなくなってみたび膝を雪に沈めた。呼吸が、聴こえる。浅く苦しげなリズムをしていた。そして彼女もまた俺の正面にくずおれる。雪道の中腹に座って向かい合う俺たちは、端から見れば滑稽なことだろうなとぼんやり思う。
 変わらない。時間を場所をどこまでいってもなにひとつ変わることができないまま、彼女はまた俺の前に現れた。永く焦がれ続けた青が目の前にあった。澄んだ声は疲弊しきった音色で。

「つかれたあ……」
「……」

 彼女の冷えて真っ白になった肌に嫌な汗が伝っている。寒さに全身で震えているのが傍目からもわかる。彼女も薄着だったが、それよりも代償疲労のせいなのだろう。
 すべて、俺に、たどりつくために。
 うれしくないとは言えないのだから困ってしまう。

「……眠ってもいいよ」

 迷った末に俺が出した言葉が、それだ。悠久を越えた再会の、開口一番が。
 彼女は一瞬とまどったような驚いたような顔をして、そのまま揺れた頭が倒れこんで俺が支えた。まず傍らに落ちていたノートを拾って腰に差してから、あっけなく意識を落とした彼女を力いっぱい抱えあげて、歩く。来た道を逆向きに。さいわい足跡があるから迷わずに戻ることができた。数十分も歩き続けて汗だくになってけっきょく戻ってきた喫茶店。鍵なんて開けっぱなしの扉を蹴り開けて店内へ踏み込む。よく効いた暖房が暑くて仕方がないがここは我慢だ。息を整え、もうひとふんばり、彼女を抱えたまま階段を上る。腕の感覚がとっくにない。いますぐゆっくり眠りたい。俺は異能に負担を感じることはそうそうないが、重いものを運んだら相応に疲れるのだ。重いとか言ったら怒るかな。弁明するが彼女は軽いほうで、俺の筋力が足りないのだ。

「……はぁ……、」

 喫茶店トラッシー二階の居住スペース、俺に与えられた四畳半の床に、ひとまず彼女の肢体を降ろした。ずっとかかっていた重みから解放された全身に一気に血が巡っていく。暑い。シャツの上に着ていたセーターを脱ぎ捨ててから、布団を出した。彼女をあらためてそこへ運んで、毛布をかけて、やっと息をつく。
 逃げ切るって直前まで思っていたのはどこのどいつだ、俺だ。でも。彼女は俺の全力を越えてやって来た。倒れるほどの苦労を惜しまず俺のところへ来て、やっと見えたと笑ってくれた。それさえはね除けて逃げ出すほどの覚悟は、俺には無かったという話だ。だって。うれしくて。その笑みをこの眼に映せたことが、たまらなくなって。見捨て置く選択肢を頭から排してしまった。ほんの少しだけ話がしたいと思ってしまった。逃げるのはそれからだっていい。殺しさえ、しないのなら。

(……選ばない、だけだ。この殺意を)

 二人だけの町。
 とても、静かだった。
 彼女の眠る布団の隣に倒れこんで、畳に頬をつける。霞む目を苦しげな寝顔に向けた。俺はいったい何を思えばいいのだろう。彼女がここにいるうれしさとか、俺が苦しませてしまった罪悪感とか、結局逃げ切れなかった不甲斐なさとか、選べる感情はいくらでもある。けれど今はどれもぴんとこない。
 スマホやノートを投げ出して、ぼうと天井を眺めた。

「……日暮」

 と、小さな声が俺を呼んだ。声の主に顔を向けると、明るい花色と視線がかち合う。

「ん。おはよう青空」
「寒い」
「布団増やす?」
「……」

 意識の戻った彼女はまだ蒼い顔をして肩を震わせていた。毛布を引き寄せるようにしながらふらふらと身を起こしたから俺もとっさに起き上がって支える。覚束ない視線が緩慢に上がってみたび俺を見た。

「本当に日暮なんだね」
「一応そのつもりだけど」
「私が好き?」
「……。そのつもりだよ」
「かわいそう」
「な、」

 言い返そうとするや否や細腕に引き倒され布団に背をつけた。被さった毛布に混乱する間もなく全身の冷たい彼女がすり寄ってきて硬直する。震えがじかに伝わる。不安になる。この冷たさでよく意識が保てるものだ。とっさに彼女をより近くへ抱き寄せる。視線が交わるより早く、互いに力を使った。


2020年7月7日

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