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見上げた空のパラドックス
Summer11 ―side Higure―

「それでよかったのか」
「わからないよミスター。いいか悪いかなんて、後からしか決められない。あとからだって決まらないことのほうがずっと多い。そうでしょう?」

 彼女は淡く笑んで答えた。俺は気を失った栫井さんの身体を両手で支えたまま、丁寧に結われた長い赤毛が揺れるさまを見つめていた。彼女は手にした栫井さんのスマートフォンをそっと鞄に戻し、アクアグリーンの目をただ地面に落として、

「人が恋を諦められるのなら、世界は滅ばないもの」

 ぽつりとつぶやいた、その言葉の意味は考えないことにした。どうせすぐに忘れるのだから。
 揺れのひどい夜行バスの傷だらけの車窓から見えるものは少ない。空港に近づけば夜も明るい町並みになるが当分は寝静まった田舎を走り抜けるから外は闇ばかりだ。代り映えのない景色に飽きても眠ろうとするにも騒がしいので、俺はただ手持無沙汰に黙っていた。
 その隣で、栫井さんがスマホをじっとにらんでいた。

「……信用していいものかな」

 長い間そうしていて、彼はふと画面を閉じ、溜め息まじりにつぶやいた。

「仕事が終わったなら帰るのは当然だからな。それについては文句ねえ。が、結局爆発騒ぎのことはなにもわからないまま追い出された訳だ? どうする気なんだか」

 そういうことらしかった。
 栫井さんが代償疲労で倒れている間にアルマが上層部とうまいこと話をつけ、結果的には仕事が丸く収まった形にして彼への帰国指令を得た。アルマが最愛の栫井さんを追い出して一人で森に残りいったいどうするつもりなのか、あまり考えたくなかった。ただ、確かなのは、俺に約束させたことについてはどうあれいつかやりに来るのだろう。
 あいつらが恋に抗えた例を俺は見たことがない。

「あいつらのことなら、信じないに越したことはないって思いますよ。でも」
「でも?」
「アルマは貴方の望むことしかやらない」
「言い切るんだな」
「……半身ですから」
「なんて?」
「いえ。でも栫井さん、『そのため』の一人任務だったんでしょう」

 能力者を安全に保ついちばん確かな方法は都合のいい人員で本人を取り囲みコミュニティを閉鎖して親しくすることだ。まずは安全な生活の確保、それから孤独にしないこと、そのうえで反逆思想を生まないこと。精神の安定を保証し、適切なストレスと充足を促し、そして友人を選ぶことによって根差す思想を調整することだ。精神的な暴発が起きないように。
 アルマに敷かれた管理体制はまさしくそれだった。ただ、彼女の生活保証と精神の調整はすべてが栫井さんただ一人に任されていたのだからかなり極端な例である。依存心を極限まで煽るやり方だ。ようするに、アルマに生じさせた彼への必然的な依存心こそ、そもそもの組織にとっての狙いでさえあった。最も扱いづらく強大な力を、組織にとって最も都合が良い人間、栫井さんに付属させることで、扱いやすくしたというわけだ。信頼を手玉にとる。詐欺師の常套手段。

「まぁ……想定内ではある。最悪殺されるくらいまでは想定してたんだ。そもそも、だから俺だった、売れない自営業の独身じゃ、殺されても社会的な被害が少ないもんでね」
「なるほど?」
「だがこの場合はどうだろうな」

 日本語でぼそぼそと言葉を交わす俺たちの声はほとんどエンジンにかき消されて他の乗客には聞こえそうもない。俺はバスに乗り込み座った時点で力を解いていた。乗り心地は悪いが、見つかりにくいだろうことだけが安心材料だった。

「想定内なのも一本とられたのも俺の方なんじゃないか。彼女はかなりのことを隠している。優位で、孤独だ。だからいつ何がどう変わるかわからないし、俺が彼女を止めることもできないだろうさ。本当は、」

 一気に言って、栫井さんはふと言葉を止めた。冷静でない自分を悟り戒めるように、片手で目元を覆う仕草を見せる。口調こそ落ち着き払っているが、少なからず動揺はしているらしい。
 俺は彼が二の句を継ぐまでゆっくりと息をして待っていた。バスが空港へ辿り着くまで時間ならまだまだある。どうせ眠れもしないのだから、他にできることもない。

「……彼女は管理を拒んだ。隠し事を持ったまま俺を追い出した。……ま、組織にはよくないことだろうさ」
「貴方には?」
「……そうだな、まだわからないが」

 栫井さんはエンジンに消え入りそうな音量でぼんやりと答え、それからおもむろに普段通りの穏やかな表情で、

「"良かったことにする"ことならできるさ。なんだって」

 そう紡いだ。
 それはそうだ。起きたことを良いと捉えるための努力はできる。結局、未来を知らない俺たちには、それしかできないということでもある。
 夜行バスは止まることなくアルマの森から離れてゆく。
 近づいてゆく。俺の探してきたものに。俺は、海間日暮はただそれを待っているから、こんな対話も暇潰しの一環にすぎないのかもしれない。だけど。彼らを無視できない理由が、俺にもいくつかはあるのだ。
 ひどい揺れを感じながらふいに目を閉じた。
 せめて青空が去らないうちは、この世界もまだ安寧でありますよう。


2020年1月15日

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