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見上げた空のパラドックス
Winter51 ―side Kagehiro―

「どうしたら、起きるんだろ……」

 あるいは青空が起きてくれればなにかわかるだろうか、わからないだろうか。そんな期待からあいまいに溢して、病室の隅に溜まった黒い影に目を落とす。

「起こす気になったの?」
「……いや、……うん」

 青空に、起きてほしいかどうか? 起きてこの今のなにかを変えてほしい気持ちと、そのまま眠ってできるだけ関わらないでいてほしい気持ちが、両方ともたしかにあった。青空は強すぎるから、彼女が動くとほとんどかならず心が大きく震えてしまうから。そんな彼女につきあう余裕が今の俺にはない気がするから。
 海間に問いたかった。もし青空と逢えるとしたらその湿気た面はかがやくのだろうかと。無理だと言うならどうか今のままで。逢えばまた笑えると、言うなら、俺にはどうできるだろう。

「んん、どうしたら起きるだろうねえ。歌でも歌う? それとも殺してみればいい? あとは王子様のキスかな。やってみよっか、ぜんぶ」
「……最後のは無理だろ。王子様が不在なんだから」
「ふうん? 青空には王子様がいるんだね」

 紫色の狩る者の目が俺を見た。悪寒がして縮こまる。言葉尻から秘密を探られているのだとさとって胃がキリキリと痛くなった。明里は聡明だ、言ってこないだけで、もうなにもかもわかっているかもしれない。怖い。

「かーげ。どうしてもつらくなりそうだったら私が助けちゃうからね。それが嫌ならがんばることだよー。いいね?」
「き、脅迫だっ……」
「ふふん。効くでしょ?」

 それじゃあやってみるよと言って明里はもとの椅子へ戻った。俺はほっと解放された思いで少女たちを見る。ほの白い病室の光のさなか、コバルトヴァイオレットの眼が無垢な寝顔をとらえて伏せられる。息を吸う音、それからちいさな旋律が流れ出す。それは歌詞も発音も拍子も曖昧な音の連なりで、なるほど青空のたびたび口ずさむそれに酷似していた。驚いて明里を見る。青空のやわらかく澄んだ声と違って明里の声は朗々としているから印象はだいぶ違うが、確かにその旋律は幾夜と聴いた青空のものだった。

「前に聴いたやつ。まねしてみた」
「……記憶力おばけじゃん」
「もー。いちいち怯えないで誉めてくれてもいいのに」
「いや、すげえけど。すげえけどさ」

 なんて無駄口を叩きあって青空の顔を見る。

「起きないねえ。じゃあ、次だ」
「殺すのか」
「だめ? ちょっとだけだよ」

 殺すのにちょっととかないだろ。

「……信用できない。から、俺がやる」

 流れるようにそんなことを言っていた。明里が青空を殺すというのが、なにか特別なおそろしさをもって脳裏にひびいたから、どうしても阻止しなくてはと直感をした。けれど青空を放っておくという選択肢へ引き下がるには明里の脅しが効きすぎていて、打開への希求が彼女の目覚めを急かした。やっぱり殺してみるのがいちばん早くて、だったら俺がやるほうがずっとましな気がした。

「え? できる? かげ、ひとを殺したことないよね」

 心底意外な申し出だというように明里が目を丸くして気の抜けた声を出す。俺は視線から逃れるために青空の方だけを見て、少しだけ深呼吸をする。

「お前がひと殺すとこ、見たくないから」
「かげが殺すとこも私は見たくないよ?」
「どうだか……どうせ俺がどうなっても好きなんだろ?」
「おお強気にくるね。そっか、それだけやる気あるなら止めないよ」

 曇り模様に散らかった心を、深呼吸で集中させる。バスターミナルで彼女と交戦したときのことを思い出す。彼女は楽しそうで、笑っていて、けれどなぜだか胸が痛くて仕方がなかった。対峙しているのに共に踊っているような統一感と高揚感、ふたり描く軌道と冬空とアスファルト、なにもかもあざやかだった。思い出して、息を整える。黙って手を伸ばす。
 細くやわらかな髪に触れた。なにもしなくたって壊れてしまいそうで恐ろしい思いがしたが、やめるわけにもいかない。指先を側頭部に当て、さあと念じて力を込めると簡単に穴が開く。嫌な感触とともに指先がずぶりと沈んでいく。熱い。血は出ないがそれらしい温度だけはまざまざと感じる。奇妙な弾力とやわらかさも。
 眠る彼女が苦しげに息を漏らした。脳に手を入れられてその程度で済むというのもかなりホラーだ。

「う、あ」

 うめきがあがって何度か痙攣を起こして、それから固く閉ざされていた瞼が上がった。濁った青が迷って俺を見たからすぐに手を引いて、ごめん、と口にする。いつのまにか動悸がひどくなっている。うるさい心臓に歯を食い縛る。血の一滴もついていない指はしかし感触が拭えなくて背筋が冷えた。
 青空はもうしばらくぼうと俺を見ていたが、やがて意識が像を結んだようで視線は傍らの明里へ移る。

「おはよー青空。よく寝てたね!」
「……よく、ねてた……?」
「今ね、青空が眠りはじめて二週間半くらいだよ。見ての通り、かげはお陰さまで元気」

 ぽん、と明里が青空の胸元に例のぬいぐるみを置いてやりながら答えた。青空はただぼんやりとして、ぬいぐるみを両腕に受けとりつつ上体を起こす。パステルカラーの猫とじっと見つめあって、かと思うとなにやら首をかしげた。なにかが納得いかないという顔をして。

「……ねえ景広。元気でよかった、んだけど……、まず聞かせて?」
「おっ、……おう?」

 呼ばれてびくんと肩が跳ねる。恐ろしいことをしてしまった余韻が抜けないが、彼女のほうにはもうまったく気にしたようすがない。変な言い方だが、彼女は殺され慣れている。
 つい先ほど俺が穴を開けていたその頭が事も無げに髪を揺らして、瞬いた冬空の青に捉えられて、俺はびくびくしながらも目を逸らせなくなって視線を受け止める。
 そして彼女は――怯える俺にぽつりと、問うた。

「日暮は、どこ?」


2020年5月1日

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