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見上げた空のパラドックス
Winter57 ―side Higure―

「……水野……!?」

 俺に与えられた小さな部屋のさらに片隅で、気絶し倒れた彼はふと跡形もなく姿を消した。彼のいつも小脇に抱えていたスクールバッグや提示されたノートなんかはそのまま、店舗スペースには座席に丸めて置かれたコートもあったが、肝心の持ち主がどこにもいない。一瞬で消えてしまった。何故、と思う。可能性はいくつも浮かぶ。そのどれも受け入れられないわけではないから、気にする必要はないかもしれないと思う。彼は、今、ここにいない、認識すべき事実はそれだけだ。
 ならばと、次にやるべきことを考えた。やはりまずはノートを見ようと結論付けて部屋に戻る。気絶寸前の彼に必死の目で渡された白いノートは、表紙が新しいわりに中の紙がくたくたに柔くなっていて、短期間にずいぶん使い込んだのだろうと手に取るだけでわかる。
 ぺらり、めくると見慣れた彼の筆跡が、しかし見慣れない密度で見慣れない文面を綴っていた。白い。文字はまばらで、けれどよく見ればどうにも無意味な空白には思えない、そんなページが多い。長大な行間がいっそいちばん饒舌な、詩歌の嵐。飾らない想いの言葉。ゆるゆると、なまぬるい昼休みの落書きのようで、だのにあまりにも切実な。

「なん、だ……これ」

 内容は克明ではない。全然。こんなぐちゃぐちゃの書き方では何があったのかさっぱりわからない。けれど、わかるのだ。俺の克明すぎる記録とは比較にならないほどに、何が言いたいのかは、わかる。
 口許を押さえノートを閉じた。まだまだページはあったが最後まで読む必要もないと思った。きっと言葉こそ違えど同じことしか書かれていない。それがすべてだからだ。それがすべてだと一頁目からもうわからされてしまった。
 青い色をしていた。
 たぶん、感傷だった。
 痛い。鋭い。けれどこちらから触れようとすれば指をすり抜けるほどに柔い。水と絹を合わせたような、やさしく心地好い感触の、凶器だ。赤子を守る羊水に似た致死量の毒物。
 そういうなにか。
 味気ないはずの大学ノートの紙面、等間隔の罫線に区切られた空白のなか。ここには彼女の心がある。絶望がある。死への切望のさけびがある。俺が殺してやらなければ永久に痛み続ける傷がある。
 こんなものを見たところで、感じたところで、理解したところで、俺が生かす意志を変えるわけでは断じてない。ただ、込み上げるものはたしかにあった。それはたぶん愛おしさと呼んでもいいものだ。絶望も希死も内包した彼女のすべてへの。言葉も行動も要らない、衝動もない、静かに心がふるえるだけの愛おしさが胸に積もってゆくのだ。生きてほしいでも隣にいたいでも元気でいてほしいでも、ましてや振り向いてほしいでもなかった。知らない感情だ。けれど愛としか呼びたくない。俺にこれをどうしろと言うのだろう。
 水野が書いたのだと思うと驚きだった。こんな人心の極限に触れることばを綴っておいて、綴れるほどの感受性を持っておいて、よくああも普通に暮らせているな、というのが率直な感想だ。いいや、感受性が強い、なんてあらわすのは適切なのだろうか。俺なんかとは心の作りが根本的に違うのだろう。

「そうだ、水野……」

 スマホを取り出し、水野と栫井さんにそれぞれ安否確認のメッセージを送っておく。しばらく待ってもどちらからも返信がないどころか、既読もつかなかった。
 そうして誰もいなくなった部屋で――誰もいなくなったのは町まるごとだと気づいたのはもう少し後のことだ――俺は閉じたノートに目を落として数分だけ泣いていた。とはいえ涙を落とすほどではなく、ただじんわりと目尻の熱さを感じて黙っていただけだ。
 ああ、青空だ――。
 痛切にそう思った。

(会う必要はない)

(逢う必要は、無い)

 くらくらとする頭を押さえ立ち上がる。ノートを抱えたまま、導かれるように店の外へ出た。何故? 理由なんか無い。水野を探そうとしたのかもしれないし、ひとりの室内では息が詰まったのかもしれないし、青空をさがしに行こうとしたのかもしれない。ただ俺は事実として外に出て、そしてあまりの無音の町にすぐ異常事態を察した。誰もいない、というのは空気でわかる。経験則として。でも生きている。死んだ町のにおいはしない。人だけが、居ない。
 と、そのときようやくポケットのなかで携帯が震えた。栫井さんからのメッセージ着信だ。

『ハローミスター わたしです みんな無事に避難させました あとは任せます!でも、死なないでね』

 一体どういうことだ、なんて思えるほど無知ではない自分を恨んだ。ぎゅうと端末を握りしめて、既読だけつけておく。
 住民の避難だなんて。まるで災害と同じ扱いだ。ああたしかに、俺たちが邂逅をするなら災害になりかねない場合だってあるのだろう。つまり。この無人の町には、俺と。
 青空がいる。

「――ッ」

 駆け出した。探したいのか逃げたいのかもわからない。わからないけれど走らなければならない。俺は。青空に生きていてほしいから。会ってはいけなくて、だから見つからぬよう隠れなくてはいけなくて。でも。会いたい。
 さあ、どこへ行こう。
 真っ白な無音のさなかを、ノート一冊と感情ばかり抱えて征く。誰もいない、何も無いはずなのに今だけは自分のかたちが確とわかった。俺は海間日暮だ。
 思い出す。遠い昔に問われたことがあった。俺は何をもってして俺を俺とするか、みたいなことを。どう答えたかはっきり覚えている。二つの答えを出した。ひとつは、他者が俺を俺と認識すること。もうひとつは、青空を想っていること。旅と言う名の失恋の始まりだったあの世界で、俺ははなから答えを出していた。忘れていただけで。
 大丈夫だ。この感情ひとつあれば。息ができなくなってもいいのだ。

「……」

 力を使うのに、目を閉じる必要もなかった。白の無音を掴んで揺らす。手に取るように、なんて表現があるがもっともっと軽く身近な感覚で。光を、音を、ほかのあらゆる波を、無作為に掻き乱していく。
 自分の異能力の本質に気づいたのはいつどこでのことだったろう。光、がもちろん想像しやすいぶん最も操りやすいのだけど、やろうと思えば熱だとか音だとか電波にも手が届くのだということには何十年もかけて気がついた。ようするに、波、振動、そういう類いのものはすべて統制できるのが俺の力だ。思い描きにくいので光以外はめったにやらないし、やる必要に迫られることも無かったからすっかり忘れていた。
 まったく都合のいい記憶ばかり流し込みやがって旧友め。お前らのせいで想い人にどうどう逢えもしないのだ。覚えてろよ。これが俺にとっても最善だからって、お前らを恨まないわけじゃない。
 力の使い方なんて思い出さなければ、逃げうる可能性がもっと希薄で遠ければ、感傷に屈して逢いに行ったのかもしれない。が、今の俺はもう、逃げることを選択肢に追加できる俺だった。
 逃げるために。できることはすべてやる。
 ところで認識とは波だというのはおわかりだろうか。光も音も神経伝達も基本的には振動であるというのは。
 だからこれは言うなれば一種の創世だ。
 ほんの少しの意識で、世界をあらわす数式が急速に書き換わって震撼する。刹那に総てを白にして、黒にして、言い表しようもない根源的で単純で複雑きわまりない音が満ちる。これが事実だろうが虚偽だろうが関係ない、俺にとっては彼女にとっては今この場所が終末でビッグバンだ。無人の町のすべてが俺の干渉を受けて新たなリズムで震えている。組み直す。目を開く。歩き出す。無彩色に極彩色にでたらめな作りかけの世界のはざまに、足音と、言葉を落としていく。ご存じだろうか、空も命も言葉でできている。遺伝子が言語であるように原子もまた言語なのだ。なんて。そんな遠いばかりの話をわざわざ聞いていただかなくて構わないけれど。とにかく存在は言葉で縫い止めることができる。だから、俺の心が揺れたって異能の出力は揺れないように、名前をつけよう。俺はこれを、泣き損ねたまま彼女に背を向けたがる創世のことを、「滅び」と呼ぶ。名前の由来? 景色が似ているからだ。これでも実際に見てきたもので。
 胸にノートを抱え、造り出した滅びのなかを征く。青空はどこかにいるはずだが、こうも音と色の混沌にあっては居場所も姿もわからない。隣同士すれ違ったとしても互いに決してわかるまい。わからないようにしている。逢えないようにしている。それでも言葉を落とした。この世界をつなぎ止めるために。

「……思い出してくれたんなら、会いに来てくれたんなら、それはすごくうれしいよ、青空、でも、お前が死ぬために俺を使うなよ、そんなの、寂しいだろ、だから」

 逃げるしかない。
 逢わない。俺は。青空には。
 ひさしぶり、さようなら。元気なら、それでいいんだ。
 ノートを握る手が凍りそうに悴んでいる。精神的緊張か、軽い代償か、そもそも本当は薄着で真冬の野外にいるから冷えているのか。
 十分に遠くへ来られただろうと思った辺りで力をほどいた。自らのまわりの光だけはいつも通りに撹乱しておくのだけど周囲はやっぱり誰もいないから意味はないかもしれない。見知らぬ町中。されど雪景色は変わらぬ、まばゆいばかりの早朝だ。
 もっと、もっと遠くへ行かなくてはならない。青空から逃げるために。彼女を殺さないために。俺もまた死なないために。
 恋なんて、命の前には無意味だ。

 なんてさ、

「……日暮!」


2020年6月5日

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