見上げた空のパラドックス
Winter55 ―side Kagehiro―

 うそだ。と思う。
 いいのか?
 いいのか、海間、お前、人は殺さないんじゃなかったのか。人を生かすことが信念だったんじゃ。でもそんなことも青空がいるのなら関係がなくなってしまうのだろうか。恋とは難儀だ、価値の序列が歪んでしまうから。

「……っふ、ぅ」

 やみくもに暴れるとかすかに力が緩んで空気が入る。しかしすぐに体勢を戻され、手足がじわじわと痺れてくる。
 いやだ。海間。俺はまだ生きたい。楽しいことを見つけられるはずなんだ。まだ行ける場所があるはずだから。進まなきゃいけないから。お前の閉ざされた恋のために犠牲になってやれるほど空っぽな時代は終わってしまった。俺はもう進める。行く手が見えている、だから。でも。視界が暗くなる。四肢に力が入らなくて頭が熱い。血がわだかまっている。血が。たまらない圧迫感にああこれは死ぬだろうと思った。いいのかな。死んでもいいのだろうか。力が抜けていく。赤い。赤。

「……、っ」

 意識が落ちるすんでのところで、手が、離れた。
 呼吸が戻ってくる。

「っは、はあ、はーっ……? かい、の、ま……?」

 まだ頭を持ち上げられずにもんどり打って無様に転がった。目の前は黒と極彩色にちかちかとして何も見えない。ラジオのノイズのように耳鳴りがひどくて何も聞こえない。喉を通る空気だけがまざまざとして、ひとまず生きている自分に安堵する。
 いいやそんな場合じゃない。
 海間は?
 見えない。どこに。どんな顔をしている? 今こそ見て、聴いて、忘れない俺が書き留めなければいけないのに!

「かいの、ま、どこ……、なんも、みえねえ、」
「……水野」

 ふと海間だろう指先が頬に触れて泣いている自分に気づく。当然だ、呼吸が苦しければ反射で涙くらい出る。俺は畳を濡らしながら不確実に息をして、手足のしびれや耳鳴りやめまいの過ぎ去るのを待った。
 どこかへ飛んでいったらしい眼鏡を海間に手渡されてかけ直したのは数分もあと、そのころようやく身体を動かせるようになってゆっくりと身を起こす。

「はー……ほんと、ごめん、ずっと隠してて。俺の勝手で……お前がいなくなるの嫌だったから……」
「殺されかけていちばんに言うことがそれか」
「お前にとっちゃそのくらいのことだろ? わかってやってたつもりだよ、文句は言えねえ」
「馬鹿……水野、いま死ぬとこだったんだ。わかるよな? まだ立てないだろ。下手したら後遺症とか。障害とまでいかなくたって今ので水野の脳がどんだけ損傷したか……」

 海間は肩を縮めながら早口で言い募った。珍しく余裕のない様子で。こちらだって動揺してしまう。

「なに、加害者が心配してんだよ、キャラじゃねーだろ」
「だって」

 俺を睨む朱色が揺れて、言葉が途切れる。だって、なんだよ。その先が聞きたいけれど彼は言葉を途切れさせた。それから一呼吸置いて、

「ごめん、水野」

 静かに頭を下げた。

「お前に怒ったわけじゃないんだ。ただ、……手が、出ちゃって。冷静じゃなかった。……生きててよかった」

 衝動的で瞬間的な殺意に負けてしまった、と。そんな懺悔を耳に、目を見張る。あの海間が。意志あってのことではなく、手が出ちゃう、なんてことがあるのか。助けるほうにならけっこうありそうだが、害するほうにとなると、目の当たりにしたってなかなか信じられない。

「いやお前……怒ったんだろ、それ。わかんないか?」
「怒った。そうなのかな……」

 すっかり威勢をなくし、ちょっと沈んだくらいの声音でつぶやく彼は、どこか消え入りそうに小さい。

「そうだよ。だから、両成敗」
「なんねーって……」

 ともかくやっぱり引き金をひいたのは俺なので謝られる筋合いもないのだが、あんまりに彼が申し訳なげに小さくなるから俺はつい苦笑をした。謝罪に来たのは俺なのにな。

「……後遺症のこったら何してくれる?」
「できることなら」
「即答すんな。冗談だよ、つーか俺怒ってねえし」
「冗談じゃねーし怒るとかそういう問題でもないって……」
「うるさ。いいよ、じゃあ、町を守ってくれるか?」

 目を合わせる。小さくなっていた彼がとたんに目を強くして背筋を伸ばした。やっぱり指針さえ示されれば正しく動けるのだ。現代っ子かよ。なんだか一連のことで急に海間がふつうの年下の少年に見えてきて微笑んでしまう。

「青空に。お前の居場所は知らせた。今は俺のために待ってもらってるけど、たとえば今すぐ隠れて逃げても……かならず戦いにいくと思う。どんな手段を使ってでも。だから、守ってくれるか?」
「……わかった」

 決然と言って海間が両のこぶしに力を込めた。
 よし、と思う。これで、多少は安心材料が増えた。

「でもその前に……っと、」

 壁に手をやって、立ち上がろうとする。が、足元がふらついて、海間が慌てて肩を支えた。

「ちょ、みなのっ。無理すんな」
「ノートが」
「とってくる。鞄だろ? じっとしててくれ、安静に!」

 なんて言い残してばたばたと急いた足音が階段を下っていった。取り残された俺はポケットからスマホを抜き出して、迷わず明里に電話を掛ける。まだ寝ている時間だろうが起きてくれるはずだ、と思うやいなや案の定すぐに繋がった。ホワイトノイズのむこうに耳慣れた柔く明朗な声がする。

『おはよー。どうかした?』
「まだ施設長からなにも言われてないか?」
『……ん。言われてないよ。どうしたの?』
「本題だけ言う。市街戦があると思うから警戒してくれ。必要ならみんなを護ってくれ。そこまでのことは起きないかもしれないけど、念のため」
『また市街戦。わかった。そっちは安全?』
「こっちは大丈夫。けど手が離せないから、頼む、あか」
『了解』

 短いやり取りでも話が早いのが海間や明里のいちばんやりやすいところだと思う。特にこういう緊急時であればなおさらありがたい。平時は、常に余裕を持たれているというのもけっこう怖いが。
 ここへきてひとまずひとつ山場を越えた気がして息をついた。すると感じなかった眠気が急に襲ってきて、まぶたがずしりと重くなる。いけない。まだ眠るわけには。

『ふふ。なんか最近、信頼してくれた?』

 ふと、通話口の向こうで明里が言った。この状況でも緊張感のない気の抜けた声に、ますます思考がおぼつかなくなって奥歯を噛み締める。

「……されてないと思ってたのかよ」
『ありゃ、ますますうれしい反応だ、めずらしい』
「あーうるせえ……切るから。よろしくな」
『はあい、またねかげ』

 至って和やかに通話を終えたところで、海間が俺の鞄を持って戻ってくる。

「水野これ、鞄」
「さんきゅ。えっと……」

 渡されたそれのファスナーを引いて、ノートを一冊取り出した。海間のは青い表紙だがこちらは白い表紙の。青空の、ノートだ。

「これだ。これを、お前に」

 手にしたノートを、両手で海間へ差し出した。海間が慎重に受け取ったのが見えた。
 そこまでだった。意識が保ったのは。


2020年5月12日

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