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見上げた空のパラドックス
Winter30 ―side Kagehiro―

 分厚いガラスのむこうに明里が立っている。――無菌室だ。彼女の毒をよそに漏らさないための隔離室と言い換えてもいい。毒性のモニタリング用の機械だけがぽつんと置かれた無機質な部屋から、彼女はへらへら笑って俺に手を振ってくる。俺はガラスに両手を押し当てた格好でそれを見ている。無菌室はふたつが隣り合っていてガラスで隔てられている。つまり俺がいま立っているのも同じく隔離室の中ということになる。なぜか? もちろん安全のために。
 明里はむこうで『汚染』を。俺はここで彼女の毒がガラスを溶かさぬように『強化』を。そういう実験になる。彼女が加減をたがえたり俺が気を抜いたら、俺は死ぬ、かと思いきやこちらの部屋の片隅には退屈そうな青空が座っていて、多少の失敗はカバーできる、らしい。
 というか。

「はぁ……いや、合理的、だけどさ……ちょっと……」

 やばい。これ。抵抗感が。
 心臓が不審な動き方をしていて、冷や汗がこめかみを伝っている。ガラスにつけた手が震えかけるのを、力を込めて抑えている。息を吸う。吐く。

「……こわい?」
「るせえ……いま集中してる」
「そ」

 やる気はある。戦うために必要なのだから。さすがにデータをとるくらいできなくては。少女との対峙という形になっているので、言われた通りすくみあがっている自覚はあるが、戦うというよりこれはデータをとるだけ、と自分に言い聞かせ、誰も視界に入らぬよう目を閉じる。

『では3秒数えたら開始します。実施時間は20秒です』

 アナウンスが響いた。

『3。2。1。それでは、始めてください』

 やることといったらシンプルだ。触れた箇所からガラス全体に力がしみわたるイメージ。思い描く。不変の強靭さを持たせる。思い描く。ひたすらに。
 すぐ、頭のなかに圧されるような負担感が生じて目を開く。俺の力の及ぶ領域、ガラスに彼女の汚染が触れた。押し返す。想像力によって揺るがされた現象の波が交差する。くらっとくる。神経回路が焼ききれたような、脳髄を引っこ抜かれるような、思考を抉りとられるような錯覚にあらがう。この手の現象の綱引きは、つまり、想像力の、脳神経のとっくみ合いなのだ。互いの想像と認識と現実に直接ちょっかいを出しあう。引き寄せる現象への信仰の篤い者が勝つ。

「っ、と……まっ……」

 疲れてきた。じりじりと熱のこもる頭とは裏腹に手足の冷えを自覚する。部屋の空調は暖かいくらいに整えられているから他の原因だ。力の代償。
 ガラス越しにちらりと盗み見た明里はけろっとしていた。何でもない顔で俺を一瞥して、大丈夫? と言うようにこてんと首をかしげてみせた。彼女は戦闘においても能力においても天才だ。俺はあまり大丈夫ではない。寒くなってきた。
 20秒はあまりに長くて、大きく息を吐いてみたびうつむき、手のひらに力を込める。もっと強く、完璧で、何者の干渉も受けないようなガラス板を、想像の最中からたぐり寄せてこの手に掴もうとする。科学を思考から排し、メルヘンを受け入れる。信仰の枷を外していく。純真でまっすぐな子供の心を思い出す。そうしながら少しずつ信じたいと思い描いた現実を、言い換えれば能力の精度を維持調整する。

『時間です。以上、後処理をお願いします』
「っ……はい」

 アナウンスとともにガラスに手をついたままずるずる座り込んだ。視界が、思考が、信仰が、あるべき世界のそれに帰ってくる。考えることを放棄したとたん、ガラスが元通りの強度に戻ったことだけを頭の片隅に知覚した。
 青空が立ち上がってとてとて寄ってくる。青の目が俺を覗き込む、

「立てる? ヒロ」
「……平気、」

 震えかけた息をして立ち上がると青空が俺の肩を支えた。いやたしかに有り難いのだが、こういうときの意地はできれば張らせてほしい。黙ったまま自力で歩くと自然に離れて、俺は奥歯を噛み締めて足元に力を入れる。青空は特に気にした様子もなく無菌室の分厚いドアが外側から開かれるのを待った。
 そうして実験を終え部屋を出ると、先に出ていた明里が待機室から取ってきたらしい俺のコートとマフラーを抱えて駆けてきた。

「ヒローっ。はいこれ!」
「……おう。さんきゅー」

 明らかに気を使われているのが有り難いような情けないような気がしつつ、それはそれとして寒くてしょうがないので手早く受け取り身に付ける。低下した体温はなるべく早く戻さなければただでさえ大きい疲労が重なるばかりになるのだ。
 当然ではあるが計測データは本人に明示される。その書面ができあがるまでの間、与えられた待機部屋のソファに深く腰掛け暖をとった。というか俺は寝ていた。青空と明里はなにか和気あいあいとしゃべっていたようだが、眠りの霧の向こうに遠く聞こえただけだった。

「センは代償疲労で倒れたりしないの?」
「無いねー。そんなに力使う機会ないっていうか。私の力あぶなくて不便だからさあ」
「そっか」
「シアンは? 代償。あ、ヒロの目なおしたとき、倒れたりした?」
「うん。でも慣れてるからちょっとくらい気にしない」
「気にしなよー!? ヒロがびっくりしちゃうよ。ていうか、倒れたってできるんだからすごいや。ひとを救える力だよね」
「……そうかな……使いようだよ。センも浄化のほうを専売特許にすれば。水とかきれいにできたら、すっごい喜ばれるよ」
「水?」
「あ、ううん。いまの日本じゃ必要ないけど。途上国とか」
「そういう仕事してきたの?」
「ちょっとだけ、かな」
「いいなあ、外国かあ。お仕事もらえば予算とって行けるんだよね……でも語学無理!」
「教えようか?」
「えー! こんどから宿題困ったら聞いちゃおうかな!」
「ん、学校のは私も無理。文法ぐちゃぐちゃだから……通じるから気にしないんだけどね、」

 少女たちの声は途切れることがなかった。青空がしゃべるようになってまだ二日だが、ずいぶん気が合うらしい。そんな思考はできるがすぐ押し流され霧散する、なにを覚えてもいられない、その程度の浅い眠りに身を委ねまどろむと体温はすぐに戻っていった。
 待機室に書類が届けられ、その場で今日は終了ということになった。俺は眠い目をこすって書面に記された数値を見る。数字で書かれていてもよくは解らないが、とりあえず全体的に明里のほうが成績がいいことはなんとなく読み取った。当然の、あるいは前提ですらあることの再確認だった。
 そんなこんなで帰路につく。言っても同じ団地内のささいな移動ではあるが。

「ヒロ眠そー。身体はもう大丈夫?」
「ん、だいぶ」
「じゃあ、もっかい鬼ごっこ鑑賞、する?」
「する……ふわあぁ……」
「ほんとに大丈夫?」
「いいって……」
「そう? じゃ、行こっかシアン。鬼は交代で、私ねっ」
「わかった。逃げ切るよ」
「無理無理。捕まえるまで走るから!」
「じゃあ、今から走る」
「えっ。ずるい! ちょっと待って!」
「え。おいお前ら……!」

 俺が寒風を吸って眠気を覚ましているうちになぜか少女たちが走り出した。雪煙のむこうにマフラーのなびく残照を見る。たちまち遠くなるから、突っ込みを入れる暇もなく、仕方なく俺もあわてて走り出す。いや、ちょっと! 俺いちおう寝起きなんだが! 一度に浮かんで飽和した文句をとっさに飲み込もうとして、すぐ面倒になって結局走りながら口に出す。

「おい待っ、お前らあ! 寝起きに走らすなよ!」
「ヒロも体力つけなきゃだめだよーっ。ほら追い付いて追い付いて!」
「おまっ、俺お前に追い付けたこと一回しかねえだろうが! しかも能力アリで!」
「そうだっけ!」

 空き地まで2ブロックほどの全力疾走を強いられた。僅差だったが順位に変動はなく、青空、明里、俺の順で到着する。到着したと言っても足を止めたのは俺だけで、少女たちはそのまんま再びの鬼ごっこに入った。俺は額に滲んだ汗を拭いながらその様子を眺める。
 少女たちは、ただ楽しげに、そして確かな足取りで雪を跳ね、俺には決して追い付けない速さで駆ける。
 ――はっきりと自覚する瞬間は、そうでなくても至るところにある。
 俺は弱い。
 だったら努力して強くなればいいのだと簡単に言える時期はとうに終わっている。だからか、ようやくか、少女たちの背を見ても、感傷はあれど苦しいと思うことはなかった。五年をかけて受け入れ始めているのだろうか。戦えない自分という存在を。そうならいい。そうでないのならどうするか。それを考え続けている。あるいは考えていないのかもしれない。少女たちの笑顔に流されているだけなのかもしれない。
 結論はたぶんもうすぐ出る。
 本格的に任に就くのは明日からだ。
 その日は夕食ごろまでそうして走り回って過ごした。


2020年1月12日

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