見上げた空のパラドックス Winter40 ―side Akari― 「明里さ、下着……派手だよね」 出張で外泊するビジネスホテルの一室。青空と私と、順番にシャワーを浴び終えた、眠るまでのゆるやかな時間。 並んだとなりのベッドの上で例のぬいぐるみを胸に抱えた青空がふいにそんなことを言って、私は櫛を手に取りつつ目をぱちくりやった。 「そう?」 「いつも支給品じゃない服着てる」 話題にした通り青空はホームの支給品だろう至ってシンプルなルームウェアを着ていて、私は貰い物のロングトレーナー一枚といった姿だ。別に、青空とはホームで同室なわけだから、今日はじめて気がついたという話題ではないのだろう。たぶん青空がなにかしゃべりたい気分になったというだけの。 彼女は仰向けになってぬいぐるみを顔の前に持ち上げ、弄びながら、雑談を続ける。 「髪も肌も爪もすごい手入れしてる。早起きしてメイクしてるし、あと毎朝検温してる。女として意識高いって感じ。あ、貶してるんじゃなくてただそうだなーって話ね」 「びっくりしたあ。青空すっごい見てるね、私のこと」 「一緒に暮らしてるんだもん」 「そうだけど。私ぜんぜん見てないから」 「知ってる」 青空は、ぽふ、と持ち上げていたぬいぐるみを自分の胸元に落として、そのまま抱き締める勢いで上体を起こした。ベッド脇の椅子で髪を梳かす私に目を合わせて、 「明里、彼氏いっぱいいるでしょう? だからいろいろ気を付けてる」 「ああ、その話。ってあれ、どこで知ったの?」 「知ってはいないけど。明里の生活と学校での感じ見たら、そうかなって思う」 ひとしきり遊ばれたぬいぐるみが青空の枕元に置かれた。葉っぱや耳や手足のついた猫っぽいリンゴがゆるい表情でこちらを見る。 「あっ念のため訂正すると、誰も彼氏じゃないよ?」 「セフレ?」 「もいるし、しない人もいっぱいいるし、女の子もいるし……なんか色んな人がいるだけだよ」 青空がふと手持ちぶさたに立ち上がった。ねえちょっといじって遊んでいい? と問われたからどうぞ、と返して櫛を手渡す。座る私の後ろに回った彼女は、丁寧な手つきで乾かしたての私の髪に触れる。 「それだよ、明里、いつもすごい頑張っていっぱい色んな人と接してる。それが、なんでかなって思って」 「うん?」 「私は明里のこと、景広にしか興味ないんだろうなって思ってるから」 青空は手際よく私の髪に櫛を通し、なにかのアレンジを始める。鏡の前ではないから自分の髪型の変遷はわからない。なんとなく心地よさに身を任せ目を細めた。 パステルピンクのぬいぐるみとだけ見つめあいながら、ゆるりと考えてみる。はたして私は、かげにしか興味がないのだろうか? そう言われれば頷けるのも確かだけれど、そんなことないと言われたときでもまたすんなり頷ける気がした。私はいつでも不定形だ。 「そうだなあ、かげの邪魔にならないことなら別に断らないってだけかな。助けてって言われたら、手が空いてたらとりあえず助けるじゃない?」 「ああそっか……造作もないんだね、明里にはそれが」 納得したよ。囁いて、青空はヘアゴムをくるくるとやった。 「できたよ」 「お、なになに?」 「鏡じゃ見にくいかも。後ろ写真とるね」 「ばっちこーい」 ぱしゃ、と借り物のスマホがシャッターを切る。撮られた画像を覗き込むと、丁寧な編み上げハーフアップの後ろ姿が移っていて、小さく拍手をする。素直に上手だった。青空も私になんだかんだと言うわりに女子力が高いと言うか、かわいいものが好きそうと言うか。好きだから私のもろもろに気づいたのだろうなと思った。 「明里いつもツインテールで明るい感じだけど、こういう落ち着いたのも似合うよ」 「よく言われるー。し自分でも思うんだけどねえ。明るいほうがいいの。元気っぽいのがいい」 「それはまた、どうして?」 「どこぞの本命がいっつも暗い顔してるから」 「結局それかあ」 青空は困ったように笑って、すぐ私の編み込みを解いて梳かし直した。ちょっともったいないけど、どうせもう寝るからしょうがない。 と、髪に触れていた彼女の手が、するりと喉元に滑り込んでくる。冷たい指がぴたりと頚動脈の位置へ来て、生理的に背筋の冷える感触がする。彼女がそのまま思いきり斜め上に両手を引き上げれば、ものの十数秒で私は死ぬ。とても簡単だ。こんな穏やかな日常のなかにあるたしかな死のにおい。 「……きのうのお返し?」 「じゃあそういうことにしようかな」 後ろから聞こえる彼女の声音は変わらず穏やかなまま。微かに、ほんの微かにだけれど力が入った。気道ならあるけど頚動脈のみを圧迫されるのは初めてで、独特のいやな感覚に息を飲む。 「死ぬのは嫌だよ……?」 「殺せないよ、こんなんじゃ」 「ほんとかなあ」 じぶんの声帯の震えが、彼女の指にもはっきり伝わっているとわかる。 空気が冷えていく。あるいは私の心臓が。あるいは彼女の視線や声音が、じわりじわりと冷えていくのだ。 「簡単にひとを救うくせに――」 あなたのそういうとこ、嫌いかな。 この至近距離でも聞き逃しそうなくらいの、とてもちいさな呟きがあった。 「青空? 話あるなら聞くよ?」 「うん明里、これはね、脅しだよ」 力が強くなっている。じわじわと。焦りに似た感覚が腹の底から喉へ駆け上がり、息になって出ていく。そろそろ私も抵抗したほうがいいような気がする、気がしたときにはもう遅いような気もする。あ、ちょっと、くらくらしてきた。 耳許、彼女が笑った。殺意のいろをした声を全身が忌避して硬直する。あれ。なんでだろう。死ぬのは嫌だし怖いけれど。それとは別の感情が、ふつふつと大きさを増していく。 「私を救わないで」 「……、」 「ゆるさないで。受け止めないで。寄り添わないで。なんて、言っておかないとやっちゃうでしょう? あなたは。造作もないんだもんね、当たり前なんだもんね」 「……な……んで?」 「理由はきかないで」 「ちがう、違うんだよ、そうじゃなくて、」 しびれの出てきた手で彼女の両手を引き剥がした。引き剥がしたと言っても彼女はなんら抵抗せず手を離したので、本当に殺す気ではないようだった。けれど、声音に含まれた殺気は本物で。 彼女の手を握ったまま椅子から立ち上がりくるりと反転、顔を見る。数日ぶりに見る表情の抜け落ちた顔だ。しかし瞳に点るのは静寂ではなくて、淀みきって固まってまっすぐな刃となった、怨嗟と絶望。 「……これ言ったら殺しちゃう……?」 「……いいよ、なに」 「あのね……どうしよう。私、おかしいな。なんでだろう」 遠い気がして膝で椅子にあがって、冬空と同じ深い色の双眸を覗いた。私のそれより少し整っていない髪は、出逢って一月もするが一ミリだって伸びていない。彼女はどうしようもなく静止していて、それが、そのことこそが、どうしてこんなに。 「……たぶんこれは感動なんだ」 命とは不純だ。命とは流動だ。命とは循環だ。 うごめいている。ぞわりぞわりと絶え間無く、ひしめき、鳴いて、へばりついて、剥がれて、さらさらと、ねちねちとしている。おぞましくて汚い。 それの無い、純とした意志と感情の塊である彼女が、命を持たない彼女に宿る殺意と言う名の命への切望が、あまりにもきれいに思えて。 「青空、私あなたと殺し合ってみたい」 「……えぇ?」 「あー、マジで引いたみたいな反応するう……」 「死ぬのは嫌なんじゃないの」 「嫌だよ。すごい嫌。かげを置いてなんて行けない」 「じゃあ素直に脅されてくれない?」 「だって……」 私だって変なことは言っているけど、青空だって言っているから、おあいこだ。 「私、青空ともっと仲良くなりたいよ。だめなの?」 「だめ」 「振られたー……」 「ごめんね身勝手で。こんな形にして。はなから話さなければ、良かったんだけど」 青空がついと目を背けてベッドに戻ったので、私も椅子を降りて部屋の電気を消した。ベッドライトはふたつともまだ点いているから完全に暗くはならない。もぞもぞと布団に入った彼女はもう私のほうを見なかった。枕元に置かれたままのぬいぐるみだけはまだこちらを向いているけど。 「電気消さないの?」 「暗いの好きじゃないから」 「そっか、おやすみ」 「おやすみ」 私はなんとなくしばらく起きてスマホを眺めていた。こんな時でも会おう会おうと連絡は来る。そのすべてに旅行中だからと断るメッセージを入れていく。単調な作業は十数分と続いて、終わって、さあ寝ようと端末を充電器にセットする。 「明里、」 「うん?」 「私がここを去るときはこの子をもらって」 「……ふふ。大切にするよ」 夜が更けていく。私はすんなりと眠ったけれど、青空はさてどうだったのだろう。彼女に深く眠れる日があるなら、それは誰の隣なのだろう。過るだけの疑問はそのままで、彼女の心にはもう触れないままで。昨日までの距離のままでいればいい。とても、簡単なことだった。 ただ一瞬でも美しいものを見た。私にはそれだけでいい。 2020年3月12日 ▲ ▼ [戻る] |