[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
Winter34 ―side Akari―

 私たちはそれからすぐ青空――シアンの姿がないことに気づいて探し回った。彼女がふといなくなるのも初めてではないのだけど、以前のほとんど心をうしなったようだった彼女と今ではまた状況が違う。彼女はもう論と意思を以て動くようになっている、たぶん。でも見つからないのだ。アミューズメントセンター各フロアのどこにも、トイレにも、バスターミナルの各店にも、駅構内にもいない。電話をかけてみたのだけれど、何度ならしても一向に出ない。確かに先程、血相を変えて階段を降りていく巻き込まれた人たちを目に「みてくる」と言って咄嗟に追っていったはずだった。その人たちのうちひとりでも見つかればと思ったけれど、同じくもう見つからなかった。

「帰ったんじゃないの」

 フードにサングラスにマスクにマフラーまで巻いた、かたくなに素顔を見せないターゲットが語った。

「普通、あたしが帰れって言ったら、帰りたくなるはずだし」
「連絡もつかなくなるもんなのか?」
「知らない、やったことない」

 煩雑な駅前は真っ白な雪煙に覆われ、街灯が丸く光の霧を纏って見える。その足元で、ヒロが落ち着かない様子でうつむき、手元の液晶をにらんでいる。ずっとシアンの端末へ呼び出しを続けているが応答はないままだ。
 しかしいつまでもこうしているわけにもいかない。見切りをつけてターゲットだけでも本部へ送るのが先決だ。

「……はぁ。セン。俺はとりあえず先にミオを連れてく。帰ってシアンが見つかっても見つからなくても連絡する。連絡あるまで、お前ここに残って探しててくんないかな」
「逆じゃなくていいの? ひとりで案内、大丈夫?」
「仕方ねえだろ……頼んだ」
「ん。わかった」

 ヒロは気が重そうにターゲットをちらりと見て、じゃあ行こう、と言って駅構内へ入っていく。私は、気を付けてではなく、あんまり無理しないでよと声をかけて片手を振り見送った。
 本当に、本当に女の子が怖いのだろう、彼は。努めて見せないようにはしているけれど、ターゲットが女性とわかったとたん、あきらかに息遣いが不安定になっている。そもそも精神解放をまともに食らってかなり弱ったはずだ。それでも、彼はあのターゲットに笑みすら浮かべて真正面から挑み、信頼を勝ち取った。そうしなければ、自然、戦闘になっていたのだろうから、彼の行動はベストに近いベターだった。でも少し無理をしすぎている。

「……かげ……」

 口のなかだけで名を呼んだ。大丈夫かな。明日からも仕事だけれど。
 けれど、いまはシアンのことだ。
 もう一度、センター内も含め駅周辺をくまなく探してみる。店員に聞き込みまでして、けれどもやっぱり見つからない。どんどん全身に付着する粉雪に急かされ、捜索範囲を広げて、駆け回る。前髪を溶かしながらアミューズメントセンター周辺の小路を虱潰しに見る。
 ここで一旦ヒロに連絡を入れる。駅まわりにはいなそうだ、行きそうな場所になにか見当はつかないか、と。電車内で暇なのだろう彼からはすぐにメッセージが返ってくる。『分からんが』『きれいなものがあればそこかも』。
 駅に戻って街の地図を眺める。そうして、すぐに見つけた。

『ありがとう。探してみる』

 小走りで向かう。
 立ち入った公園はしんとして人気がなかった。冬休み真っ只中の昼下がりだけれど、風の子たちもこの雪ではわざわざ出向くのも面倒になるのだろうか。ショートブーツで雪面に穴を開けながら遊歩道を行き、凍てついた遊具を過ぎ、草野球なんかに使われるのだろう開けたグラウンドに出る。白くまっさらなグラウンドは高く旧びたフェンスに覆われていて、その向こうに、広大な湖の一角がなかば凍った姿でひろがっていた。
 冬の水面の美しさに気をとられて足を止めてから、そこに彼女がいることに気がついた。
 グラウンドの片隅にぽつんと立ってゲームセンターの袋を抱えていた。視線はフェンスの向こうの湖に注がれていて、そのまま微動だにしないから頭や肩に雪が積もっている。足跡もすっかり消えてしまうほどの時間、彼女はそこに立っていたのだ。

「シアン!」

 呼び、駆け寄る。

「すっごい探したよー、無事で良かった! ヒロは先にターゲット連れて戻ったよ。どうしてたの?」
「……セン」

 彼女は緩慢な動作でこちらへ振り返る。拍子に頭から滑り落ちた雪の塊がぺしゃんと音を立てる。真っ白な顔がこちらを向いて、思わずその体温の低さを案じて両手を袋ごと取り上げた。

「つめたっ……。ずっとここにいたの? 冷えちゃうよ!」
「平気だよ」
「平気って冷たさじゃないんですけどお!」
「あ、センは知らないんだっけ。平気なんだよ。私。これだけ冷えたらちょっとは鈍るけど、それだけ」

 シアンは曖昧に笑って両手をほどくと、自分の肩から雪を払った。

「いっぱい探してくれたんだよね。ごめんね、って、ヒロにも言わなきゃ」
「う、うん……でもなんで? 電話もでないし……」
「……、」

 雪にほとんど埋まった足を動かしにくそうに持ち上げ、彼女は数歩先のフェンスに向かい歩んだ。赤を通り越して真っ白になった指先が、金網に触れ、粉雪をかすかに払い落とす。そしておもむろに、ほんとうに唐突に――うずくまって、胸に袋を抱いたままで、金網にすがりついて、彼女は泣き出した。こらえるように嗚咽を漏らして。
 私は驚くタイミングを掴み損ねて立ち竦んだ。どうすればいいかなんていくらでも考え付くのに、どうしたのと声をかけて背中をさすってあげればいいのに、あるいは困惑したなら困惑の表情ひとつ浮かべてみせればいいのに、それさえできない自分にいちばん驚いた。彼女とふたりきりになるとどうも調子が狂うのだ。削ぎ落とされてしまう。あるいは指摘されている気がする。浅井明里というこの私がいつだって見せかけの空のフォルダーであること。
 行動に移せたのはひとつだけだった。スマホを抜き出し、通話口に向かって、「シアンは発見しました、連れ帰ります。これで業務は終了したようですから通話を終わります」と伝えて電話を切った。恐ろしく単調な声が出て、思い出した。私はそういう人間だった。

「ごめんなさい、私たぶんあなたの前では泣いても良いと思っちゃってるんだ。そんなこと無いのは、わかってるんだけど」

 うずくまった背に粉雪を受けながら、彼女がとつとつと言った。その足元で水滴が少しずつ雪面に穴を開けていく様子を私はしばらく見つめていたのだけど、冷えに促され、うずくまる彼女の隣にしゃがみこんでその顔を見た。大きな青の目は俯いたきり上がらない。

「どうしてだめなの?」
「……」
「泣きたいなら泣けば良いし、すがりたいならすがれば良いし、言いたいことだけ言えば良いし、消えちゃいたいなら消えても良いよ。私はなんにも気にしないし、ヒロが迷惑被るんならそれも私がなんとかするし、」
「あなたがそうだからっ!」

 言葉を遮った叫びと共に、どさ、と彼女が身体ごとぶつかってきて、私は雪の上に尻餅をつく。彼女は半分覆い被さるようにして、涙を私のコートの胸元にぼろぼろ落とした。なにかを、怒っている、とわかった。私はほとんど反射的に、彼女の背とうなじにそっと手を回して身を起こさせる。触れてみると普通はそうそう冷えないであろう箇所もひんやりとしていたから少しぞっとする。よく知っている死のにおい――けれども彼女はきれいなままなのだ。
 ああそうだ、きれいなのだ、彼女は。
 生も、死も、たいていは汚くて生臭いもののはずなのに。彼女だけはきれいだった。
 そう気づくとかすかに喉の奥が震えたような感覚があった。
 私の気づきなど知るよしもない彼女は、ぶつかった勢いをおさめず言葉を漏らし続けた。

「いつもあなたがそうやって許すから。救われた気がしちゃうから。救われたら終わっちゃうんだよ。終わったら、また始まったら、その前のことなんてすぐ忘れちゃうんだよ」
「……忘れちゃいけないの?」

 とてもきれいなものに触れている。
 敬虔な心持ちで、無垢な興味でそう問うた。
 彼女は涙ながらに答える。

「忘れていいことなんかひとつもなかった!」

 忘れていいことなんかひとつもなかった。
 彼女の事情なんてなにも知らなければ、突然泣き出した意味だってわからないけれど、その叫びだけで十分に察することがあった。空っぽの私はかつて自らを消すことを厭わなかった。今だって必要なら厭わない。そういう私には、忘れても構わないことしかなかったからだ。
 彼女は私の持っていない、知り得ないもので満ち溢れている――。
 遠い――。

「わからない……」

 うわごとのように、私はつぶやいた。


2020年1月26日

▲  ▼
[戻る]