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見上げた空のパラドックス
Winter33 ―side Kagehiro―

 ぐにゃりぐにゃりと景色が歪んで爆ぜた。ミキサーにかかったように細かくでたらめに切り離された認知の粒がぐるぐる回って重力と視線と血流と意識と指先と光の方向が反転を繰り返し霧散する。あ。と言った気がするがもうそれらしき三本線は散り散りになって声帯の内側で踊るばかりで言ったのか言っていないのか呻いたのか声もないのかを理解するすべはなく、音のさざなみが耳元を滑り落ちていったからたぶん這いつくばってさがしている。みつからない。なにもかもみつからない。すべてが、自と他が、境界が、意味が、存在が、もとのかたちを維持できなくなっていく。
 あ。
 受け入れたらヤバイとかいう以前の問題だった。受け入れるというのもつまり外があって内があって事物がその境界をくぐる場合において適応されうる表現でありここにこうして区別をなくしたベクトルは合算され無あるいは有あるいはその他に成り果ててしまうなら防ぐもなければ迎え打つもなくただ、ただ。見えた気がするだけの黒白赤と高音低音とモノとコトと悔恨と期待と失望と切望と絶望と羨望と寂寥とそれから。

「帰って」

 声、振動、言葉、原義が解け、意識を、判断を、感傷を捩じ曲げ、共鳴、震撼、それだけでもなく、身を打ったのは世界そのものの形だ。ゲーム台に蛍光灯に駆け抜ける電子が、換気扇にまとわりついては往来する窒素が、俺の精神だけではないこの場のすべてが意思を以て納得をした。示された拒絶に。その発生と発露に。
 圧倒的な同情。
 を、させられている。
 帰らなければならないと強く思った。ただ純粋な反応あるいは感応として。物理と心理の波を越えて。
 こんなものに抗える奴がいるなら、これだけ境界を取り払われてなお自我を保ち世界と剥離していられるのなら、それはきっと途方もなく孤独なことだ。
 それでも。
 それでも。これはただの波であって、波は、逆向きに起こしたとて相互には干渉し得ないのだから、俺たちは、理論上は、同じように俺たちの波に乗ることだってできるはずで。
 信じろ。
 異能の力比べでは信仰の強い者が勝つのだ。

「――ヒロっ!」

 刹那、背に激痛がやってきて自他の境界が急速に回復する。どす、と重い音を聴いた気がした。床に転げた身体をそのまま丸くして衝撃を受け流し起き上がると、俺の一歩前に明里が立ってミオをにらんでいた。明里が俺を蹴っ飛ばしたのだと理解すると、とたんに痛みは現実感を伴い知覚を支配する。
 痛みとは何よりも強い自己定義になる。これでもう奪われない。

「いっ……っ、つ……! センおまっ……!」
「逃げて」

 助けてもらったわけなのだがあまりの痛みについ抗議の声をあげると、表情のないコバルトヴァイオレットが悶絶する俺をひたと見据えた。

「それとも立てない?」
「……い、や」
「じゃあ逃げて。このフロアにいちゃだめ……他にいたお客さん全員、ゲームも放り出して逃げてっちゃった。青空はその人たち見に、下に」
「セン、は」
「私は平気」

 明里は冷然と言い放つ。
 平気だって?
 それほどに、彼女は、自我を閉じて――あるいは最初から開いていたのか?

「いや。俺ももう平気……お陰さまで」

 ずきずき痛む背筋を伸ばして立ち、ゲーム台の前でうつむいていたままのミオに視線をあてがう。素性の知れない風体は変わらないが、声を聞いてしまった時点で俺のなかに彼女の像は決定されている。少女であること。反射的に胸の辺りがざわつき、肩がこわばり、呼吸が短くなる。おのずから生じた恐怖が頭を締め付ける。
 戦えない。
 だったら戦わなければいい。
 まずは傍らのコバルトヴァイオレットを、まっすぐに見る。

「セン。ありがとな。下がっててくれ」
「下がる? どうして」
「言ったろ、」

 俺達は殺さないためにここへ来たんだ。
 踏み込む。
 黒いパーカーの彼女は壁際にぴったり背中をつけて縮こまった。

「そ、そんな。だって。おかしい。なんで帰らないの……?」
「ミオ」

 近づくほど怯えの仕草は強まり、眼前まできたところで彼女はずるずると座り込んだ。尻のついた衝撃で、パーカーのポケットからコインの擦れる音が響く。俺もしゃがみこんで目線を合わせる。

「友達になろう」

 彼女には解るだろう。あらゆる名前や境界を廃し、世界をひとつの波に均した彼女には、この言葉に付随した意図が、ほとんど言葉通りであることが解るだろう。
 ミオはフードの裾を両手でつかみ、いっそう顔を隠すようにして首を振った。

「何。嫌。壊さないで。あたしおとなしくしてるよ。力、悪用とかしないし。悪用してんのそっちだし。ほっといて。静かに生きさせて……」
「そういう話じゃない」
「嫌だって言ってる! きみだってあたしが暴れたら力ずくなんでしょ。命令で来たんだから。仲間にしようとするくせに、いざとなったら殺してもいい存在なんでしょ!」
「……。じゃあ喧嘩するか? いいぜ。俺は逃げ回るけど」
「はぁっ?」
「それにだ。話は逸れるが、いざとなったらお前、俺を殺さない自信あるのか?」

 問うと、目には見えないが、ミオの表情が変わったとわかる。

「な……、何……」
「異能者はそういうもん。だから殺しちまってもカバーできる体制が要るんだろ。殺すなんて誰だって嫌だし有り得ねーと思ってるけど。現実なんだよ」

 否定してはいけない。エラーも罪も罰も殺人も恋も過去も忘却も。
 否定してはいけないことがこの世には多すぎる。
 脳裏に青空の顔が浮かぶ。殺しの単語に動揺した俺に向かって見せた、諦念と慈愛のほほえみと、深い絶望を秘めた青の目が。青空は、ふつうではないが、だから何だ。そこにいた。彼女は彼女の現実を負って。今はもう遠く曖昧な過去を、ただ存在によって証明しながら。
 背中が痛む。
 ここが現実だ。

「野良だとセーフティがないわけ。運悪く公共の場で一般人を殺したら? 異能が世間に知れ渡ったらどうなる? 崇拝されようが迫害されようが、どっちにしても最悪なんじゃねえの。現実だぞ、これも。ま、こんな話は今はついででいいんだが。お前さ、人の話を聞けよな、もう一回言うけど」

 怯えの体勢を解かない彼女に息をつき。
 手を伸ばす。

「友達になろう」

 辺りはしんとしていた。アミューズメントセンター特有の騒音に近いバックミュージックはもう慣れてしまって耳をすり抜ける。背後に佇んだままの明里も黙っている。青空は戻ってこない。フロアには俺とミオと明里だけで、誰もが口を開かず幾秒を経る。
 と、ミオがフードを引き下げていた手を除け、声を発した。

「怖い」

 うん。怖いことばっかりだ。
 思わず同意しかける。
 いや、正直、俺も恐怖をこらえるのでギリギリなのだ。この恐怖はあらゆる他の感情とは独立して俺をむしばみ続ける。

「……どうすればいい?」
「とりあえず、立てば? はい」

 差し出した手が握られ、二人して立ち上がる。片手間に、ミオはサングラスを外した。真っ白な虹彩に、率直にぞっとしたが、表に出してはいけないと自らに言い聞かせる。
 俺は一歩離れてちらと背後を振り向く。明里はおもむろにスマホを取り出し、おそらくまた一瞬のビデオ通話をおこなって仕舞った。それだけ確認して、ミオに視線を戻す。

「ついて来るか? なんでもいいぞ。責任とるのはお前だから」

 白のひとみが泳いで、やがて上がり、俺の目を見る。

「……、行く。仲間には、ならないけどね」
「それでいいよ」

 返答を耳に、俺は深く息をして歩き出した。すれ違い様に明里がもの言いたげな視線を投げ掛けてきたが、取り合うには精神的に余裕がないので黙っておく。階段に向かうと、二人ぶんの少女の足音が慎ましやかについてくる。

「えっと、みおちゃんだっけ? 私はセン。よろしくね」
「嫌。……きみ、怖いよ」
「……そうかな?」
「……」

 ひとまずだ。
 ミッションクリア。


2020年1月22日

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