見上げた空のパラドックス
Winter29 ―side Kagehiro―
当然のことだが兵士は健康体でなくてはならない。よって、突然の戦線復帰となった俺達が最初に課されるのは健康診断である。
早朝に始まり昼過ぎまでかかった身体検査からようやく解放され、げんなりと息をついて団地へ帰ろうという車内、隣には脳波計測後に結び直すのが面倒だったのか髪を下ろした姿の明里が座っている。
青空がいないのは、俺達が彼女をホーム前で見つけ送り出した際にもうあらかたの検査はやっていたからだそうだ。検査というのは身体もそうだが異能力の測定も含む――どこへ引き取られていたかと思ったら警察でも福祉機関でもなく正しくエラー管理のもとに取り込まれていたわけだ。やっぱり。
「視力、どうだった?」
明里が裸眼の俺を珍しそうに覗きこんで問うた。これまではなんとなく明里の顔だとしか認識していなかったそれの、虹彩の細かなかたちさえよく見えるのだから思わず半身で引いてしまう。見えすぎる。まだまだ慣れない。
「両目で2.3……」
「おお、検査パネルに収まらない数値だ」
「やべえよ……五年前だってこんなには視えてなかった」
青空が言うにはこれは青空自身の目を参考に再現したついでに「盛った」結果らしい。盛りすぎな気もするし適切な気もする微妙な数値である。
「でも。めちゃくちゃ鈍ってる。止まったものがいくらよく見えてたって。距離感、立体感、動体視力とか、……こんなにわからなくなってんだなって」
それも測った。いや、測れないものもあるが、対応する検査は受けた。やることと言ったら運転免許更新に近いだろうか。戦闘だって空間の把握と移動が基礎なのだから運転ともスポーツとも要素は近い。
「わからないのに、喧嘩は強いらしいね?」
「素人相手なら目ぇ閉じてたって弱いわけないだろ。お前が鍛えたんだぞ」
「うわー、すっごい誉めてるよね、それ?」
「うるせえ」
いちいち素直にうれしげに笑われると対応に困る。彼女の笑顔から目をそむけるが、窓外を見ることはしなかった。いかんせんこの視覚に脳が慣れるまではまだかかりそうで、流れる街の景色なんか見ていたらすぐさま疲れ果ててしまうためだ。シートベルトで押さえつけられた自分の身体にだけ大人しく目を落とす。
「ね、ヒロ、私、あとで空き地で勝手に運動してるからさ、見てたら? 目のリハビリがてら」
「ああ、うん。でもお前ホームにいるうちはさすがに鍛えてなかったんだろ?」
「そうそう、私も勘とりもどさないとね」
――本当なら模擬戦を申し込む流れだったが、そうならないようにしてくれたのだから、今は感謝するしかない。
ちょっと複雑な心地で、下げたままの視線は変わらず、雪道に跡を残し駆ける車に揺られた。団地と病院とは車で20分ほどの距離で、こうして喋っているとあっという間に帰りつく。ドライバーに会釈をして降車し、ひとまず二人、俺の宿泊先へ向かう。
玄関を開けるとデンプンの焼けた匂いが鼻をついて、それから青空がおかえり、と言った。彼女はキッチンに立っていて、作りかけの昼食が傍らに三人ぶん並んでいるのだった。
「ちょっと待ってて」
「わあ、ありがと、すごい助かるよ」
「うん。それより。景広、視力どう」
「良すぎて気持ち悪ぃ」
「支障あるならもう少し下げる?」
「いやいい……下げてもどうせ同じ支障がある」
「そっか」
言いながら昨夜テーブルに散らかしたままだったノートと日記帳と筆記具を片付け、明里と席について、おのおの自分のスマホを見る。メッセージ着信など無いので適当にニュースサイトを巡回し、知識を頭に入れていく。こうしているとごく稀に同業者の起こした不自然な破壊活動がテロだか災害だかとごっちゃになって報道されていることがあり、見つけると自分だけが真相に予測をつけられるという優越感を味わうことができる。同業者は世界中にいるので別に俺が優越感を抱ける道理もないわけだが。そこは気分だ。
芸能人の新年の抱負だの初売りの様子だの戦後何十年だのと、俺にとっては退屈なニュースが画面の下から上に流れては消えてゆく。あくびを噛み殺したところで、青空が皿を運んできたので画面を閉じる。
「……さんきゅう」
「ありがとー」
「うん」
ぱちんとキッチンの照明を消して戻ってきた青空が席につき、三人ばらばらに手を合わせ食事をはじめる。あった具材を雑に切ってぶちこんで炒めただけといったおかず一品と米と味噌汁だが、見映えの質素なわりに味が良くて驚いた。この流れで俺が今晩不味いものを作ったらなんか悔しいので気を引き締めたいところだ。
「ねえねえシアンちゃん」
耳慣れねえわー。青空のコードネームだが。
呼ばれた当人は特にタイムラグもなく顔を上げ、噛んでいた一口をゆっくり飲み込んでかすかに首をかしげた。
「……、なに?」
「あとで私と鬼ごっこしてくれない?」
「いいけど速いよ、私」
「私も。じゃあお手並み拝見だね」
笑いあう少女たちを尻目に、もくもくと箸を進めた。
そんなこんなで食事を終え、三人、団地裏の空き地に出る。懐かしさに目眩がするわけでもないのは空き地全体が雪に覆われているからだろうが、え、ここで走り回るのかお前ら、と怪訝な顔をしてしまう。青空の足元は彼女があのボロボロの夏服とあわせて履いていた白いランニングシューズで、明里はもこもこしたベージュのデザインショートブーツだ。どちらにせよ、というか何を履いていたとしても雪原を走るのは難しい気がする。彼女たちはなんら表情を変えずに伸びをしているのだが。
「よし、じゃ、やるよー。私はとりあえず逃げる方ね。能力使用はナシ。ヒロはそこで見てて」
「お、おう……」
脇道のガードレールの雪を払って浅く腰掛け、空き地全体を見通す。空き地全体どころかさらにひとつ向こうの建物の壁の染みまでよく見えている。
少女たちは目前、立ち並んでちらと視線を交わした。一瞬の緊迫感が静寂を呼び、明里が大きく息を吸う。
「――スタート!!」
言いながら動いた。雪煙が舞い立つ前に青空もまたその背を追い始めた。一秒。等身大の雪煙の向こうに少女たちの影が消えてゆく。気を抜けばすぐさま見失う速さで。三秒。俺の目前からは煙が去って、だいぶ遠くなった少女たちの残像が空き地に足跡の軌跡を描くようすをしかと捉えた。若干、明里が引き離しているように見えるのは地形の把握具合の差だろうと思う。つまり誤差だ。ふたりはほとんど同速で動いていた。
「まじかよ……滑んなよ……?」
ぽつりとぼやいた。
明里はきわめて変則的な軌跡で走り、追う側を翻弄する。しかし青空もまた身軽にひょいと逃げる者についていく。そんな応酬がしばらく続いたかと思えば、今度は明里が“上に向かって”逃げた。具体的に言うと空き地を囲む高いフェンスにとり付き、両手を軸にほとんど跳び上がる形で登ったのだ。
驚いているのか考えているのか、一瞬だけ動きを鈍らせた青空は、登って追うことはせず彼女のすぐ下をキープし始める。どうせ降りてくるはずだからだろう。
そして少しの逡巡があり、明里はふとフェンスの高所を思いきり蹴飛ばして、跳んだ。華麗なアクロバットを決めて青空の数メートル後ろに着地しまた走り出す――先程よりも距離が開いた! 青空が追う。今ので明里はだいぶ息が上がっている。土地勘の誤差が埋まった。少女たちはいまや完全な同速で駆け抜ける。
またしばらく走るだけの時間が過ぎ、今度は青空が動きを見せる。雪を掴み固めたのだ。しかし投げる気配などはなく。ただ走りながら雪の塊を徐々に大きくしてゆく。もちろんタイムラグが発生するから明里との距離が開いてゆく。
「どうするんだ」
つぶやいたと同時、青空は手にした雪の塊をボウリングよろしくスローインした。ごろごろ転がった塊は明里の進路を阻み、逸らす。そのタイムラグで青空が一歩二歩と距離を縮める。壊されなかった距離感がわずかに縮み、明里の脚に力が入ったのがわかった。
五分。
みっちり全力疾走を続けた少女たちだが、結果的には青空の勝利となった。明里の――センの身体能力はやはりすさまじいが、単純に持久力の点でわずかに青空が勝っていたようだ。服の裾をつつかれ負けてジョブで俺の前に帰ってきた明里は雪景色のさなか暑そうに汗を拭っていた。青空も片手で額を拭いながらにこにことしている。
「はーっ、楽しかったあ。でも大変だ、こんなに体が動かないなんて……びっくりした。やばいなあ」
「楽しかった。私は全力だったよ」
「お前ら……」
立派なばけもんが二匹である。戦闘を考えるなら頼もしい限りだが日常を共に過ごすにはちょっと威圧感がありすぎる。俺は見ていただけなのに自然と全身に入っていた力を抜いて、深く息をついた。
「私たちの動きとか距離感とか、見えた?」
「だいたい。ちょっと見失いそうにはなったな……」
「うーんそっか。でもそんな疲れてるならけっこう目使ったってことだよね。何度もやれば慣れるかな」
「何度もやんの?」
「とーぜんとーぜん。でもそろそろ時間じゃない? 終わったらまた、かな」
言われて、スマホで時間を確認する。たしかに昼休みとして言い渡された時間が終わろうとしていた。
午後は、異能力の出力測定をおこなう。
2020年1月6日
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